帰還−ゲド戦記最後の書−ゲド戦記4

帰還―ゲド戦記最後の書 (ゲド戦記 (最後の書))

帰還―ゲド戦記最後の書 (ゲド戦記 (最後の書))

「帰還−ゲド戦記 最後の書−ゲド戦記4」ル・グウィン(1993)☆☆☆☆★
※[933]、海外、ファンタジー、ハイファンタジー、児童文学、人間、運命、女性、性
※備忘録としての詳しいあらすじあり!未読者は注意願います。


ゲド戦記最後の書として、初期ゲド三部作を発表後日本では約十六年を経て発表されたのが本書(原書では18年)。しかしその後「アースシーの風」が発表され、実際は「最後の書」ではなくなった。とはいえ、初期三部作と大きく変わったこの書をして、ゲドの最後の書を意識した作家の心持ちは如何なるものであったのだろう。


作品をひとことで語るとするならば、怒れる女性テナーの物語といったところか。
今は田舎の寡婦となった彼女を主人公に置いた本書では、それまでの作品で「魔法(正しい力)は男のもの」「男は正しく、女は浅はかなもの」とこの作家が当たり前のこととして書いてきたことを、それが当たり前であったが故にこそ、反対に「なぜ女性は軽んじられなければいけないのか」と疑問を投げかける。不当に軽んぜられる女性の地位を高みにあげようという思惑が読み取れる。
男女平等とか、男女同権とかいう言葉は、この作品が発表された二十世紀の終わりには、もはや当たり前のようにあったと思う。しかし敢えてそうした時代に、このテーマを書かずにいられなかった作家の思いはどこにあったのだろう。想像に過ぎないが、その時代、いやそれは今現在もそうなのかもしれない、男女平等、男女同権という考えは理想として、あるべき姿という点では普遍性を持つようになっている。しかしそうであっても、なおかつ、いまだ拭い去ることのできない偏見や、差別という「事実」が残こされているのではないか。敢えて作品でそのことを述べることで、今一度その問題を明らかにしたい、考えて欲しいという作家の願いの表れではないだろうか。
本当の意味での「女性」の地位向上とは何か?それは決して必要以上に女性の力を崇め、奉ろうというものではない。なぜ女性は、女性というだけで軽んぜられなければならないのか。それは「自立」を「意識した」「女性」の自然な疑問なのだろう。
この作品における「女性問題」、いや「女性」ではなく正しくは「性(ジェンダー)」の問題なのかもしれないが、語り始めると止まらなくなりそうだ。故に、この作品は多くの論ずべき問題を含んでいるという指摘にとどめることにする。それは例えば、男の「魔法使い」と性の経験の問題。女まじない師には決してあてはまらない問題。あるいは強姦され、焼かれ、捨て置かれた少女テルー。この作品で「強姦」の文字は間違いなく、その言葉どおりの意味で年端のいかない歳の少女に使われる。そしてまた最後の、男の魔法使いによるテナーを魔法で四つんばいにさせ、言葉を分からなくさせる描写など。


ゴントの寡婦ゴハは、息子が独立し、娘が嫁いだあと、亭主のヒウチイシを亡くし、いまはひとり農園で暮らす。ある日、彼女のもとへ友人のヒバリが、大やけどをし、捨てられた子どもの知らせを伝える。村のまじない女にもできない治療をゴハならできると信じて。
その少女は、最近村に来ていた流れ者たちが連れていた子ども。流れ者たちは子どもを殴り、乱暴し、燃える火に放り込み、姿を消した。ひとり捨てられ、残された子ども。やけどは骨まで達し、顔の半分は焼けただれ、片目はつぶれ、右手の指先はくっついて離れない。まさに瀕死の状態。ゴハは子どもを見つめ、やりきれない思いと、自分の無力さを感じた。これでは大魔法使いオジオンでさえ何もできないと答えるだけだった。
それから一年以上が過ぎたころ、ゴハのもとにひとりの使者が現れた。「ル・アルビの大魔法使いが呼んでいる」。ゴハは一緒に住む小さな子どもを連れ、オジオンのもとへ旅だった。テルーと名づけられたその娘は、あの、焼かれ捨てられた少女だった。旅の途中、ゴハはテルーにオジオンから聞いた、キメイのばばあの話をする。竜と人は大昔、種をひとつにする同じ者たちで、いつしか竜と人に分かれた。そしてまた、いまだに自分たちがその昔、竜だったことを知るものがいる。オジオンはキメイのばばあに、おまえの本当の正体は竜であり、人間の姿は身にまとった衣装に過ぎまいと告げた。すると「それほど単純だったらいいのにね」とキメイのばばあは答えたという。
オジオンのもとに辿り着いたゴハにオジオンはテナーと呼びかけた。そう、ゴハこそは昔アチュアンの巫女であり、そしてハブナーの塔にエレス・アクベの腕環を戻し、失われた神聖文字を修復した女テナーであった。今や死の間際にいたオジオンはテルーを見ると、あの子に何もかも教えてやってくれ!ロークではだめだ、とテナーに告げた。そして、一度は自分がひきとったテナーが出て行くに任せたことは、実はこの子をここに連れてくるためだったのだったと悟り、そう語るのだった。オジオンはそのまま外に出、西の空、晴れ渡る金色の空に遥か彼方を見つめ「竜か」とつぶやいた。そして日が沈み、風が落ちると嬉しそうに「終わったよ。なにもかも変わったんだよ!テナー、待っててごらん」と告げ、死んでいった。
オジオンの埋葬に関し、ル・アルビの領主付きの魔法使いと、ゴントの港町の魔法使いが、テナーが女ということだけで無視し、それぞれに自分たちのもとへ引き取りたいという申し出といざこざがあった。しかし、村のまじない女であるコケばばの言葉により、オジオンの遺志どおり、無事オジオンの小屋のすぐそばにひっそりと埋葬されることとなった。
オジオンの「待つよう」にという言葉の意味を量りかねながら、テルーはしばらくル・アルビで暮らすことにした。テナーは25年前、アチュアンからゲドに連れられ、このル・アルビに来たときのことを思い出した。オジオンの弟子として、養女として「白いお嬢さん」と敬意を払われ、しかしその底に嫉妬や、嫌悪、不信をもってコケばばに接せられたことを。あの頃、テナーはいつも自分が外に置かれた者、閉め出された者と感じていた。そして、ついにはオジオンが差し出してくれた学問や技の力から身を引き、ただの男(ひと)の女房に、百姓の女になることを選んだのだった。
人里離れた高山台地を歩くことが好きだったテナーは台地のはずれを歩き、海を見ていた。すると西の空から竜がやってきた。「カレシン」と名乗るその竜は、ひとりの傷つき、瀕死の男をテナーの前に降ろす。それは、あのハイタカ、ゲドであった。そして彼は全ての魔法の力を失っていたのだった。
テナーたちの懸命の介護により、ゲドは起き上がることができるようになった。彼は<セリダー>西の果て「さい果ての島」から戻ってきたという、一度ロークに寄り、そしてこのル・アルビのあるゴントへ来たという。そして、テナーが腕輪を戻したハブナーのエレス・アクベの塔の王座に、今や王がいることをテナーに告げた。予言が成就されたことを。その王こそがゲドを死の世界から生の世界へ連れ帰ってくれたエンラッドのアレン、レバンネンであることを。
全ての力を失ったゲドは、王の使いの者に会うことを恐れた。彼らが、自分を「もとの自分」に「戻ること」を望むからだ。果たしてテルーのもとへ王の使いはやってきた。レバンネン王の戴冠式のとき「大賢人」にそばにいて、そして冠を授けて欲しいとの王の願いを告げに。そう、彼らはゲドが失ったものを認めようとせず、もはや過去のものとなった役割を果たすことをゲドにもとめようとしているのであった。
テナーは丁度、中谷の自分の家に戻ろうとしていたこともあり、ゲドにこっそりと中谷へ逃げるように伝える。一方、テルーはオジオンの小屋に、昔テルーを捨てていった男がやってきたことに気づいた。隠れてやり過ごすしテルー。
その男はル・アルビの領主のもとで働いているらしい。テナーは領主の館の魔法使いアスペンに、雇い入れた男の注意を願いに行くが、逆に以前オジオンの埋葬の件でのことより、危うく呪いをかけられるところだった。
中谷への帰途につくるテナーたちに、テルーを捨てた男ハンディーが迫った。そこを救ってくれた船の若者こそ、新しき王レバンネンであった。テルーは王にゲドのことを語った。そして王はテルーのいうことを理解し、これ以上ゲドを追うことをあきらめる。一方、王の船に同乗した風の長は、テナーにロークの長たちの間で新しい大賢人を選ぶ会議がなされた話をする。そのなかで浮かび上がった言葉、様式の長がほとんどだれも知らないカルガド語で突然告げた「ゴントの女」という言葉について、その謎の解明を求めていることを。
王の船でヴァルマスの波止場についた母親の姿を見つけ、驚くゴハの娘リンゴ。まさか、本当に自分の母親が歌のなかの主人公であったとは。
中谷のかしの木農園に戻り、以前のような生活を始めたテナーとテルー。そこを襲いかかったのはハンディーをはじめとする、ならず者たちであった。冬を予感させる夜、彼らは襲ってきた。しかしその危機を救ったのは、先に中谷に戻り、羊飼いの手伝いをするゲドであった。
そしてゲドはテルーとともに過ごすことを選ぶのだった。ともに過ごすことでテルーがゲドに教えたのは、もっとも知恵のある男でさえ教えられなかった神秘。
そんなテルーのもとに、息子であるヒバナが訪れた。王の統治のおかげで、海賊は討伐され、今や船乗りでは暮らしていけなくなった。彼は正当な権利として農園を継ぎに来たのだ。その身勝手さを哀しく、腹立たしく思うテルー。彼女はル・アルビへ戻ることを決意する。
そんな彼らを待ち受けていたものは、ル・アルビの領主の館の魔法使いアスペンであった。
アスペンの真の正体とは?そして、アスペンにより岩場から落とされそうになるテルーを、ゲドを、救うものは?そして最後に明かされるテルーの正体とは?


この作品において論ずべき問題があればこそ、物語に深みを与えているという事実は確かに無視できない。しかしこの作品は、物語として、まず充分評価できるという点を忘れてはいけない。
この物語には、結局、大きな事件というものはない。ひとつひとつの小さな描写の積み重ねがアースシーの世界を生き生きと再現している。テナーが、ゲドが、テルーが、それぞれに均衡を考え、あるいは自らのささやかな人生の幸せを考え、地道に生を全うしようとする姿が描かれる。それは御伽噺の世界でも、バラ色の夢の世界でもない。確かに魔法というものがこの物語にはある。しかしこの物語は、ぼくらの足元にある確固たる大地とどこかでつながる、確固たるリアリティーのある世界なのだ。それが故にこの作品もまた、名作のひとつなのだ。初期三部作との作品の質の違いはどうしても否めないものの、やはりこの作品も「ゲド戦記」の一冊である。再読して、このレビューを記してみて、改めてそう思った。


参考:その他の「ゲド戦記」レビュー
影との戦い-ゲド戦記1-」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/22618662.html
こわれた腕環-ゲド戦記2-」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/35407718.html
さいはての島へ-ゲド戦記3-」① http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/36415349.html
さいはての島へ-ゲド戦記3-」② http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/36415357.html