風に舞いあがるビニールシート

風に舞いあがるビニールシート

風に舞いあがるビニールシート

風に舞いあがるビニールシート森絵都(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、短編集、直木賞受賞、女流作家


「愛しぬくことも愛されぬくこともできなかった日々を、今日も思っている。大切な何かのために懸命に生きる人たちの、6つの物語。 」(オビより)
「器を探して」「犬の散歩」「守護神」「鐘の音」「ジェネレーションX」「風に舞いあがるビニールシート」のそれぞれ独立した六篇からなる短編集。


ぼくは女流作家が苦手、短編小説が苦手と常々語ってきたが、この本はぼくが苦手とする、まさに「女流作家の短編小説集」という一冊。森絵都の出会いは「DIVE」であり、あるいはいくつかのYA(ヤングアダルト)の作品であったが、丁度一年前にどうにも評価に困った「いつかパラソルの下で」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/9733370.html ]以来、この作家の方向がどうも(ぼくにとって)おかしな方向に行っているような気がしてならない。直木賞受賞作家にぼくごときが何を言う、なのだが、なんか普通の小説家、それも女流作家になってしまったなぁとかなり寂しく思う。
正直、評価不能。いや、わからないというのが一番正しい表現かもしれない。


「器を探して」
もとは菓子職人を目指していたはずの弥生は、パテシィエとしては尊敬できるが、人間としては疑問なヒロミのケーキに魅せられ、ヒロミのマネージャーのような仕事をして十年。結婚を考える恋人もできたが、ヒロミにとって、弥生の幸せはしゃくに障るのか、今年のクリスマス・イブも、急にお菓子に合う器を買いに美濃まで行ってきて欲しいと頼まれた。今夜は、丁度、ひと月前、左薬指のサイズを尋ねられた恋人の高典と約束があったのに。
美濃へ行くと高典に電話で知らせたが、案の定メールが届いていた。ぼくか、彼女かどっちか選んでくれ・・


この作品、結局何を書きたかったのかわからない。しつこくうるさい恋人と別れる風でもなく、あるいは仕事に生きるという新たな決意があるわけでもない。懸命に生きるとは、ちょっと違う。仕事と、人生の板ばさみというありがちな日常を一瞬切り取っただけの作品。大人気ない上司(しかし、一芸に秀でている!)と、大人気ない彼氏に挟まれる常識的な主人公。でも、二人のうちのどちらかを選ぶでなく、また彼らをそれぞれに成長させようとするでもない。勿論、主人公も成長しない。はぁ?


「犬の散歩」
スナック憩い、その名前から想像されるとおり、高級でもなんでもない時代かかった古酒場。ホステスもギスギスしていなく、それどころか安物のドレスからうかがえる尻もたるんだ三十路過ぎの女性ばかり。客もまさに夜な夜な道草を食うように店を訪れる。恵利子は、捨て犬のボランティアのためにこの店で水商売を始めた。犬に貢いでなんになるの?酔客の質問に恵利子は答える「犬は、私にとっての牛丼なんです。」
子どもに恵まれない恵利子たち夫婦。夫の理解もあればこそ、ボランティアもでき、またボランティアのための水商売もできた。そしてまた夫の両親の理解も得ることができた。
満足に食べることのできない人間がいるなかで、犬助けとは優雅なことだと非難されることもある。しかしこれは、恵利子にとって自分ができる僅かながらの何かなのだ・・。


自分ができる何か、それが犬のためというのは分かる。しかしそのために水商売をするというのは理解できない。不埒な想像をするぼくがいけないのか、はたまたキレイごとで水商売を描いてします作家がいけないのか。理解ある夫を描くのはいいが、一歩間違うと、家庭が壊れてしまうような気がする。
この作品の場合、もともと崇高な志で始めたボランティアではなく、自分ができる何かとしてのボランティアであるような気がする。それは家庭がしっかりあればこそ成り立つものではないだろうか。
大学の頃、障害児のボランティアサークルに少し携わっていたことがある。できることから始めたはずの、できること「だけ」でいいはずのそれであったはずが、卒業を控え就職を決めるにあたり、その方面に行かない先輩を冷たい目で見るようなサークルの雰囲気に嫌気がさし、やめてしまった。ボランティアは、できることから始めて、できること「だけ」でいいとぼくは思う。ボランティアのために、その活動のお金のために水商売をするなんて、本末転倒な気がする。
また、ものごとを身近な単位「牛丼」ですべてを測ってしまうのは、まさに実体験でお金を稼ぐことのできない、そしてお金のない若い学生ならばこそ許される話。「牛丼」でも「ドッグフード代」でも単位を変えるだけで、お金でモノを測るということ自体、大人としてはどうなのだろう。
残念ながら、この作品には全然同感できなかった。個人的に愛玩動物一般に興味をあまりもっていないせいもあろう。
蛇足:この話を読んで、伊坂幸太郎の「砂漠」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/27640730.html ]の、西嶋がたまたまホームページで見かけた、処分を待つばかりのシェパードを引き取ってくるエピソードを思い出した。次々に処分を待つ犬を引き取るつもりか、という北村の問いかけに、とにかく目の前で困っている人をばんばん助けりゃいいんですよ、次からはあのホームページは覗きませんと嘯く西嶋。たぶん、ボランティアってこれでいいのだと思う。


「守護神」
裕介は、今年もニシナミユキを探していた。今年、四年生で大学を卒業しなればならない裕介にとって、レポート代筆の達人、ニシナミユキの協力が必要なのだ。ニシナミユキは働きながら大学の二部に通う社会人をサポートする、二文の守護神と呼ばれる謎の女性。フリーターで大学に通う裕介は、他の社会人学生と現役学生のどちらからも浮いている存在。去年は代筆を断られたが、今年こそ書いてもらわなければ。そして裕介は、ニシナミユキをやっと見つけた。明かされるニシナミユキの過去、そして裕介の本当の姿。


懸命にレポートの代筆を頼もうとする青年の気持ちは理解できる。まるで、ぼくのレビューみたい。書きたい思いを文章にまとめることの面倒くささ。
ただ納得できないのは、この青年が本当の自分が何をやりたいのか、大学を卒業に至るまで気づかない点。生涯賃金のために大学に入ったのかもしれない。しかし、仕事と両立して懸命に勉強していくうちに本当にやりたことに気づく、というほうが正当な物語であろう。確かに、睡眠時間を削りレポートを仕上げることも大きな財産である。しかしこの青年はいろいろと思いつくという、文学を研究する楽しみに最後まで気づいていない。そして卒業したら、文学とは関係ない職業に就いてしまう。物語当初に感じた、お気軽に、楽をしたがるいまどきの若者像からだんだん変わっていく青年の姿があればこそ、この最後は疑問を感じずにはいれない。


「鐘の音」
本島潔は二十五年ぶりにその街を訪れた。美大の彫刻科で将来を嘱望された潔であったが、自分の彫るものが形だけでしかなないことに気づき、大学をやめ、仏像修復師松浦の下に身を寄せた。
ある仕事先で出会った仏像に惚れこんだ潔は、思いがけないアクシデントで、修復の終わった仏像を傷つけてしまった。そしてそのこときっかけに、逃げる潔であった。
潔の惚れこんだ仏像のある寺の梵鐘は、村の人々に愛されている梵鐘であった。仏像でなく、梵鐘をほめそやす村人を潔は心の中でさげすむんでいた。しかし、その梵鐘のいわれとは、そして25年目に明かされる仏像の真実。


えっと、人間万事塞翁が馬ですか?仏像の謎が明かされるところまではわりと良いと思っていたが、最後のオチでひっくりかえされた。ネタバレですが、梵鐘がウエディングベル?ヘタな落語のオチにもなりゃしない。


「ジェネレーションX」
健一の勤める弱小出版社が発行する通販情報誌にクレームがついた。特集ページで取り上げた商品に誇大広告があったのだ。謝罪、そして返金等の約束にも怒りを収めぬ客に、特集の担当の健一と、商品を扱うアニマル玩具の担当者が直接謝罪に赴くことになった。家族旅行でサイパンに行っているというアニマル玩具の担当者の代理でやってきたのは、石津という若者。客の住む宇都宮まで、健一が運転する車のなかで、携帯電話で次から次へと電話をはじめる石津。


さきの「守護神」同様、初めは礼儀知らずなだけのいまどきの若者に見える、担当会社の青年の本当の姿が、話が進むにつれだんだんとわかっていき、そして、という物語。10年ぶりのイベントに一所懸命はわかるのだけれど、やはり、仕事中に携帯電話で打ち合わせは不味いだろう。許可を得ているとはいえ、少なくとも初めて顔を合わせた他の会社の人が運転する車の中で話す話し方ではない。残念ながら、物語以前の問題で足がとまってしまった。また、主人公健一の自分も出場させろの一言は余計。ありがちな話のわりに、爽快感にかける。


風に舞いあがるビニールシート
ごめん。この物語のあらすじはこのレビュー以外でも見られると思います。
あらすじまとめに力尽きました(苦笑)。2006年度前期直木賞受賞作。


さきの「犬の散歩」と呼応する物語なのかもしれない。確かに、誰かがそれをしなければいけないことだというのは理解できる。しかし、どうして主人公をして現場へ行かせなければいかないのだろう。なぜ、バック部門で現場を支えるだけではいけないのか。いや本来バック部門なんて必要なく、みなが自分のできることをその手を差し伸べて行うならば、それに越したことはない。それはバック部門を嫌い、解散させた、マザーテレサの姿を見ればわかる(映画「マザー・テレサ」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/10282991.html ])。しかし、高度に政治的な問題を抱える現在の状況において、現場を支えるためのバック部門は必要であり、この作品でもバック部門を決して否定するわけではない。
使命感にかられたエドは、結局、心身ともにぴったりあっていたはずの主人公、里佳との結婚に終止符を打つ。里佳との結婚生活をして、エドという人間は一切変わることができなかった。「夫婦のささやかな幸せだって、吹けばとぶようなものじゃないの?」里佳の叫びに対しエドは「それでも日本では生きていける、フィールドでは安全に生きていくことを幸せと呼ぶんだ」と答えるに終わる。
エドの生き方は「正しい」のかもしれない。しかし里佳の言うことも決して正しくないわけではない。家族を大事にし、家庭を営むということが、大勢の難民を救うという大義に勝てないというのはどうなのだろう。
無論、エドの生き方を否定するつもりはない。しかし、大義を大上段に振りかざされる違和感を、この作品にはどうしても覚えずにはいられない。そしてまた、エドをまったく変えられなかったという意味で、心底通わぬふたりの心に対して、不必要に思える扇情的なほどの性描写も。
最後に決意する里佳は、果たしてエドがその生を失ったアフガンという地で何を見てくるのだろう。
間違えないで欲しい、ぼくはこうした活動を行う人々を揶揄するつもりはない。しかし、ぼくらはもっとできるところから始めるべきであり、作品を通じてこうした何かを啓蒙を行うとするならば、そういうところから始めるべきだと思う。
この作品は、この作家がとりあげる話題として極端にすぎるのではないだろうか。いや、それはあくまでも「ぼくが知っている、この作家」の話なのだ。なんと言ってもこの作品は直木賞受賞作である。しかしぼくは、決して直木賞をありがたがる人間ではないのである。