文章探偵

文章探偵 (ハヤカワ・ミステリワールド)

文章探偵 (ハヤカワ・ミステリワールド)

「文章探偵」草上仁著(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、文章、推理


ネットの本読み人仲間、八方美人男さんの書評のなかにこの本のタイトルを見つけた。
書かれる文章の癖をもとに犯人を追求していく、たとえば最近では「ボーン・コレクター」(ジェフリー・ディーヴァー)のリンカーン・ライムで有名なアームチェア・デティクティヴ(安楽椅子探偵)タイプのプロファイリングを中心としたエンターティメントミステリーを期待した。しかし読んでみたら、とても古風な推理小説であった。ぼくが期待していたのは、いわゆる行動心理学の面から犯人を類推するタイプのミステリー。例えば、届いた脅迫状から、この書き方の癖は、ある年代の男性に現れやすいとか、あるいは知的職業に携わるタイプに多いとか、そういう分析から匿名の犯人に近づくタイプの社会派ミステリーを期待していた。しかし本書は、まさしく「推理小説」だった。「本格」と云うものの一種であろうか?ストーリー(物語)を楽しむ小説というより、トリック(推理)を、言い方は悪いかもしれないが「弄ぶ」タイプの小説。「文章探偵」というタイトルどおり、探偵小説と呼ぶのが相応しい小説かもしれない。犯人は読者に開示された登場人物のなかにいる。例えば本作では、ある小説講座を受講するメンバーを中心とした狭く閉ざされた世界のなかの登場人物たち。
こういうタイプの小説が好きな人には、たまらない一冊かもしれない。しかしぼくは、物語(ストーリー)を愛する本読み人である。物語に深みを与えるディティールはともかくとして、細かい記述を気にして、その手がかりから推論、推挙して推理を組み立てる読み方は苦手。簡単にいえば大雑把な性格。故にこの小説も、中盤から読むことに倦んで仕方なかった。オフで八方美人さんにお会いしたとき、この本を読もうと思うと伝えたのだが、うふふと微妙な笑みを浮かべていたのが思い出される。ぼくには残念ながらちょっと楽しめない一冊だった。狭い世界の閉塞感。社会派ミステリーを期待したぼくには作品世界に広がりがないことが、この作品に対する楽しめなかった敗因のひとつであった。


さきに述べたように、ある種の、それは現在の読書界ないしはミステリー界では主流になりえていないひとつのジャンルの作品として、そのジャンルが好きな人には好ましい一冊なのかもしれない。しかし、八方美人男さんがその書評に触れる理由、あるいは後述するが、多くの「頷けない」部分、それらの点からしても、ぼくの「苦手」を抜きにしても、客観的にこの作品が評価足りえるかは疑問。この辺りは、ぜひ他の方の意見を伺いたい。
ちょっと、無理がないか、というのが率直な感想。


左創作は中堅のミステリー作家。小説のほかに、ある新聞社系列のカルチャースクールで小説創作の講座「ザ・ノベル」の講師も行なっている。彼は自らを「文章探偵」と位置づけ、受講生の匿名で提出された原稿から、その文体、あるいは表記の癖、それは表現であり、あるいは誤字や、言葉の選び方などから、その文章を書いた人間を推理し当てることを得意としていた。
カルチャースクールの講師とはサービス業である。左は、そう考える。受講者の作品を、それが誰によって書かれたかを当てる際も、できるだけ劇的に語る。例えば、受講者の履歴を知っていたがゆえに類推できたことも、あたかも原稿それ自体からのみ類推したかのように。確かに、言葉の使い方、選び方、送り仮名、あるいは誤変換の癖、そういったものに、書き手の癖は現れる。しかし左の「文章探偵」の術は、あくまでも書き手がある程度絞られた中でのものにしか過ぎない。一番近くにいたはずの妻に家を出て行かれ、そしてその妻が時折送ってくる絵葉書に書かれた真意すら、量りかねていた。
左はあるミステリー新人賞に二次審査員も努めていた。そんな彼の手許に出版社から送られてきたふたつの原稿。それは文章や文体の細かいところは違えど、そのほとんどが同じ内容であった。どちらが、どちらかの盗作なのか?そして、またその原稿そっくりのバラバラ殺人事件が起こる。いったい事件の犯人は、そしてその真相は?


すみません、正直、ぼくにはこのレビューを書こうという気力がどうにも湧かない。上記<あらすじ>には、左宛てに青い封筒でセミの抜け殻のはいった謎の脅迫状が送られていることなども書かなければいけないと思うのだが、作品にノれなかったことがレビューの筆も重くさせる。この、文章の癖をもとに書き手を類推するという展開自体は興味深い内容だと思うのだが、いかんせん、分析される文章自体が酷すぎる。
文章探偵左が分析する文章は、小説を書くことを目的に講座に参加する受講生が、ひと(ライバル)に見せることを前提にした文章のはずなのだが、あまりに誤字脱字、ミスタイプが多すぎる。曲がりなりにもひとに見せることを前提にしている文章ならば、推敲のひとつもしているはずと思うのだが、。
作家が、文章探偵に明快に推理を展開させるための文章であるということは、頭では分かる。しかし、ちょっとこれは酷すぎないか。限られた登場人物の狭い世界のリアリティーのはずが、あまりに稚拙な文章の羅列により、リアリティーが吹き飛んでしまった。それは作家が執拗に使う言葉、ある受講生の文章に見られる「オノマトペ」(擬音語)の多用。少なくとも文章を稚拙に見せると、小説講座の講師が指摘するだろうことを、まったく直すことない受講生の文章、それを個性のひとつとして執拗に使う。原稿の文章のなかで使われるオノマトペ。左(文章探偵)の語りに使われる「オノマトペ」。なぜ、作家は執拗にこの言葉を使うのだろう?この作品の作家、草上仁の文章の癖を敢えて表現したいのだろうか?ぼくはこの「オノマトペ」という言葉に実は初めて触れたのだが、生理的にどうもう受け付けない。日本語の「擬音語」で充分通用する。
また作品では、言葉の用法についてFEP(漢字変換システム)の学習変換の癖についても触れる。しかし、実はこれも正直どうなのかと思う。確かにFEPには、使用頻度の高い言葉を学習し、最優先候補にもってくる機能がある。しかし、少しでも文章に気を使って書く(打つ)人間であれば、変換候補を選ぶということを意識するのではないだろうか?
あるいは逆にこれほどに言葉に注意を払わない受講生たちの文章であれば、逆に言葉の使い方(用法)は統一がなく、バラバラでないかと思う。例えば、十分、と充分、じゅうぶんを作品では例に出しているが、こうして数多くのレビューを書いてきた(打ってきた)ぼくであっても、おそらくこの言葉の用法は統一されていない。幾つかの言葉の選び方は、自分の文章、文体を意識したとき初めて明確に「癖」たりえるのではないかとぼくは思う。しかしこの受講生たちのとても「酷く」「稚拙」な文章には、己の「文章」を意識しているとはどうしても思えない。尤も、あとがきによればこの作家は実際に小説講座の講師をしているらしいので、ぼくの勝手な想像と違い、実態に即しているのかもしれない。
しかし、もしそれが実態だとしても、そんな実態はふつうの読者なら想像もしていない。普通に読書をして違和感を覚える現実ならば、敢えて実態に即するのではなく、多くの読者が信じる普遍的な幻想(共同幻想)を選ぶべきではないか。まさに事実は小説より奇なり、なのかもしれない。しかし、奇なる現実は前提にするのはどうなのだろう?


勿論、ひとには無意識の文章の癖というものは確かにある。これは否定しない。しかしこの作品で分析される明快な推理がどうもぼくには馴染めなかった。推理自体の問題ではない。分析される文章の問題。そう考えたとき、この「文章の推理」をテーマにした作品の評価は下げざるを得ない。まさに推理を「弄んだ」だけの作品、ぼくはこの作品をそう評価する。


蛇足:八方美人男さんの書評にあそび発見!「すべらかく」ですね(笑)。
蛇足2:主人公の名前「左創作」もなんだかなぁ・・・・。