俺たちの宝島

俺たちの宝島

俺たちの宝島

「俺たちの宝島」渡辺球(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代(?)、小説、ファンタジー、ゴミ廃棄場、少年、お宝、搾取


「宝島」といえば、少年たちが心躍らせどきどきわくわくした、あの物語。いい年齢(とし)をして、いつまでも男の子が抜けないぼくとしては「宝島」がついたタイトルを見た瞬間、読みたいと思い、図書館に予約を入れた。果たしてそれは「宝島」とはちょっと違う、不思議な物語。ある意味、いまこの瞬間、この日本という国のどこかで(といっても、舞台は東京湾で浮かぶ島であり、(千葉県の)手賀沼の近くであったり、あるいは東京のどこかの自転車置き場であるのだが)起こっている物語であり、あるいはまったく架空の世界の物語であるのかもしれない。作家は2003年に「象の棲む街」(未読)で日本ファンタジーノベル大賞(!)優秀賞を受賞、本作が受賞後の第二作になる。表題作である「俺たちの宝島」、そしてその続編「煙の山」「千年も万年も」の中編三編からなる。


「俺たちの宝島」
舞台は東京湾に浮かぶ、巨大なゴミの廃棄場「関東甲資源貯蔵用地海上二十七号区」。そこを、そこに棲む主人公の鉄夫たちは、単に「島」と呼んでいた。「島」は首都圏から出されるゴミの再利用を目的に貯蔵用地として造成が始まったが、市民運動家の反対やら維持管理コストの増大により、いつのまに行政の管理から外れ、不法投棄の温床になっていた。そこに社会的難民、ホームレスや自己破産者などが棲みつくようになった。そうした人々の間にできた子どもが、デボネアの廃車にひとりで住む主人公の鉄夫をはじめとする、チャボやネズミ、六郎、七郎、佐治、あるいはキオミという面々であった。
彼らはゴミの山の中から「お宝」を探し、それを仲買人である猿ゲバにひきとってもらい、食料、そしてお酒と交換して暮らしていた。島には、階級を作り、親のいない子供たちを支配すると犬井という者がいた。支配する者とされる者を作り、効率的なお宝探しを行い、ぴんはねをする。犬井は鉄夫に、仲間にならないか、お前なら支配する側「兄犬」になれるぞともちかける。俺たちだって力を合わせているぞ。鉄夫の言葉に、そのやり方は気楽でいいかもしれないが、組織で効率的に仕事を行い、安定した利益を得るのも悪くないぞと語る犬井。
島に雨の日が続いた。洪水を心配する人々は、効率よくブロックを積み上げ、洪水対策を行う犬井たちのもとを訪れた。手伝うから、その山に一緒に登らせてくれ。何を虫のよいことをいう、自分たちだけでできるから、あっちへ行ってくれ。統制のとれた犬井たちの動きに反し、てんでばらばらに山を積み上げる人々は、積み上げる端から崩れる始末。
洪水の水たまりのなか、ぷかぷか浮かび過ごす鉄夫たち。
雨があがり、一人の男がやってきた。ソンナム、犬井のグループで幹部である「兄犬」をやっていたが、嫌気がさして抜けてきたという。犬井は自分ばかり楽をして、富をひとりでため込んでいる。そんな犬井に一泡ふかすために、鉄夫たちは立ち上がった・・・。


「煙山」
「島」を出て、「ケブリ山」に辿り着いた少年たちであったが、必要以上の効率を求めない鉄夫たちと、集団の効率を求めるノラたちの二つのグループに別れるようになっていた。お互いにサル、イヌと呼び合う二つのグループ。彼らの生活は「島」の生活同様に、ゴミの山の中から「お宝」を探し、仲買人にひきとってもらい、食料と交換する。
そこへ、運送会社で働く小宮山という青年がゴミの不法廃棄にやってきた。小宮山と親しくなる鉄夫たち。
価値があるものかもしれないと言われ、鉄夫たちにもらった「お宝」を、「昭和堂」という古道具屋に持ちこむ小宮山。主人は、価値はないといいながら小宮山に二万円を渡し、今度一緒に連れて行くように頼む。断り切れない小宮山は、「昭和堂」の主人をトラックに乗せケブリ山に連れて行く。そこで「昭和堂」の主人は貨幣経済を持ち込み、健康的で文化的な生活と彼の言う物質社会を持ち込もうとする。サル、イヌ両方のグループを手玉にとり、カネを稼ごうとする昭和堂の主人に対して、反抗の狼煙をあげる鉄夫たち・・。


「千年も万年も」
ケブリ山のもうひとつのグループのリーダーであるノラ。先日起こった、サルの連中の焼き捨て事件を通じ昭和堂との取引が再開され、遅まきながらカネという「何にでも交換できる万能のお宝」の価値に気づいた。このまま昭和堂の思うままではいけない、誰にも頼らず、自分たちの手で稼ぎ、全て自分たちのものにする。そして、満足度の高い生き方を目指そう。自分たちの閉ざされた世界から外へ、小宮山のトラックに乗せてもらい、でハチ公とともに都会に降り立つふたり。そこで鶴と亀と言う爺さんと婆さんに出会った。ふたりは不肖の息子のために、家をとられ、ホームレスの暮らしをしていた。そして、現代の豊かすぎる生活に疑問を呈し、自分たちが子どものころ、貧しい時代と言われた、毎日、なんとか食べられるだけの慎ましい生活で充分幸せであり、またそんな生活のできる小さな世界を望んでいた。しかし、カネがあれば便利になり、満足度の高い生活ができると信じるノラには老人の言うことは理解できなかった。
老人たちは自転車置き場の二階の隅に棲んでいたが、その一階には工藤とソンという男が棲みついていた。彼らと共に行動して、頭を使いカネを稼ぎだすノラ。そして起こる事件。そして・・。



「宝島」というより「お宝島」。ゴミのなかに埋もれる、マニア垂涎の品々が彼らの生活を支える。それが彼らの悲しい現実であり、限界。必要最低限の生活といいつつ、彼らは、都会の豊かな生活が生み出したゴミにその生活を支えられている。もし、彼らが自分の手で何かを生み作り出していく自給自足の生活であったなら、自分の手の中に収まるだけの最低限の小さな生活の幸せを訴えたとしても、力のある訴えになるのかもしれない。しかし彼らの生活は、ゴミのなかに埋もれる「お宝」が価値を持てばこそ成り立つ世界であり、ゴミがただのゴミになった瞬間に崩壊する世界。この作品について幾つかのネットの感想で、資本主義の生み出した豊かすぎる生活を否定することを語り、共産主義を是とすると書いているが、もしそうならば、必ずしも成功しているとは言えないのではないか。前提が資本主義の生み出した豊かな生活があればこそ成り立つ共産主義なんてあり得ない。豊かすぎる世界、価値観の崩壊した世界への反論くらいが関の山でないだろうか。しかしそれにしても、否定する豊かな世界があればこそ成り立つ仲間だけの小さな世界というのも強烈な皮肉だ。作家はそこを狙っていたのだろうか。
しかし、ならば、もう少し巧く話しを進めて欲しい。作家の代弁者たる猿ゲバ、あるは爺さんはあまりにも語りすぎる。また教育をきちんと受けていない筈の少年たちが語る言葉も理路整然としすぎている。結局、作家が自分が語りたいことを登場人物に語らせただけではないだろうか。それは、決して登場人物それぞれの言葉になっているとは思えない。
また二話以降も舞台と視点を変えてはいるが、テーマ、結論は同じ。もしかしたら、これは最初の一作だけで完結すべきだったのではないかと思う。
あるいは二話以降を書くならば、「お宝」をもっと掘り下げて、「お宝」の薀蓄というエンターティメントを狙うのもありか。一作目、二作目ともに、コーラの特殊な瓶とマッカーサーのライターという同じアイテムで語られたのは正直、鼻白んだ。マニアが価値を認める、種々の「お宝」を描写するのことも充分おもしろい作品になると思うのだが。


また、個人的にひっかかったのは、産業廃棄物の問題。違法のゴミ廃棄場には産業廃棄物も必ず廃棄されているはず。そんなところに棲み続けていたら、絶対に化学物質の影響を受けない訳にはいかないだろうとぼくには思われてならなかった。作家は敢えてそこに目を瞑り、ひとつの閉じられた理想郷(パラダイス)を、ゴミ廃棄場に求めたのかもしれない。しかし、あまりに現実の現代の日本の現状と重なる世界を故に、ぼくはそこが気にかかる。


正統派の文明批判小説なら、ありがちかもしれないが、彼らはゴミ廃棄場から離れ新たな自分たちの自給自足の生活を目指すはず、しかし彼らは豊かな生活が生み出すゴミの廃棄場を離れはしない。だとするならば、この作品が本当に訴えたいものはいったい何なんだろうか。読みやすい小説であり、決しておもしろくないわけではない。しかし、ぼくにはこの作品が訴えないものがわからない。


蛇足:たったひとりの女の子、キオミが存在する意味があまりなかった。青年たちが主人公ゆえにもっと活かしてほしかった。