墜落

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墜落

「墜落」東直己(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、札幌、北海道、畝原


東直己の、ススキノ探偵(名無しの探偵)<俺>シリーズと並ぶ、北海道の私立探偵<畝原>のシリーズの最新作。
心配された、前作「熾火」で苛烈な状況に陥った姉川も、本作品では無事立ち直り、長すぎる春を終結。畝原とやっと結婚した。一人娘冴香を育てながら私立探偵を営む中年やもめ男だった畝川も、姉川、本作では明美の夫となり姉川の娘である真由と養女、幸恵を加え三人の娘を持つ父親となり、また家族団らんという言葉の似合う家庭を持った。年頃となった二人の娘真由、冴香を眩しく、好ましく見つめる父親の眼差し。
作品に於いて、畝原自身を取り巻く環境は確かに変わった。しかし、作品は相変わらずの畝原を主人公としたネオ・ハードボイルド、等身大の男の物語。東直己のたいていの他の作品同様、本作もまた北海道、札幌を舞台にした、現実のその地と重なり、繋がる、地に足の着いた作品。
ススキノ探偵(名無しの探偵)<俺>シリーズの最新作、「ライト・グッドバイ」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/30301177.html ]のレビューでも、あるいは他の東直己作品のレビューでも触れたが、かって、東直己の作品といえば作品を通し、北海道という地に蔓延る巨悪を追求する(それは政界であり、警察であり)という構図がまずあった。しかし最近の作品はそれがあまりあてはまらない。本作でも未成年の青年たち(少年・少女)を「子供」と記述するのだが、いわゆる「大人」には理解できない彼らの、邪悪で、考えのない、無分別な行動に振り回される構図というのが最近のパターンのように感じられる。「ライト・グッドバイ」でも、年齢は大人だが成長できなかった、甘やかされた、その意味では「子供」に<俺>は振り回されていた。もしかしたら現代は、いままで「大人」なら持っていると信じていた常識とか、良識が通用しない時代なのかもしれない。


横道に逸れるが、「常識」とは英語で言うとcommon senseであり、共有する規範というべきか。これは同じ文化を有して初めて成り立つ規範である。例えばよく言われる例で、ある国では子供の頭を撫でることはタブーになっているとかそういうこと。相手の文化を理解してないと、とんでもない非常識になる。つまり共有する文化、規範があればこそ「常識」と信じる「モノ」は効力を発する訳だが、最近の日本は「常識」というものが欠如した社会となってきているのかもしれない。いま「常識」とぼくたちが信じている考えは、もしかたらぼくたちのすぐ下くらいの年代までは同じように信じている(信じたいと思っている)モノであり、「子供」たちには、もはや通用しないものなのかもしれない。そうしたとき、ぼくらは便宜的に常識(と信じるもの)が通用する相手を「大人」と呼び、それ以外の人間を「子供」と見るのかもしれない。しかし、振り返り、立ち止まり考えると、それもずいぶん自分勝手なレッテル貼りだ。「古い常識」を是とし、「新しい(彼らの)常識」を理解しようとしない、ぼくらが「大人」と呼ぶ自分たちこそが実は時代遅れなのかもしれない。
いや、これは敢えて逆説的な言い方をしてみただけだ。勿論ぼくは「昔ながらの常識」を否定したいワケではない。常識とか良識とか、そういった法律のように成文化されていない規範に、自然に従う社会は決して悪いことではないと思う。どちらかというと積極的に認めたい。少なくともぼくらが常識とか良識と信じてきた規範は、一般的に大勢の人間が暮らしよく暮らすためには有効であったことは間違いない。勿論、そこに「因習」とか「慣わし」とか言われるような問題も含んでいたことは事実であり、決してすべてに問題がないというつもりではない。しかしそれでも、常識や良識の通用しない、すべてが成文化された「法律」にのみ従う社会よりは、望ましいものであると思う。ちなみに良識(good will=善き意志)は「思いやり」という言葉で考えてみたい。厳密には常識と良識は異なるものであり、相反する場面もあるのだが、しかし敢えてまとめて「常識だとか、良識だとか」が通用する社会を望ましく思う。
※このレビューがあくまでも「墜落」という作品に対するレビューであるという観点より、ここでは敢えて「少数の多様性の意義」についての論議までは言及しないこととする。あまりに横道に逸れすぎる。


閑話休題。本当は「義理と人情」なんて話もしてみたいが、いい加減、作品のレビューに戻そう。


元<北海道日報>の記者であった畝原は当時、北海道警察汚職や、暴力団などとの癒着をテーマとした取材を行なっていた。その結果、卑劣な罠にはめられ、新聞記者を辞めなければならない、いやほとんど社会的に抹殺されるような状況に陥った。妻とは離婚、ひとり娘の冴香は畝原のもとに残ることとなった。畝原は、彼を信じる友人や知人、旧友のおかげで、私立探偵として独立し、なんとか生きながえらることができた。本書はうらぶれてはいるが、こつこつと地味に、矜持を胸に秘め生きてきた私立探偵、畝原の「待っていた女・渇き」「流れる砂」「悲鳴」「熾火」に続くシリーズの最新作。
いつものメンバーがいつものごとく、それぞれの、もはや確立した生き様を見せつけながら行動する。そういう意味では間違いなく安心して読める作品。それは勿論、作品の出来とは別の話しだが。個人的に、東直己は大好きな作家のひとりだ。その時点でもはや客観的な読み方はできない。主観的に許してしまう。本作品も、その語りくち、文体、畝原や彼をとりまくいつものメンバーの動き、そして最後の、そうあたかも前作の悲惨なラストと対照的を為すかのような、ささやかであたたかい、希望を感じさせる光景には涙があふれそうな静かな感動を覚えた。
しかしそれでも客観的に論じようとするならば、残念ながら「客観的には傑作とは言えない」。ミステリーとしての解くべき謎もおよそ終盤まで分からず、その謎解きも唐突。一応解くべき謎があるという点ではミステリーといえるのかもしれないが、それが必要だったのかさえ疑問。もしかしたらこの作品は畝原という静かな大人の魅力を持つ男の、ある事件に絡んだ行動、日常を描いただけのネオ・ハードボイルド小説といったほうがふさわしいのかもしれない。
ぼくがこの先、この作品を振り返ったときにおそらく思い出されるのは、物語の終盤に浮かび上がる「事件の謎」とそれに伴う、まさに「墜落」の事件、唐突に「明かされる謎」、いわゆるミステリーではない。畝原が家族と過ごす風景。それは新たに娘となった真由という長女と事件にまつわる情報を語りあう場面、あるいは高校時代からの友人、畝原が窮地に陥ったあの時代に手を差し伸べてくれた札幌では大手の探偵事務所の所長横山や、これもおなじみとなった畝原を手伝う横山の息子のタカ、そして幼い頃から見知っていたタカに対するほのかな想いをその仕草に見せ、畝原をとまどわせる、いまや高校生となった娘の冴香、あるいは前作で傷ついた心と体を、すこしずつ癒していく明美、そしてやはり本作品で養女としてひきとった、心を閉ざす少女幸恵が畝原たちに心を開いていく様子なのだろう。畝原の家族の、あるいは彼をとりまく人々の物語は、決して作品の本筋ではない。しかし畝原が巻き込まれたわけのわからない事件より、よほど心に残るのだ。


義理の娘の行動を心配する母親の依頼で調査に出た畝原が辿り着いたのは、遊ぶ金欲しさのために年金で暮らす老人に体を開く少女の姿だった。母親のもとへ少女を送り届ければ、それで終わりのはずだった。二度とその少女とは会わない、畝原の予想は間違っていた。
少女の母の紹介により、新たな依頼が畝原のもとへ舞い込んだ。それはまったく身に覚えのない脅迫状を送られた主婦からの依頼であった。依頼人の家を訪れた畝原は、そこで依頼人の祖父であり、北海道では著名な文化人、詩人の鶯宮弦岳と出会う。仕事の話をしていると、畝原の携帯電話に警察からの電話が入った。畝原が車を停めた駐車場にすぐ来て欲しいと。そしてまた同時に鶯宮の家にも電話が入った。鶯宮が持つ駐車場、それはまさに依頼人である鶯宮に指示され、畝原が車を停めた駐車場で、人が二名刺されたという。かくして畝原は事件に巻き込まれるのであった。猫の連続首切り事件。インターネットの掲示板での悪意と考えのない無分別な書き込み。簡単に人を殺す子供たち。
そして、まったく関わりのないふたつの事件が交差したとき、最後の事件は起きた。そこに隠された真実とは・・。


あらすじを簡単に書いてみたが、おそらくこの作品をこれから読む方がいるならば、読んでいる最中、ぼくの書いたあらすじに違和感を覚えるかもしれない。なぜなら、ここに書かれる事件は先に述べたとおりにこの作品の本筋ではないからだ。しかしそれでもあらすじを書いてみると、こうとしか書けない。もちろんネタバレは一応なしという前提で書くならば、。


畝原のシリーズをこの作品から読もうと思う方がいるならば、やめておいたほうがいいと言っておこう。しかし興味を持ち、シリーズの最初から読んでみようと思うならば、このささやかな希望を持たせてくれる作品が待っているので、頑張ってこの作品まで読み進めて欲しい。この作品まで読み通すことができたなら、そのときはこの畝原のシリーズにあなたはやられている。客観的ではなく、主観的に。


万人にオススメはしない。ぼくが等身大の男たちの物語と呼ぶ、ネオ・ハードボイルドの世界に興味をもつ方にのみ薦めたい。
ひとつの作品ではない。シリーズを通して読む。それがこの作品の一番の楽しみ方だと思う。
決して、客観的に優れた作品とは言わない。


蛇足:東直己の文章では、人の名前を聞いただけの場合、その名前をカタカナで表記する記述が見られる。人の名を漢字でどう書くか、漢字での書き方を見るなり、聞くなりしないと分からない。それはとても当たり前のことなのだが、いままでその記述にそれほど感心したことはなかった。しかし、今回は唸らされた。そうか、そうだよな。やっぱり。トウゴウという刑事。
蛇足2:<俺>は携帯のメールを嫌っていたが、畝原は使いこなしている。さて作家本人はどう思っているのだろう。しかし畝原の携帯のメールは、携帯のメールとは思えないほどきちんとしている。