赤い指 

赤い指

赤い指

「赤い指」東野圭吾(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、過保護、幼女殺人、ぼけ老人、隠蔽


※少しネタバレあり。


直木賞受賞第一作(書下ろし長編小説)」(オビ)が、「この作品は「小説現代」1999年12月号に掲載された「赤い指」をもとに書き下ろされたものです。」とはいかがなものでしょうね?
と、のっけから喧嘩売らんかな的な文章になってしまった。正直、この作品を読み、がっかりした。また、やられた。いや、もともと東野圭吾という小説家に思い入れはない。多くの本読み人が愛している作家のひとりであるということは重々承知している。しかしぼくには、彼はいつもいまひとつなのだ。彼の作品、特に昨今のものを読んで思うのは、そこそこのテーマを扱い、読みやすく書くのをセールスポイントとするが、いまひとつ深みに足りないという歯がゆさを残す。それはあくまでもぼく個人の読み手の問題なのだと思うが、彼の作品はいつももう少し突っ込んでほしい問題をさらっと流し、「うまく」まとめて終わりのような気がする。
「秘密」あのラストがあればこそ許したが、ああいう作品で夫婦の性を扱うなら、もう少し突っ込んで書いてほしかった。いや、あれはあれだからいい。しかし、それでもう少し「うまく」書き込んで欲しかったという思いが残る。「手紙」たまたま同時期に読んだ同様なテーマを扱った「繋がれた明日」(真保裕一)ほどの深みが感じられなかった。「幻夜」「白夜行」「片想い」テーマはいい、しかし物語が「うまく」進みすぎる。悪く言えばTVの二時間サスペンス程度の読み物にしか思えなかった。うますぎる「物語」。
この作家のストーリーテラーの「うまさ」は勿論認めざるをえない。破綻なくうまく話をまとめ、適度のバランスで作品を作り上げる。ある意味、安心して読める作家。しかし、それではもの足りない。ぼくはこの作家にはもっともっと力(ちから)があると思う。それはもしかしたら、この作家のいま巷で評価される「持ち味」とは違うものなのかもしれない。この作家ではなく、他の作家に求めるべきものなのかもしれない。しかしぼくはこの作家の作品の「まだまだ全力を出し切ってないよ」と言わんばかりの余裕のようなものを感じるたびに、もっともっとぎりぎりまで作品を追及し、創り上げて欲しいと思わざるをえない。スタイリッシュというのも作家の持ち味、しかし作品の物足りなさを補うものではない。
ぼくはもっともっと深いものを読みたいのだ。


実は話題となった「容疑者Xの献身」は未読だ。それは上記に述べた理由で東野圭吾を追うことに少し疲れたから。存外に好評、挙句、直木賞受賞。読もうかと思うと図書館の予約リストはもはやいつも3桁の予約数。購入までの期待はやはりできない。そんなこんなしているうちに新刊リストに本書を見かけた。とりあえず予約、そして読んでみた。
う〜んん。正直、がっかり。今までの東野圭吾と変わらない。そして最後のページで、冒頭に記した、この「書き下ろし」が正しい意味合いで「書き下ろし」かどうかの疑問を抱かせる文章。これは作家の責任でなく、売りたい出版社の責任なのかもしれない。「直木賞受賞第一作」を早く欲しかったが故か。しかし、読み手にとって作品はあらゆる意味で誠実であってほしい。


ぼくにとって本作品は簡単に言えば、先に述べたとおり「東野圭吾の作品」でしかない。確かに扱うテーマは「考えさせられる問題」を幾つも孕む。しかしそれらの問題が、物語の根底にまで本当に潜み、あるいは根をおろしているとは思えず、感じられない。あくまでも小説を書くための「題材」。いや、そんなことはないと言う本読み人もいるかもしれない。この物語のテーマの深さを読みとることができる人もいるかもしれない。しかし、それは個々の読み手の問題であり、ぼくにはどうしても「深さ」を感じることのできない、底の浅い物語に思える。もっともっと、主人公は苦悩すべきでないか?端的に言えばそれがぼくの感想であり、意見。
このことについて、ぜひ東野圭吾の作品を擁護される人からの意見を聞きたい。真摯に耳を傾けたい。理解したいのだ東野圭吾の作品の魅力を。ぼくがどうしても理解できない、多くの人を魅了するその魅力を、。それが「頭」の「理解」であっても。


妻子に疎んぜられている前原昭夫は、早くに家に帰っても邪険に扱われるだけ。今日も残業をして帰るつもりだったが、妻の八重子から早く帰ってきて欲しいという電話がかかってきた。果たして帰宅した昭夫を待っていたのは少女の死体であった。妻に甘やかされて育った中学生の息子直巳が、家に連れ込み殺してしまったのだ。警察に届けようとする昭夫に妻の八重子は懇願する。このことが世間に知られたら息子の未来は閉ざされてしまう。
深夜、公園のトイレに死体を置きにいった昭夫が息子の犯行を隠蔽するために思いつく秘策とは?


※ネタバレ!ネタバレ!未読者は注意!!


ぼくはよく知らないのだが、この小説に出てくる名刑事、加賀恭一郎は東野圭吾の作品によく登場する人物らしい。そして本作品はこの加賀恭一郎という刑事のサイドストーリーでもあるようだ。末期ガンで死の間際にいる実の父を見舞うこともしない、加賀恭一郎という男の真意。それはこの作品の主たる事件に登場する、痴呆症を病んだ夫を亡くしたひとり老女の思いと呼応する。しかし、やはり、ちょっと無理を感じる。加賀という名刑事を熟知していれば、このエピソードは納得できるのだろうか。
このエピソードは信頼しあった父子であればこそ成り立ち、感動するエピソードなのだが、逆に本当に信頼しあった父子であれば、このようなエピソード自体が成り立つとは思えない。ひとりで死んだ妻の気持ちを知るために、息子との縁を敢えて切る父親。それに応え、一切父親に近寄らない息子。それが何年も続き、臨終の間際まで、決して病室にはいらず、病院の近くに佇み父との約束を果たす息子。小説や物語としてみるととてもストイックな男の美学のように思える。しかし振り返って現実に、あるいは自分に当てはめたとき、まさしく絵空事にしか思えない。「独り」を実感するために、息子に会わないことを決めた男。しかし男は妹や甥とは会っている。彼らとの関わりは拒まないというのも興ざめ。このエピソードを胸打つ「男の美学」として捉えるか、虚しい「絵空事」と取るかで、作品の感想は大きく変わるだろう。残念ながらぼくにはどうしても後者にしか読めない。好意的に読みたくは思う。しかし東野圭吾は、現実社会の社会的な問題をテーマとして選び作品を書いているのだからこそ、作品で扱うエピソードも現実に即すべきだと思う。ぼくはこのエピソードにリアリティ(本当らしさ)を感じることがはできなかった。同様に感動を呼ぶはずの老女のエピソードも「過ぎる」ように思う。作品のなかで女装する老人のエピソードについて触れて、リアリティを増そうとするが、その老人の行為と、作品の老女の行為は似て否なるものだと思う。いや、これも先日読んだ「文章探偵」(草上仁)同様に「事実は小説より奇なり」で、こういう行動をとる老人は本当にいるのだろうか?ぼくは知らない、そして信じられない。


蛇足:あぁそうか。レビューを書いていて思ったのは、東野圭吾は「社会派ミステリー」として、社会的な問題を扱うのだが、現実に即しない「物語」に終わってしまっているのではないだろうか?現実に立ちもどり考えなければいけない「問題」を扱いながら、あくまでも「題材」で終わらせているのではないか。そこが「深み」を感じない理由なのではないか。
ぼくは物語を読むことを通じ、ともに、考えることのできる作品が読みたいのだ。そのことに気づいた。
蛇足2:ところでこのレビューを書くにおいてネットで「リーダビリティー」という言葉としばしば出会った。時折、見かける言葉だがこの言葉はもはや一般的な言葉なのだろうか。「文章探偵」の「オノマトペ」ほどではないが、個人的には耳慣れない言葉のひとつ。「読みやすさ」という理解でいいのだろうか?どうもレビュアーは「想い」を込めて使っているような気がするのだが、その想いが果たしてその言葉の持つ本来の意味と合致したものだろうかと余計なことを考えてしまう・・。