トーキョー・バビロン

トーキョー・バビロン

トーキョー・バビロン

「トーキョー・バビロン」馳星周(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、サラ金、ヤクザ、フロント企業、女


長編である。今月は内容はともかくページ数のある小説を結構読んでいる。しかし、ページ数=内容の濃度(密度)ではないなぁとつくづく思わされた月でもあった。本作も正直、冗長を感じた。もう少しきりりとまとめられたのではないか。週刊大衆に一年半連載していたようだが、これは一冊の本にして出版にする際もっとばっさり切ってもよかったのではないか。
ネットのレビューを覗くと評価は賛否両論。個人的にはネットの知人でもあるすみたこさんの言う、新堂冬樹との区別がつかないに同意。後半からの話の展開以前は、どうも新堂冬樹(黒新堂)の作品を読んでいるような気分で仕方なかった。これ本当に馳星周?と思いながら、だらだら読んでいた。長く、そしてスピード感に欠けた作品。


宮前佳史、以前はIT長者の一人として、自らの開発したセキュリティプログラムをもとに会社を設立した時代の寵児であった。しかし暴力団ののフロント企業に目をつけられ会社は倒産、莫大な借金の肩に暴力団のために働かざるを得ない状況。稗田、宮前と同じ大学の同級生。宮前は学年一の秀才だったが、稗田はサッカー部のエースだった。しかしサッカーで食べていけるほどの技術であるでもなく、暴力団に身を寄せることに。そんな二人が出会ったのは、稗田が出されたフロント企業。宮前が暴力団にいつまでも使われていなければならない身の上を苦々しく思うのであれば、稗田は組の本流から外れたフロント企業に出されたことを苦々しく思っていた。二人に必要なのは巨額な金。
そして二人が目をつけたのが、新宿のカジノで負け続けている中堅金融会社ハピネスの総務課長小久保光之。あいつをダシにして、ハピネスから大金をひねり出してやる。
六本木の高級クラブのナンバー1である紀香は、肝臓を壊して入院を余儀なくされた。客と飲むことでナンバー1の地位を築き、保持してきたが、身体ひとつ壊せば先行きが怪しくなる、そのことに痛いほど気づかされた。そんな紀香に以前の客、宮前が協力を求めてきた。小久保という男を騙すのを手伝って欲しい。
中堅金融会社ハピネスには、黒い噂がある、そこをつつけば大金が手に入る。ハピネスの総務課長小久保はハピネスの闇渉外に当たる役割。そんな小久保から上手く情報を手に入れさええすれば・・。かくして、宮前、稗田、そして小久保のチームが生まれた。しかしチームのなかにも駆け引きが生まれ、互いの足元を掬い合う。予想もしない裏切りが、新たなライバルを生む。それぞれが夢を思い描き、進む計画。どこかでボタンを掛け違い、崩れていく夢。最後に笑うのはいったいだれだ。


ぼくの馳星周のイメージは、やはり新宿歌舞伎町を舞台にしたアンダーグラウンドの暗さを秘めた裏社会、そしてやはり違法在留外人たちの鬱屈さを秘めた、不屈な生き様だろうか。しかし今回の作品の登場人物は全て日本人、それぞれに鬱屈したコンプレックスを持ちながら生きているのだが、ぼくのイメージする馳作品に必ずあるはずの暗さが感じられなかった。逆に、お互いがそれぞれに騙しあおうとする姿は、あたかも洋画のコンゲームのような爽快さすら感じられた。確かに暴力や、圧迫されるような脅威はあるが、従来の作品ににじみ出ていたような陰惨さや、闇社会の持つ暗さにはほど遠い。したたかに相手を出し抜こうとする姿は、いままでにない明快な強さのようなものを感じた。これはちょっと馳星周のイメージではない。
物語は、終盤になって不用意に残した痕跡や、あるいはちょっとしたボタンの掛け違いで起きてしまった事件により、それぞれが計画し、思い描いていた予想図をどんどん崩壊させていく。その様子は、中盤に感じられた明るい希望を打ち砕く。まさに暗雲立ち込めるように翳と暗さが増していき、それぞれが絶望へ転がり落ちる姿が描かれる。そうしたなかをじたばたと足掻きながら、活路を見出そうとする者たち。ここにきてはじめて馳星周という作家のイメージに重なりはじめる。しかしあともう少し卑屈さというエッセンスが欲しいところ。
もちろん馳星周という作家もいつまでも、違法残留異邦人をテーマにした作品ばかりを書いてはいられない。どこかで、少し別な世界を描き、作家としての幅を広げなければいけない。それは理解できる。しかし、馳星周らしさというものががにじみ出てこない作品、それもどこかで聞いてきたようなストーリーでは、ちょっと評価に辛くならざるを得ない。仮にどこかで聞いたようなストーリーであれ、そこに馳星周らしさ、馳星周というスパイスがあればこそ読者はついてくるものだ。例えていうならばこの作品は、馳星周という独特な味わいが評判のレストランに行き、出てきた料理が、期待したものと違った、ファミレスの料理と変わらないものだったという感じ。「あれ?料理長、味変わった?」。たとえ店の味が変わったとしても、そこに客をひきつけるだけの何か、その作家に見合う「味」があれば客はついてくる。客が変わっても、「味」さえしっかりしていれば新たに客がつくだろう。しかし、また「味」はその店にに見合うものでなければならない。寿司屋の店主が突然フランス料理を始めても、おそらく十中八九その店は廃れるだろう。
(って、書いてみると新堂冬樹ってどうなのだろうかと思ったが、あれは新しい店の読者が古い店を知らないという稀有な成功例だろう)


いや、決してこの作品がひどいという訳ではない。作家が違えば、多少、冗長を感じないまでもないが、決して評価に耐えない作品ではない。しかし、馳星周という店の味と考えると、彼の味とは思えない。
本作品の評価は、読み物として読む分には及第、しかし馳星周の作品として読むにはは失格というところか。


蛇足:最近、行きつけの贔屓にしてきた幾つかの店(作家)の味が、どんどん変わって来たように感じられて残念。味が変わるのは、実は店が生き抜くために必要なことで、変わる味についていけない客の方がいけないのだろうか。
志水辰夫が「うしろ姿」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/32888977.html ] のあとがきで、自分の書いた小説が、もはや過去のものであり、過去のスタイルであると述べ、「この手の作品はこれが最後になります」と記したことがふと思い出された。
彼らは新しい味を求めてどこへ行くのだろうか。そして行き付けの店を失ったぼくたちはどこへ行ったらいいのだろうか。