無痛

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無痛

「無痛」久坂部羊(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、医療、刑法39条、ミステリー



高齢者医療問題を深くえぐる、現代の奇書「廃用身」でデビュー、続く「破裂」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/5217833.html ]でも、高齢者医療に対し鋭い問題提起を行なった、現役医師でもある久坂部羊の三冊目の小説「無痛」。今度はどんな奇想天外な物語を見せてくれるのだろうと期待をして読んだ。しかし残念ながら、あまり驚くところもないごく普通の作品に終わった。
物語は、患者の様子を深く観察することで、その患者の病気、そしてその病気が完治できるものなのか、そうでないのかが判ってしまう医師の話と、刑法39条、心神喪失による犯罪については罪を問われない問題という大きなふたつのテーマを扱う。



賛否両論はあろうが、今までの作品と同様に作品のなかで久坂部羊は、完治が見込めない患者に対する治療の継続について大胆な提案を行なう。助からないとわかっている患者に対し、無理な延命を行なうことが本当の医療なのか。そしてまた医者は本当に治療に携わっているのだろうか、人の持つ治癒力に拠っているだけなのではないか。前者は先に発表したふたつの作品において「高齢者」という対象に対して行なったものと本質的には同じ。後者は、人間の持つ治癒力の強さを理解することで、医者はもっと謙虚であるべきだという提言。しかし、問題提起のためとはいえ、いわゆる延命治療全般を無意味なものと書いてしまったのはやはり乱暴だなと思わずにはいられなかったし、そして残念なことに、結果としては乱暴なだけに終わってしまった。
個人的にはあくまでも小説としてだが、問題提起をするとスタイルのひとつとして、この書き方はありだと思う。分かりやすい構図を意識し、この作家が確立しつつあるスタイルであるとも思う。作家もこの辺りはかなり意識しているだろう。かなり乱暴な書き方で、まさに賛否両論を呼ぶことを意識しながら書いたのだと思うし、またそう思いながら読んだ。つまり問題作を楽しみながら書く作家と、問題作を楽しみながら読む読者。そして、この重大な問題を作家はどうまとめていくのだろうか、それを期待をして読んでいた。しかし、それは二作目の「破裂」にも同じ思いを抱いたのだが、読後感は軽い失望。久坂部羊はこの問題提起を問題提起で終わらせ、作品のなかで決して自らの結論を語らない。結論はあくまでも読者に委ねるかのごとく。それはこの作品で触れるもうひとつの問題、刑法39条についても同様。もちろん、読者に結論を委ねるという小説のひとつのスタイルがあることは充分理解している。しかしこの作品でそれを問題とするのは、読者に結論を委ねるにしては、乱暴に書きすぎている。丁寧でない。もし読者に結論を委ねるのならば、読者が検討を行なうに足る材料をもっと提示する必要があり、また提示する材料も、もっと公平なものにすべきだと思うのだ。
結局、重大な問題提起であったはずのふたつの問題が、前作のレビューでも触れたように、ただ物語を進めるための小道具に終わってしまったのではないかというのが、正直な感想となった。そして読み物としても、中途半端にふたつの問題を扱ったがゆえに、焦点のぼけた作品に終わってしまったという印象も拭えない。
「破裂」のレビューで「久坂部羊は彼のオリジナリティーとして、医療における問題提起を武器にすべきだ」と書いた。現役医師として現場で抱えるこうした問題を、あくまで小説のなかの出来事として、もっと乱暴に、声高に叫び、賛否両論はあれど、読者に考えるきっかけを与えるための(乱暴な)結論を提示することがこの作家に求められるアイデンティーである。この三作目の小説を読んでぼくは確信した。しかしその確信とは反対に、逆に第一作から追っていくと、どんどん小さくまとまっていく印象を覚える。このまま普通の小説家、下手をすれば読み物作家になってしまうのなら、「久坂部羊」という作家に存在価値はないと乱暴に言ってしまおうか。個人的には「廃用身」という奇書に出会った衝撃、驚きは忘れられず、その意味で、普通の作家とはちょっと違う「久坂部羊」という作家に期待する。



神戸港を一望できる坂道の一軒家で、一家惨殺の事件が起こった。夫婦と五歳と三歳のこどもが鈍器のようなもので撲殺されていた。そのあまりに凄惨な死体を調べた法医学教授は、犯人に人格障害の疑いが強いとコメントした。その言葉を聞き、捜査員のあいだには重苦しい空気が流れる。もし犯人が情緒性の障害を持つならば、逮捕をしても有罪は難しい。
刑法三十九条「心神喪失者の行為は罰しない。心身耕弱者の行為は、その刑を軽減する」
古アパートの一室で開業医を営む為頼英介。彼には人を見るだけで、いや詳しく観察することで、その人が持つ病気が示すわずかな特徴を捉え、その人の病気、そしてその病気が治るものなのか、そうでないのかまで診断できる稀有な能力の持ち主だった。そんな彼がタクシーの中に置き忘れてしまった財布を拾ってもらったことをきっかけに、女一人で子供を育てる、精神障害児の施設に勤める高島菜見子と知り合う。ある事件を通し彼に助けられた菜見子は、自分が面倒を見ている神経症のこどもを彼に診てほしいと頼む。そのこどもは、神戸の一家惨殺事件は、自分がやったと言うのだ。
為頼英介の診断では、そのこどもは人殺しの犯人ではないというものだった。しかし新たな証拠が発見された。それはあたかもそのこどもが犯人であることを示唆するかのような証拠であった。そして、こどもは失踪する。いったい、真の犯人は?そして為頼英介の能力とは?
一方、為頼英介と同じ患者を見るだけで診断できる能力を持つ、最新の病院施設白神メディカルセンターを経営する白神陽児は、日本の医療制度の悪平等に対して風穴を開けるかのごとく、新しい医療サービスを提供していた。それは、法と法と隙間を縫うようなという意味では「灰色」なものであったが、ある意味、医療でもお金さえ払えばさらに高度なサービスを受けられるというものであった。しかし、それは決して拝金主義のそれでなく、患者の求める要望に応えるものでもあった。そんな彼の下で働く「イバラ」と呼ばれる男は、先天性無痛症であった。無痛症とは「痛み」を感じることができない症例で、自らが傷ついても気がつかないことが多く、それがゆえにけがをしても治療が遅れるケースが多く、この障害をもつものの多くが重度の間接障害で歩けないことも多いという。
そしてまた物語には、菜見子の別れた夫、佐田が登場する。最初の夫を事故で亡くした菜見子は、幼い祐輔のために父親が必要であると、お見合いパーティーで知り合った男と再婚をしていた。その男が佐田であった。一緒に暮らしてみて佐田が結婚に向いていない男であることを知った菜見子は、佐田が祐輔に対し暴力を振るったことをきっかけに離婚したのだ。菜見子を暗く執拗に追う佐田。彼は刑法39条を逆手にとり、利用しようとしているのだった。



種々の小道具(テーマ)を用意し、読者の興味を惹きつけるまではよかったのだが、そしてそれらはまさに読者が考えるための問題提起であったのだが、さきに述べたように作品なりの結論きちんと提示されていない。そのため、悪く言えば食い散らかされて終わったという印象が残る。こういうミステリーの楽しみのひとつに謎がすべて明かされ、それらが寸分の狂いなくぴったしとおさまって行く様子を見るというものがある。もちろん収まりすぎて、ちょっとどうかと思うような作品というのがないわけではなく、それがゆえにあえてすべてを収めず余韻を残すという手法もあるのだが、本作は無理やり最後に帳尻を合わせてしまったような感じがする。
この作家の提示する問題は、とても乱暴で、しかし根源的な問題である。再度述べる。これからもこの武器を持ち、そして今度こそうまく使い、作品を発表して欲しい。期待の作家だ。



蛇足:「白神メディカルセンター」は、房総にある高医療サービスを標榜する「亀田メディカルセンター」[ http://www.kameda.or.jp/ ]を想起させた。ある意味、「亀田メディカルセンター」は、ひとつの医療サービスの理想の姿である。