ブルースノウ・ワルツ

ブルースノウ・ワルツ

ブルースノウ・ワルツ

「ブルースノウ・ワルツ」豊島ミホ(2004)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、少女、成長、野生児


※詳細なあらすじあり!未読者は注意願います。


たまたま図書館の書架で、最近気になる女流作家、豊島ミホの未読の一冊を見かけたので借りてみた。この作家の持ち味と評価がいまだ自分のなかで定まらないのだが、どうにも興味がそそられる。表題作「ブルースノウ・ワルツ」と、短編「グラジオラス」の二篇から成る。


「ブルースノウ・ワルツ」
主人公は楓という13歳の少女。研究者の父、至、社交に勤しむ母、麻亜子、家にはメイドふたりと、楓専門の教育係キューさんがいる。そして幼い頃より藤(とう)という二つ年下の婚約者が定められている。家はそれほど大きくないが、絵に描いたようなお嬢様。そんな彼女の家に、至は研究対象として野生児である子どもを「弟」としてひきとってきた。初めて会った彼は、汚物にまみれた汚れた存在であった。言葉も話せず、いや人間の言葉を「聞く」能力さえ持たない。楓の飼っていたカナリアの死骸を弄ぶ。しかし、楓はなぜか彼の存在を受け入れる。
野に育ち社会的な素養を一切持たず、至の努力も虚しく、人間が人間である文化的な能力を一切開花させない野生児。しかし雪の降った日、楓ときゃあきゃあ遊ぶなかで、彼はひとつの音を覚えた。彼の名は「ユキ」となった。
そんな至、楓、ユキの生活とは距離を置き、独自の社交的な生活を続ける母、麻亜子。娘の楓にも同じようになって欲しいと望んでいる。
つまらない大人になりたくない、ぽつりと言う楓。しかし麻亜子は冷たく言い放つ「あなたは、五年後に今言ったことを忘れてるの。この日、ここで私に向かって言った台詞は覚えているかもしれない。けれど、そこに込めたものは忘れるわ」「だって、私も忘れたもの。女だからってだけで、楽団に入れてもらえなくて悔しかったけど、もういいの」「『悔しかった』ってことしか覚えてないもの。・・」
男の価値は「顔と財力と誠実さ」で、生活は「安泰」のみを求める、社交ばかりのつまらなく思われた麻亜子も、昔は夢を持ち、そしてまた夢に敗れた人間であった。
対する楓は自ら外に飛び出す勇気も、意志も持ち合わせてはいない。至の教育によっって、野生児ユキがふつうの人間になっていくことに、自分の姿と重ね合わせ、一度は一緒に逃げようとする楓。しかしあっさり麻亜子に突き飛ばされ、失敗に終わる。麻亜子は楓をさらに突き放す「子どものうちは、ただばくぜんと未来は明るい気がしてるけど、大人になればわかるのよ。自分がつまらない人間だってこと。あんた、今それがわかりそうで怖いのよ。だから大人になりたくないのよ」「・・・今すぐ、大人になれとは言いません。ただ、奇麗ごとをこちらに押しつけるのはいい加減よしなさい」。優しく娘を諭すのではなく、真実を突きつける麻亜子。それは麻亜子自身のいらだちなのかもしれない。
14歳の誕生日の日、教育係のキュウさんの手によって飾り立てられた楓は、鏡に映る自分の姿、化粧のなじんだすっかり大人の顔になったその姿に愕然とする。時間は待ってくれない。自分が子どもから大人になっていくことを受け入れられない、いや受け入れたくない楓。そんな楓にキュウさんは言う「今しばらく我慢なさいませ。もう少しばかり、皆様を欺いてくださいな」。しかし、本当に欺くのは皆なのだろうか・・。
何も変わることなく、変えることなく定められた大人への道を歩まざるを得ない楓。誕生日の夜、楓はユキと無邪気に楽しく踊る。そして物語は終わる。


不思議な物語だった。ひとことで云えば主人公が、少女から女性に変わる、大人になることを受け入れられない物語。モラトリアムの物語といえばそれで終わってしまう。
作品のなかででつまらない大人を象徴する母麻亜子は、実は以前は夢があり、その夢に敗れた上で今の境遇を受け入れている。少なくとも一度は戦っている。その結果があるがゆえに楓には、無駄な努力や奇麗ごとではない、生活の安泰を望んで欲しい。ありふれた上流階級の物語であり、そして楓はおそらくその麻亜子の敷いた道を進むだけだろう。そこには冒険も、ぼくがいわゆる青春小説に望む、困難に打ち勝つ成長もない。それだけのつまらない話し。
しかし、そこには共感がある。つまらない大人になることを積極的に否定することも、冒険をする勇気もないカゴの鳥。つまらない人生を受け入れるだけ。それは、すべての人間が強いわけでなく、安寧のなかでもがくことしかできない人間の訴え。
彼女の人生をともに生きるはずの婚約者も、そうした生活に疑問を持つわけでもなく、いつの間にか、年上の彼女の背を追い抜いていく。
カゴの鳥を象徴するカナリアの死の代わりに、楓の生活に飛び込んできた野生児も、決して楓の生活を根本から変えてくれるわけではない。ユキと過ごす時間はいっとき彼女に無邪気な喜びを与えるが、しかし、彼女には結局、つまらない大人への道しか開かれていない。
ネットで幾つかのレビューを見た。丁度これを書いた当時、本作品の作家は大学在中であったようだ。社会に飛び出る前のモラトリアムの時期の自分を少女の姿に仮託したというレビューも頷けないわけではない。よいとか悪いではなく、理解、共感のできる作品だった。
いつものぼくだったら、主人公は勇気をもって困難に立ち向かうべき、困難を乗り越え成長すべき、と言うはずなのだろう。いや本当はそうあるべきなのだろうけれど・・。


グラジオラス」
高校生になったばかりのまに子は、幼馴染みの少年きりおに密かに想いをを寄せる。まに子の部屋の窓から見える水田で、年に一度、田植えをするきりおの姿を覗きみるまに子。そんなある日、交通事故できりおが死んだ。お葬式にも出たが、きりおとは高校にはいってからはほとんど顔を会わせる機会もなくなっており、きりおの不在を確認するすべを持たないまに子。ならば、きりおがまだいることにしよう。そうして、まに子は毎晩、家の灯りの届かない田んぼの真ん中で星空を見上げ、きりおのことを考える。
そんなある日、まに子はクラスメイトのイチトと話をした。それは出会い。その日から、まに子はきりおを想像することがうまくできなくなった。きりおを思い出にしてしまいたくない。まに子の切ない想い。しかしイチトと過ごす時間のなかで、その日が近づいていることにまに子は気がつくのであった。


想いの喪失の物語。その想いに共感はできるし、情景を思い浮かばせる描写も素晴らしい。しかし、ポイントがいまひとつ整理しきれていない。心象を描く作品なのだが、余韻といってこれで終わらせていいのだろうか。いや、これはもはや未完。もう少しまに子の想いを整理し書き込み、読者の共感を強く、具体的にする努力をして欲しい。言葉を省くこと、親切でないことが、作家の狙いなのかもしれない。しかしこれはやはり不足。決して悪い作品でないし、その痛いまでの切ない想いは理解できるのだが・・。


このふたつの少女の諦観と喪失の物語。悪くはない。しかし、積極的に高い評価を与える作品でもない。そして、また豊島ミホという作家のカラーは定まらず、ぼくは混乱する。