顔のない裸体たち

顔のない裸体たち

顔のない裸体たち

「顔のない裸体たち」平野啓一郎(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、現代文学、出会い系、露出、ネット、バーチャル


決してオススメではない。しかし、問題提起という点から是非読んで欲しい一冊。


平野啓一郎という作家のことをぼくは知らない。「日蝕」で芥川賞を受賞しているらしい。
これは文学作品なのだろうか?客観的な三人称で訥々と語られるある中学女教師の物語。


何もない、日常の生活が淡々と続くなかで、30代の平凡な一人暮らしの独身女性はふとしたきっかけでネットの出会い系サイトを通し、ひとりの男性<片原盈>と出会った。彼女にとってこの<出会い>は現実の自分<吉田希美子>と切り離された、ハンドル<ミッキー>というニックネームに仮託された架空の女性の生活の一部であった。そこには中学女教師である<吉田希美子>は存在せず、ただあるのは肉体の交わり、性の交歓だけであった。しかし、ある日彼女は自分の裸体が、その男、ネットでは<ミッチー>と名乗っている男の手によって晒されていることに気づいた。男に懇願され、自分たちの性行為を撮影するようになっていたが、その映像はネットのサイトに投稿されていたのだ。顔にモザイクをかけられた自分のその裸体には多くのファンがおり、他の同様の写真と比べても飛躍的なアクセス数を誇るものであった。そのとき<吉田希美子>は、もうひとりの自分<ミッキー>が、大勢の男性の<性欲>の対象となっていることに気づいた。そしてそれは年少来、自信のなかった自分に対し大いに自信を持たせることとなった。そして<片原盈>でなくても、快楽を求める性交だけの相手なら、もっとマシな男を探すこともできるということに気づく。
そのことは<ミッキー>と<片原盈>の<関係>を変えた。<片原盈>との性関係の場面となれば、あれほど潤ったはずの身体が、初めてのSMホテルでまるで潤わなかった。<ミッキー>の変化に気づいた<片岡盈>は、あるいは、それだけではなかったのかもしれないが、<ミッキー>に対し「結婚」を口にする。しかし<吉田希美子>にとって<ミッキー>は<ミッキー>だけの存在であり、<吉田希美子>の生活に関わってはいけないものである。このとき<吉田希美子>は<片岡盈>との別れを決意する。そして、事件は起こる。


物語は、平凡で真面目な女教師が、ある事件をきっかけに、出会い系サイトで知り合った男性の手によりネットでその裸体を曝け出していることが公にされたところから始まる。「まさかあの人」が、とお決まりの台詞が似合うそんな光景。第三者の客観的で冷静な作家の目は、その女教師の幼少まで遡り、その半生を追いながら、彼女がなぜネットで裸体を曝け出し、そしてそのことが公になっていったのか、その事実を淡々と描いていく。
ともすれば「女教師の堕ちていく姿」と表現されそうな事象を、敢えて主観を廃し冷静に描くことで、現代のひとつの姿を浮き彫りにする作品。<ミッキー>であった<吉田希美子>の不用心さは、<ミッキー>に仮託した自分であるがゆえに<片原盈>を平気で<吉田希美子>の部屋に招き入れる。この作品のテーマは、モザイクで隠された自身の裸体をネットで晒された女性ではない。ニックネームという<仮面>をかぶり、ネットという<バーチャルな世界>を通じて自分を表現することで、あっさりと<現実>の自分を分離し、<理性>とか<常識><良識>を簡単に乗り越えてしまう人の姿にある。<現実の自分>を知る人がいない世界では、人は自由に、奔放になれる。しかし<本当の自分の姿>とは何であろうか。「出会い系サイト」はきっかけにすぎない。わかりやすく性的な部分のみを取り出してみた作品ではあった。しかしその実、この作品のテーマはネットで「ハンドル」という仮面をかぶる我々にも当て嵌まる部分が多分にあると思う。露骨で生々しいな性描写についてはいかがなものかなと思う反面、その性的な部分を乗り越えて、ネットを彷徨う人々に読んでほしいと思う一冊。
我々がネットを通し表現する自分とは何か?今一度、自分に問いかけてみたい・・。


蛇足:しかし、正直読み難い一冊だった。ネットでは30分で読んだという話も見かけたが、個人的に合わないのか、この薄い一冊に一週間くらいかかってしまった。
表紙の、モザイクをかけられた裸体の肌の色の生々しさが、決して通勤電車では読むことを許さなかったも大きいのかもしれない(苦笑)。
蛇足2:その意味で<片原盈>は、架空の人物との対比にあるのかもしれない。過度に性的な行為に於いてのみにしか、現実の自分を繋ぎ止められない哀しい男の姿。