日傘のお兄さん

日傘のお兄さん

日傘のお兄さん

「日傘のお兄さん」豊島ミホ(2004)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、恋愛、青春、ロリコン


※詳細なあらすじあり。未読者は注意願います。


ここのところ気になる作家、豊島ミホ。決して、とても好きだと言えるほど強くないのだが、どこか惹かれる。最近出された「陽の子雨の子」を読んだ際、同じ本読み仲間のゆうきさん(「わすれるまえに」)に本作を勧められた。すごくよい、と。果たして・・。
表題作で中編の「日傘のお兄さん」他、短編四編、計五編からなる一冊。



「バイバイラジオスター」
ラジオから流れる、聞き覚えのある声は二年前の別れた恋人の声だった。いっしょにいること、何でも分かち合うことがいちばん大事に思えたあの頃。でも、ノブオはしばらくほっておいて欲しいと言い、去っていった。いま、あのときのノブオのように就職活動に勤しむ身になり、初めてあのときの彼の気持ちがわかった。ふたりでいるときも愚痴一つこぼさなかったノブオ。
二度と会うことはないだろう。だけど、想いを伝えたい。リクエストハガキを何度も書き直すチセ。そして彼女のハガキがラジオで読まれる。青春の痛いような切ない思い出。


※北の街で、東京を離れ、就職活動を行うチセ。その耳に入る、ラジオの声。ちょっと「北緯四十三度の神話」(浅倉卓弥)を思い出させる設定。もちろん、こちらの作品のほうが早い発表だし、ラジオを通すDJの声というのは、ひとつの定番の設定。ありがちな物語。心に沁みるようにとけ込むが、たぶんそれだけ。よくもわるくも佳作。



「すこやかなのぞみ」
小学校の頃に出会って以来、つきあってきたナツの二十歳の誕生日。照れ屋のナツに切り出してみよう。一つ年上の涼子は一番のお気に入りのワンピースを着て、ナツと裸でじゃれあうことを夢みた。
そしてふたりで肌を合わせた。そのときナツは言う「ごめん、俺、ダメなの」。子どもの頃の病気が原因でナツはEDであった。「別れよう。我慢しているお前といられないし、他の男とやっているのを許せるのほど寛容じゃない。出てってくれ。」泣きながら家の近くまで来た涼子はナツ最後の言葉を思い出した。「不満な私とはいられない」。ナツの願いは、私を満たすことなんだ。慌てて駆け戻り、ナツに話す涼子「触って。ナツに触って欲しいの」。おもいっきりナツに触れられ幸せを感じる涼子。「気持ちよかったね!」


※この作家のデビュー作R−18文学賞の「青空チェリー」(未読)の、すぐあとくらいの作品ではないだろうか。ある意味、官能小説といってもよい内容だが、涼子が鼻血を流しながらナツのもとに戻るくだりは、深刻な問題を軽やかなコメディーに変え、好感が持てた。その手の描写も適度にぼかしており、決して必要以上の描写はない。いや、充分エッチだが(笑)。まさにこれからという若者におけるEDという障碍をうまく書ききった作品。この作品も決して佳作の枠を飛び出ないが、こういう幸せはあってもいい、いや、あって欲しい。ぬくもりを交わし合う、それだけで充分嬉しい、楽しい、そして幸せだよね。



「あわになる」
死んだものが新しく生まれ変わるまで15ケ月だそうです。高校のころ、後輩の女の子が言っていたのを思い出します。
二十四歳で私は事故で死にました。葬式で、皆が充実していた生活と言ってくれますが、それは嘘です。自分には才能がなく、でも絵を見る直感が鋭いということを、十九のとき美術予備学校の先生に言われました。絵をあきらめ、普通の大学に進み、小さい広告代理店で精一杯頑張る生活は適職だったのかもしれません。でも本当は自分をだまして、ぎりぎり生きていたのです。金の卵を見つけたとき、まず感じたのは嫉妬でした。まわりには、今の仕事で素晴らしい才能に出会える喜びを言い散らしてきましたが、それは嘘です。
幽霊となった私はお葬式の会場を離れ、黒い服を着たおじさんについて葬祭ホールにはいります。こんな小さい町で同じ日にふたつお葬式。でもそこはお葬式でなく、結婚式でした。中学の頃、大好きだったタマオちゃんの。それから私はずっとタマオちゃんのそばで暮らしています。そんなある日、タマオちゃんの奥さんである玲奈さんのお腹に光の玉がついていました。そして私に呼びかけたのです。「嶋野みずえ、ちゃん」。


※一人称の語り口が、わざと下手くそで、それが故にまた、語りかける主人公の気持ちが、訥々と胸に響く。ありがちな、精一杯生き切れなかった自分への未練と、成就できなかった中学のときの恋。
いや、しかし、幽霊になって昔想いを寄せていた彼にへばりついている主人公はちょっとこわい。一人称の語り口に誤魔化されてしまうが、冷静に考えてみるとかなり危ない。だが、タマオの奥さんの豪放磊落っぷりはもっとすごい。あきれるくらい気持ちよい。夫にくっついている幽霊気づいており、そしてある提案をする。普通、ちょっとできない優しいその提案。
でもこの作品はよくわからない。主人公の立場でだけなら素敵な小説なのかもしれない。しかし、これはいったい何が言いたいのだろう。もう少し丁寧に書き込んで欲しい。



「日傘のお兄さん」
幼稚園児だった私は、幼稚園から帰ると裏庭に行き、日傘のお兄さんと過ごすのが常だった。レースの日傘を差す色の白いお兄さんは、私がいくとおだやかに笑うのだった。そんなお兄さんも、私が小学校にあがる前にいつの間にかいなくなった。そして私も小学校にあがると同時に、両親の離婚で、母と二人で東京に引っ越すことになった。絵に描いたような貧乏母子家庭。
中学生になった。図書館の本ばかり読む私に、母は心配する。しかし、学校は学校である。運動神経と愛想さえあれば問題なくやっていける。ただ、本当に親しく付き合う友達は減っていった。中学にはいってから仲良くなったみっちゃんは「なーんか、あんたって壁があるよねえ」素直に言ってくれた。不幸せそうな顔なんか、見せられない。明るく、皆に囲まれて笑っていなくてはいけない。ただ、そんなとき、ふと私は日傘のお兄さんのことを思い出すことがあった。
もうすぐ十五になる夏休みの手前、八年半振りに現れたお兄さん。かくまってくれと頼まれた。
学校に行ってみると、ロリコン日傘男の話題でもちきりだった。インターネットの掲示板に書かれたという、その男は、真昼の公園で幼女に声をかけて、手を触っていたという。興味本位の悪意に充ちたその書き込みを見せてもらい、私はお兄さんと逃避行の旅に出ることを決意する。
インターネットと携帯電話の普及により、旅の途中でお兄さんの正体を見破るものも出てきた。果たしてふたりの逃避行の行方は・・・・。


※この作品は、若い人には受け入れられる作品かもしれない。少なくとも、子どもを、あるいは娘を持たない人たちには。
生まれつきの病気ゆえに同級生から虐げられ、疎まれていた彼を受け入れてくれたたったひとりの人。それが故に十も年齢の離れた幼稚園児だった主人公を、日傘のお兄さんは愛した。その想いは八年経っても消えることはなかった。離婚問題で両親に構われなかったひとりの少女と、ひとりの少年の出会い。純愛の物語として読むことができるなら、それはそれでいいのかもしれない。素敵な物語だと。しかし病気という哀しい事実が故としても、高校生だった少年が幼稚園児を愛し、それを八年間思い続けるということは正常な姿ではない。この部分きちんと書かれ、クリアできないとこの作品は共感できない。頭では理解できる物語のよさ。しかしこの難しい設定を、すべての本読み人を納得させるほどに作家は書き切れていない。
この物語のよさを、ぼくは頭では理解できる。しかし共感を得ることができなかった。主人公の少女がどんなに言い張ったところで、それは少女の思いこみに過ぎない。彼が色々な幼女に声をかけていた事実を作品はうまく説明していない。そこが問題なのだ。この先、主人公である彼女の思いこみと、行動の強さが、彼の性癖を根本から変化させることができるなら、彼は成長し、物語は幸せに終わるのだろう。しかし、それは難しいことではないだろうか。彼がひとりでいた時間はあまりに長すぎたようにぼくは思う。
作品ではこの先の物語は書かれていない。読者の想像する余地を残す手法。しかし、ぼくには決してこの先に明るい未来を予想できない。そうであるならば、この作品はきちんと最後まで書かれるべきだ。10年後に訪れる幸せを書いてくれないと、ぼくは困ってしまう。
そんな評価に困る作品だが、最後に主人公の友達みっちゃんが、主人公がこのまま帰って来ないのではないのかと思い、抱きついて泣くシーンはとてもよかった。そのあとすぐケロっとするのも、まさに少女。こういう描写は好きだ。



「猫のように」
四十になる主人公はある有名な日本画家の隠し子。母のもとには過分な生活費が毎月送られ、それがゆえにこの年齢なるまできちんとした就職をするでなく生きてきた。そしていつしか友人もいなくなり、行きつけのソープの女の子と、背中の丸まった母親だけが唯一の話し相手となっていた。
そんなある日、父親である日本画家の死亡の知らせ。葬式に行った母が持ち帰ったのは、父が彼に遺した唯一の遺産、日本画の絵の具。遺書の一枚目には遺産の分配が指示されていた。そして、二枚目にはただ一言「淋しい」。肉親の最後の本音を見て、恐ろしいと主人公は思う。それはもしかしたら自分の本音かもしれない、と。
日本画家には家族がいなかった。にも関わらず、主人公の母をそばに置くことができなかった。それはきっと性格のせいだったのだろう、自分と同じで、自分より誰かを大切にすることができなかったに違いない。
そのとき主人公は走った。行きつけのソープの女の子のもとに、プロポーズをするために・・。


※正直、妻を持ち、子どもを持つこの身で語るべきでないのだろうが、この主人公の気持ちはよくわかる。人は他人を自分より深く愛することができてこそ立派な大人になるのだと思う。思う、ということは決して自分にそれができていると言い切る自信がないからだ。この主人公は、父親である日本画家からの仕送りによって、働くこともせず、ただ気楽なニートの生活を続けてきた。そして人と深く関わることより、自分の気持ちの赴くままに生きることを大事にしてきた。その結果は、四十歳にして話し相手のひとりもいない人間。どこか飄々とした生き方をしてきた主人公だが、実は自分より大事な人もいないが、自分自身もそれほど大切ではなかったのではないか。人は人と関わるからこそ、自分を大切にできるし、自分を大切にすればこそ、他人(ひと)を大事にできるのではないか。
主人公の成就しなかった想いは、しかしこの年齢にして彼を成長させた、あるいは成長するきっかけとなったのではないだろうか。四十歳でも人は変わることができるのだ。



親しくさせていただいている本読み人さんには表題作の評価が高い。それは頭では理解できるのだが、やはり年頃の娘を持つ父親の身にはちょっとツライ。いかに日傘のお兄さんがよい人であっても、なかなか理解、いやこの場合は共感できない。さきに書いたとおり、この作品の最後が10年後を想像させる終わり方でなく、10年後を描いた作品ならば評価は少しは変わっただろう。
この一冊のなかでは「すこやかなのぞみ」「猫のように」を評価したい。「バイバイラジオスター」もありがちだが、喪失を前提とした書き方が、少女のひとつの成長を描いた物語として少し評価する。
そして、今回も豊島ミホを捉えることができなかった。いよいよ次は、問題のデビュー作を読んでみたいと思う。


蛇足:全てのレビューを書いたあとで思うのは「すこやかなのぞみ」の、その解体する文芸作品としてのあり方。ナイフが象徴するもの、とか。ナツは小学校の頃、すでに涼子に対し、ナイフを放棄していた。ナイフを持たぬナツを受け入れ、抱きしめる涼子とか、より深くひとつの論評が書けそうな気がする。そういう意味でも、この作品は、この一冊のなかでとくに光っている。