キサトア

キサトア

キサトア

「キサトア」小路幸也(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、児童文学、物語、風のエキスパート、双子

正直に言ってしまえば、ちょっとぼくの得意としないタイプの児童文学。いや、児童書と言ってしまうほうがいいのかもしれない。ある種の「おとな」の人は好きかもしれない。しかし、普通に小説や物語が好きな人には少し物足りないにちがいない。つまり、そういうお話し。児童書としては、たぶん充分書き込まれていると思う。こういう本はよく読んだ。しかし大人が読む物語としては、正直もう少し欲しい。それはないものねだりであることはわかっている。それどころかこの作品は、もしかしたらしっかりと書きこまれていない部分を余韻として、想像で補いながら楽しむ物語なのかもしれない。そういう懸念をいだきつつ、しかし敢えて正直に述べる。

幼い頃より何かをつくってきた僕、アーチは、<オオカミの家>をつくり、小さい子供のうちに<世界芸術トリエンナーレ>を受賞し、<リトルアーティスト>と有名らしい。受賞したおかげで色んな人に会わなきゃいけないのはめんどくさいけど、いろんな会社から道具や絵の具をもらったり、たくさんの人から作品を作ってくださいと言われるので、まぁよかったかなと思っている。それから僕は色がわからない。生まれたときからじゃなく、すこしづつわからなくなってきた。お医者さんも原因がわからない。ただぎゃくに普通の人がわからないような微妙なグラデーションや、色の違いは敏感にわかる。色のわからなくなる前の世界の色も覚えているので、不自由はしない。でも、僕の色使いは独特といわれるので、少しだけ記憶が変わっているのかもしれない。しかし、物語はその話ではない。
ぼくの双子の妹、キサとトアは不思議な病気だ。キサは日の出から日の入りまでしか起きていられない、トアは日の入りから日の出までしか起きていられない。二人が一緒に過ごすことのできるのは、朝陽が海から顔を出して、全部見えるようになるまでと、夕陽が海に沈み始めて完全に沈むまでの、一日に二回だけ。ノン・トゥエンティフォーアワー・スリープウェイク・シンドローム。病名はわかっているけれど治療法は分からない。そんなキサとトアのために、お父さんは年中あちこちに行っている<風のエキスパート>をやめて、この街に引っ越してきた。この街は、水平線に太陽が昇るのも沈むのも見える。それがキサとトアにいい影響を与えるのではないか、と。<夏向嵐(かこらし)>の吹く、この街の<風車の管理人>に父さんがなって、つまりぼくらが引っ越してきて五年経つ。
引っ越してくる前に母さんを病気でなくし、不思議な病気を持つぼくら親子を街の人々は温かく見守ってくれている。ぼくも双子のようによく似ているといわれるアミをはじめとするともだちたちと、<あの五人組>と呼ばれている、もっともそれは、去年の夏のある事件のせいだが・・。
そんなある日、ぼくらの住む家に<カンクジョー>、それはキサとトアが<かんいしゅくはくじょ>をそう呼んだことからその名前になったのだが、水のエキスパートでありミズヤさんがやってきた。ミズヤさんは、ある調査のためにやってきたのだが、その調査の目的は?
ぼくの家族、そしてぼくの友達を中心にした、ぼくたちの住むこの街の一年間の物語。

アーチの父さん、フウガさんのおかげでこの街の<夏向嵐>の被害は食い止めらた。<夏向嵐>をめぐるこの街に残る古い悲しい<泣き双子岩>の言い伝えは、アーチの父さんのおかげで回避されるようになった。しかし人々は安全に慣れてしまうと、かくも自分勝手になれるのだろうか。しかし物語はその部分はうまく描いた。そして逆に大人であっても素直にこどもに謝れる、そんな大人を描く。
しかし、でも、フウガさんに疑いを持つ人が出てくるということ自体、なんとなくこの物語に似合わない気がする。言うならば、この街は善意の人だけが住む街でもよかったのではないだろうか。災いは、外からやって来る、だけで。これは外から越してきたアーチやフウガさんを指すのでなく、アーチの作品、そして町の美術品を盗んで行ったワキヤさんだけでいいのではないかと言う意味だ。
ちょっと、その辺が個人的にはひっかかりを覚えるところだ。
個人的には、アーチとアミのボーイミーツガールの物語をもう少し膨らませて欲しかった。いや、マッチタワーコンクールの点火の場面や、アミの父さんの粋なセリフも素敵なんだけどね。

おそらく大人の本読み人全般にオススメの作品とはいえない。児童文学と児童書を分けるなら、おそらく後者に属する一冊なのだと思う。
小路幸也を追いかけるという意味でなら、読んでもいい一冊なのかもしれない。

蛇足:新聞記者のY.Sさんって?あぁ!だれかさんのイニシャルだね(ニコッ(^^)/)(まだ、だれもそれに触れぬうちに)