ヒストリアン−Ⅰ−

ヒストリアン・I

ヒストリアン・I

「ヒストリアン−Ⅰ−」 エリザベス・コストヴァ(2006)☆☆☆☆★
※[933]、海外、小説、ミステリー、歴史、ミステリー、ホラー


いいことなのか悪いことなのかは別として「ダ・ヴィンチ・コード」的と評されるタイプの西洋歴史ミステリー。以前より語っているが、ひとつの作品が分冊で発行されている場合、そのうちのひとつの巻だけをとって判断はできないというのは自明のこと。しかし一巻を読み切ったいま、「ダ・ヴィンチ・コード」より、詳細で重厚であるという印象を覚えた。エンターティメント性やスピード感には欠けるが、その分書物を読んでいるという気分にさせられる。たまたま忙しい時期に読んでしいるが、時間の余裕のある、例えば秋の夜長にゆっくりゆったりと読むのに向いている、そんな作品。尤も、ホラーも少しだけはいっているので、眠れなくなってしまうかもしれないが、。


物語は主人公たる私の歴史学者として、36年前に経験したある探求の旅について語り、残しておきたいという2008年に書かれた前書きから始まる。
1972年アムステルダム。主人公、私は、幼い頃母を亡くし、家政婦のミス・クレイに育てられていた。父はある財団の研究者で、家を空けることが多かった。そんなある日、出張で家を空けていた父の書斎で主人公は一冊の本と多数の書簡を見つけた。「親愛なる、そして不運なるわが後継者へ」で始まる1930年のオックスフォードで書かれた宛名のない多数の手紙。一通目の手紙には、この手紙を読む者は、残念ながら、この手紙の書き手が経験した、邪悪な体験を継承するだろうと書かれていた。
そして広げると、まん中あたりに竜の木版画の挿絵のみの、残りはまっ白な頁が続く一冊の古い本がともにあった。
旅先から戻った父親に、次の出張に連れて行ってもらうことをせがむ主人公。そして父親に同行した旅先で、先に見つけた本のことに尋ねる。その瞬間、父親の顔に浮かんだのは哀しげな表情。それはある運命とも言える、主人公の、歴史に隠された「謎」を探求する、時代を超えた長い困難な旅の始まりだった。


この作品、出版された二冊を通し、表紙見返し、帯ともに『「竜の本」を巡る歴史の謎を求めるヒストリアン(歴史家)の物語』としか書かれていない。つまり、主人公たちである「ヒストリアン」が、この作品で探求する「謎」について、この本の販売施策では敢えて触れない。このことはとても重要で、かつ成功している。
おそらく、この「謎」を少しでも表に出したら、その名前だけでげんなりして手を出さない本読み人は多いと思われる。この作品は、扱う「謎」の持つ大衆性、通俗性とはかけ離れた重厚な探求の旅を描いている。徒にその「謎」自体をドラマティックに扱うことなく、あくまでも地道に「謎」を追い求める主人公たち。
もしあなたがどこかでこの作品の扱う「謎」が何であるかを知ってしまっても、決してこの本を敬遠する必要はない。この作品は充分読むに耐えうる作品である。まだ、一巻だけしか読んでいないうちに言い切ってしまうのは乱暴かもしれないが、とても面白く読める作品である。
また、この作品は物語を読む本である。故にいつものような詳細なあらすじも敢えて書かない。ぜひ何の前知識もなく、この作品に触れて欲しい、この世界に入り込んで欲しい。


作品は三つの旅の物語が交互に綴られ進む形式。それらの旅は、竜が描かれた一冊の本をきっかけとした、歴史の謎をめぐる探求の旅。ひとつめの物語は、この作品の語り手である「私」が語る、30年ほど前の現代の物語。父との旅で物語りを聞き、失踪した父と歴史の謎を求める物語。ふたつめは、ひとつめの物語で少女だった主人公が、父と行う幾つかの旅のなかで聞かされる、あるいは残された書簡で知らされる、さらに20年ほど前の若き日の父の探求の旅の物語。そして残るひとつは、その若き日の父を探求の旅に誘った、さらに時代を遡る、父の指導教授の若き日の探求の物語。これも、若き日の父の物語のなかで、父の言葉、あるいは書簡を通じて語られる。三つの物語は、回顧譚の形式で、一番古い物語を核に、次の時代の物語にくるまれ、そしてさらに次の物語(現代の物語)にくるまれる、入子型の形式。


正直ぼくは地理、歴史に疎い。特に世界史、世界地理はかなり苦しい。横文字は苦手、人の名前、地名のカタカナは、文字、言葉というより記号の形で認識する。きちんとした名前さえ覚えられない。(そう言えば主人公に名前って、あったっけ?)。そういう意味でこの作品が描く現代(といっても30年ほど前)のヨーロッパや、さらにまたそこから20年ほど前のトルコや東欧の詳細に描かれる旅の風景はただ頭を素通りしている。それでも、主人公たちがトルコで、あるいはハンガリーで食べる土地の料理や、パリの北駅で買うサンドウイッチには心惹かれた。
本書に書かれた旅を(個人的資質の問題で)きちんと楽しめていないということは、この作品の持つ魅力を心底楽しんでいるとは言えないのかもしれない。しかし、それでも物語の本流の流れからすると無駄とも思える、これでもか、これでもかと書かれるこれらの叙述を否定するつもりはない。これはそういう作品。入れ替わる主人公たちの書簡と、モノローグによって進む物語であり、彼らが見たこと、あるいは感じたこと、それがどんなに些細なことであっても、彼らと同化して作品の世界に入り込めれば楽しい世界だ。


とはいえ、さきに述べたとおり、第一部は父親が16歳の主人公に、若き日のある事件を回顧して語るスタイルなのだが、これが一度に話してくれない。主人公を連れて出る幾多の旅の先々で、その物語を切れ切れに語る。そういう意味で、最初のエピソードを知るために、読み手は必要のない旅の同行を余儀なくされる。旅の同行がこの小説の魅力のひとつにしても、これは正直骨が折れた。そしてまたこの物語を綴る大量の書簡、これほどに詳細な書簡ってどうよと突っ込みを入れたくなるほど。いや、これは小説のスタイルなのだから突っ込みは無用なのだというのはわかる。しかし、巻き込まれ、探求する「謎」の重大性を考えると、シャツがくたびれていたとか書いている余裕なんてないだろう、とか思う部分、多々。書簡でなく主人公たちのモノローグだけで進めてもよかったのかな、という話しは些末なことであるが、少し気になった。

重厚な作品にありがちな、前半は壮大な序章という感じの第一巻であった。500頁弱でまだまだ序章。物語は、続く二巻で大きく展開する筈と信じたい(苦笑)。第一巻は一部と、二部をから成るが、少なくとも冗長と思えた第一部に比べ、第二部の物語の進みは早かった。一巻、二巻それぞれ約500頁、計1,000頁近い物語。後半である二巻に期待する。期待に違わぬ物語が展開されることを祈りたい。


蛇足:しかし、標題でもある「ヒストリアン」と片仮名で表記される言葉には、何か大きな意味があるのだろうか。本文においても「歴史家」に敢えて「ヒストリアン」とルビをふるが、どうもこの言葉に違和感を覚える。危険を顧みず、歴史の謎を追い求めずにはいられない歴史家(ヒストリアン)というものの習性について、もっと言及してくれればまた違うのかもしれないが、。
蛇足2:映画化されるらしい。もし作品の雰囲気をきちんと伝えることができる作品ならば、ちょっと期待したいところ。でも、そうすると物理的にも冗長な映画にならざるをえないかな?