ルート350

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ルート350

「ルート350」古川日出男(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、短編小説、リズム、文体


オビによれば古川日出男の「初」の短編集だそう。
正直に言えば、放り出された断片たちを掬い取った一冊という感じ。あとがきとなる著者自らの「補記」によれば「全八編に通底するモチーフがすでにオリジナルの局面(つまり初出時)に現れていて、驚いた。」と著書自ら驚いている。だが、この短編たち全部に通底するモチーフって、何?読解力に最近自信を喪失するぼくにとって、掴みきれず、歯がゆさが募る。


作品は古いものでも2003年、新しいものは2006年、この三年間に発表されたものたち。確かに、これらの短編たちにぼくの知る古川日出男の断片を感じる。あの長編につながる何か、とか、古川日出男のリズム(文体)。しかし感じ取ることはできても、ぼくの心は揺すぶられない(ビートしない)。未完、あるいは放置された残骸。悪く言えばそんな短編たち。
やはり古川日出男は長編であり、リズム(文体)であり、そして、大ボラ吹きでいてほしい。


「お前のことは忘れていないよバッハ」「カノン」「ストーリーライター、ストーリーダンサー、ストーリーファイター」「飲み物はいるかい」「物語卵」「一九九一年、埋め立て地がお台場になる前」「メロウ」「ルート350」の8編の短編から成る一冊。


うわぁ、レビューを書き始め、タイトルを並べて驚く。全然ストーリー思い出せない。読了はほんの二日ほど前なのに。大好きな古川日出男のはずなのだが、今回の「短編集」はリズム(文体)にノれないままで終わった。古川日出男のリズム。それは、どちらかといえば、ロック(ン・ロール?)のそれであり、決して長く壮大な交響曲のようなものではない。だから短編であってもリズム(文体)にノれるはずと思っていた。しかしノれたと思ったら、寸断されるように終わる。寸断を現代音楽と割り切るべきなのか。分かったようなフリをしても、結局分からない。分からないと思うのも素直な感想なので、あえてそのまま記す。もっとも、正直に言えば、ぼくが天性のリズム音痴というのも事実である。そんな父親の娘がまさにいま、中学のブラバンでパーカッションをやっている。これは驚く。しかし、これは別の話。


以下、備忘録をかねた簡単なあらすじ、そして感想。古川日出男の作品は以前よりリズム(文体)だと言っているので(本当は今まであまり触れていない複雑に絡み合い、交錯する物語というのもあるのだが)、たぶん未読の方が読んでもネタバレにはならないとは思う。しかし未読者は注意されたし。一応言っておく。


「お前のことは忘れていないよバッハ」
ある隣り合った家に住む三人の少女の物語。三つの家のそれぞれの父母がお互いに駆け落ちしたり、パートナーを入れ替えたり。その結果、ほかに家族のいない少女の家に、仲のよい年の近い三人が一緒に住むようになった。バッハと呼ぶハムスターがかごを脱走し家の中を駆け巡る。三人の少女はうちの中にハムスター保護区をつくり、そしてハムスターの出現する場所を世界中の地名になぞらえた・・。彼女は私に語る。
※たぶん、作品的にはこの短編集のなかで一番「小説」。多くの(といっても数少ない)ネットの本読み人も高く評価する。確かに、ちょっとじぃんと来る、気持ちのいい物語。
実は二度読んだ。なぜか。最初とても違和感を感じた。これは「村上春樹」じゃないのか?「春樹チルドレン」という言葉がぼくの知らない世界で通用している。そのことはなんとなく知っていた。そして古川日出男がその一人と言われていることも。しかし、いままでそれが実感されることがなかった。それが、今回初めて、如実にぼくの目の前に現れた。「ロックンロール七部作」の文体になぞらえるレビューも見かけたが、ぼくには古川日出男を読むつもりが、突然村上春樹が現れたようでびっくりした。たぶん、このことがこの本のレビューで一番伝えたいこと。


「カノン」
埋め立て地の団地に住む少年は、だれにも見えない顔のない友達を持っていた。彼らは少年が成長するつれ、ひとり、ひとりと減っていき、そして最後にただ一人<一者>が残った。そして埋め立て地に完璧な偽者のレプリカがやってくる。インチキの地上の上に、。お前も張りぼてになるのか?少年は決意する「なるものか」。
そして少女と少年は出会う。レプリカの王国の掃除係の女の子。出会う、邂逅。そして愛。
そして少年はレプリカの王国に無限に終わらない音楽、追走(カノン)を埋める。
※カノンって、曲名でなく、音楽形式なんだよね。っていうのは高校時代にちょっと調べた豆知識。パッヘルベルという作曲家の作ったカノン形式の曲が当たり前のように「カノン」と称されているけれど、正確には「主題に対する応答が一定の法則に基づいて厳格に模倣しつつ進む対位法的な楽曲」という形式。ロンドとか、ワルツとか、そういう奴。って、この作品の感想とは違うけど。たぶん、これは断片。これを膨らますと古川日出男の長編になる、その前の断片。


「ストーリーライター、ストーリーダンサー、ストーリーファイター」
高校一年になった僕はICU(集中治療室)に肉体を置き、幽体離脱している。そして、お猿、ガーリー、エロ王のもとに行く。お猿は男子学生のネタになるような女の子、でも自分の部屋では思案し、そしてパソコンで文章を打つ。窓の外の暗い建物、暗黒ゾーンを見つめる彼女はストーリーライター。
がりがりと勉強をするからガーリー。そんな彼女はバレエを踊る。ダンサー。彼女もまた窓の外の暗黒ゾーンを見つめる。
エロ王。インターネットのオンライン・ショッピングで手に入れたという彼のハードコアのコレクションのおかげで、クラスの男子の性的嗜好は曲げられてしまった。しかしそんな彼も、また学校のイメージと遠くジムで鍛えていた。ジャブとストレートのワン・ツー。ガンガン汗を流し、バシバシ打ち込む。すげぇ、かっこいい。そして彼もまた他の二人と別の角度から暗黒ゾーン、幽霊アパートを見つめていた。
ある日、暗黒ゾーンがなくなった。そのとき向こうが見えた。まず、お猿が認識した。躍るガーリーと、闘うエロ王と。そしてその二人が、自分たちの知らないお猿を認識した。
そのとき世界がいっきに複雑化する。何かがピカッと弾ける。僕はその刹那、三人の共闘を感じる。またそのとき、僕の霊魂は肉体に帰る。
決めた。戻ったらだれと友達になるかを。視力が良すぎる三人とだ。
※なんというか、バレエだけで「サウンド・トラック」をイメージした。これも長編になる前の断片、あるいはアイディア。


「飲み物はいるかい」
僕は離婚を機に、離婚休暇をとった。海に行くつもりが、飯田橋のウィークリーマンションに落ち着いた。そして神楽坂でナカムラという少女と出会った。死んだふりをする七歳か、八歳の少女。三十五歳の僕は、彼女と神田川の橋を制覇する旅に出た。
※これは「LOVE」だな。目黒区を舞台にしたあの作品を彷彿させる。そこまで完成度は高くない。ん?完成度。完成度って何だ?


「物語卵」
ワカケホンセイインコの物語から始まる語り手の僕のなかにいる僕たちの物語。
※多重人格?多層構造を持つ語り手たちの物語?まさしく物語の断片(カケラ)。家族、血族の関係性を、いや、関係する事物を、その関係のつながりで、位置づけで認識できない少女の物語を、あるいは樹形図をして「ベルカ、吠えないのか?」に擬えるレビューも見かけたが、どうなんだろう?


「一九九一年、埋め立て地がお台場になる前」
お台場がまだ埋立地13号だったころ、そこで起こったレイブ。それは終わらない、エンドレスの一日。うるう日のような・・。おれたちはその日にいる。エンドレスのうるう日の内側に。
※これもノれない、近未来SF小説のような断片(カケラ)。しかも近「未来」ではない、近「過去」の物語。こういう話の持っていき方は古川日出男らしい気がしないわけではないのだが、ノれなかった。


「メロウ」
進学塾の夏期講習で、ある街のホテルにやってきた小学校6年生の僕たち。知的早熟児である僕たちは頭が良すぎて、いっさいを理解するが、それを小学校六年生の程度に合わせて解答することができない。プロセスを書かないと不正解。そのテクニックを身につけるための、小学校六年生のバカのふりをするための演技口座。
事件は、先生が狙撃されることから始まった。そしてスナイパーによる殺戮が、その街で密かに始まる。しかし街の人々は気づかない。なぜなら僕らが射殺体を隠すから。暗渠のなかに。僕たちはデーターを集め、そしてスナイパーたちと対峙する。
※これも近未来SFのノリ。少年たちが、密やかにスナイパーたちと闘う、静かで緊張した世界。でも、どこかで見たような物語。それほどの目新しさは感じない。また文体(リズム)もあまり感じられない。


「ルート350」
海の上に国道は走っている。新潟市から佐渡に続く国道350号。僕とフミの旅。
※ページ数にして3ページの作品。ありがちな最後の一言。ありがちなショートショート。作品の最後に「いっぱいの現実、いっぱいのレプリカ」とあるが、唐突だった。もっとも「本のある生活」のjuneさんによれば、この一冊のテーマは「旅とレプリカ」だそう。ぼくが読み取れなかった通底。たしかにそのキーワードを当てはめれば収まるし、この作品が最後なのも理解できる。


蛇足:「LOVE」ってショート・ストーリズ(短編集)じゃなかったっけ?とつまらぬ突込みをいれておく。