The MANZAI 3

The MANZAI〈3〉 (ピュアフル文庫)

The MANZAI〈3〉 (ピュアフル文庫)

The MANZAI 3」あさのあつこ(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、青春、中学生、友情、漫才、成長


※あらすじあり、未読者は注意願います。


1,2に続く第三巻、ここに来て評価を☆4つから3つに下げさせてもらった。1,2に続く、あいかわらずの中学生の青春物語。決して悪くないのだけれど、今回はいままでの巻のように事件らしい事件が起こらない。2巻で少し触れていた、町内会長の和菓子屋のおじさんに秋本が頼まれていた、町内会の夏祭りへの参加を、歩が決意するまでを描いた作品。ところどころいつものごとく読者の心に訴える、唸らせる表現はあれど、基本的には次の巻へのプロローグというところ。一冊の作品としては少し弱い。客観的な評価として、☆3つ。ただしこの作品は、本来それぞれの巻で評価するより、シリーズを通した大長編として評価するような作品だとは思うのだが。


基本的には好感の持てる作品として、万人にオススメできるシリーズであるというスタンスは変わらない。ぜひ、ぜひ読むべし。ただこの巻になって先行きに少し不安を覚えた。それは、彼らの世界が広がりすぎてリアリティーが失われていくのではないかということ。今までの物語は、中学校という閉ざされた世界で起きてきた事件であったが、今回は町内会の夏祭りに広がっていく。同じ町内という狭い世界のなかで物語が進むうちはまだよいのだろうが、問題の夏祭りは、市からの助成金という、新たな合併市町村の新市長の思惑が入りこんだ夏祭りであり、一気に世界が広がりそうな懸念がある。主人公の歩と秋本が中学の文化祭で行なった「漫才ロミオとジュリエット」が、いかに観客を沸かせたとしても、それはあくまで閉じられた世界のなかの話しである。よしんばその世界がを広がったとしても、観客としてたまたま見る機会のあった同じ町内会の住民までのレベルではないだろうか。学校の文化祭というレベルであればこそ、歩と秋本の漫才は評価される。1巻で見せた彼らの漫才は結局、第三者がみても通用するものではなかった。内輪受けの先生の物真似と、歩の女装で何とか凌いだというところ。作品世界が広がったときにも通用するものではない。
また現代現実の世界を振り返ってみたとき「中学の文化祭」が、町の住民を動かすほどの影響を持つとも思えない。そんなまだちっぽけな彼らの漫才をして、これから先、まさか町を、あるいは市を動かすようなことが起きるならば、リアリティーに齟齬をきたすと思う。
ここで作品を物語としてではなく、現実を見据えた読み方をするぼくのような読み手のほうが少数でおかしいのかもしれない。これはあくまで物語(フィクション)なのだから、多少の嘘、誇張は見過ごして読むべきなのかもしれない。しかしこの作品がここまで保持してきた現実に即した力(ちから)、魅力を評価すればこそ、ここから先もリアリティーを保った作品でいてほしいと思う。歩や秋本の漫才も、いつかは広い世界に通用するものとなるのかもしれない。しかし今はまだ日常のかけあいの域を出ない。
「バッテリー」を読んだとき、あさのあつこをうまい作家だと思った。いままでの青春小説ならこう書くだろうという、予定調和をうまく外して書ききった。だから本作品も実はそれほど心配していない。たぶん大丈夫だ。しかし少年少女たちの行動を見ていると、少しだけ不安を覚えるので、敢えて書いてみた。


八月に入って、猛烈な暑さが続いていた。ぼくは夏が嫌いだった。夏はぼくに、ぼくの弱さや脆さや醜さを突きつける。
いつものように秋本はぼくの部屋で漫才、漫才と騒いでいる。ぼくは漫才なんかする気はない。ふとぼくに触れた秋本がぼくの熱に気づいた。早く寝ろ。秋本はそういって帰っていった。眠りのなかでぼくは夢を見ていた。秋本と漫才をしていた。そんなバカな。夢のなかで衝撃を受けた。みなの笑い声がぶつかってきたのだ。みんな笑っていた、そしてそのなかには死んだ父さんと一美姉ちゃんも口を開け、身体をゆすり、腹を押さえて笑っていたのだ。
眠りから覚め、熱を測ってみると39度5分あった。母さんが心配するので、徒歩三分の総合病院の救急外来に行くことにした。ここでも看護婦のおばちゃんに文化祭のときの「ロミオとジュリエット」を話題にされた。何やらぼくはおばちゃんの受けだけはいいのだ。診察を受け、薬をもらいイスに座り込んでいると、萩本恵菜が病院の廊下を歩いてきた。萩本恵菜、通称メグはぼくが片思いをする女の子。しかし彼女は幼馴染の秋本が大好きで、秋本を巡りぼくを恋のライバル視している。困ったものだ。そんなメグが、いつもの溌剌とした様子とは別人のようにうなだれて歩いてきた。そして、いやだ、信じられないと言いながら、駆け出して行ってしまった。いったい何が彼女にあったのだろう。
翌日、秋本に「おたやん」に来てほしいと電話をもらった。「おたやん」は秋本の家でやっているお好み焼き屋さんだ。そこでいつものメンバーが集まった。秋本、森口、高原、蓮田、メグ、篠原。そこで話されたのは、夏祭りの話し。病院で出会った町内会長の三瀬さんがつぶやいていた、もしかしたら最後の夏祭りかもしれないという言葉が突然思い出された。毎年、市から夏祭り用におりていた補助金が、今年は全面的に打ち切られることになったらしい。表向きは、予算の見直しということだった。しかしその真相は、この春、湊市も行なった市町村合併に伴う新市長の選挙に、町内会が組織だって協力しなかったことにあるらしい。
しかたないじゃないか。大人の都合にこどもがふりまわされるなんて、どこにでもある話しじゃないか。人との付き合いに細心の注意を払い、傷つけたり、傷付けられたりすることを避けるように生きてきたぼくなのに、秋本と付き合いだすようになってから、言葉が先に出てしまうようになことが多くなった。こぼれた言葉は人を傷つける。秋本がうまくその言葉をひきとってくれ、いつもの掛け合いで終わらせてくれた。
そしてぼくらは、ぼくらの力(ちから)で出来る夏祭りを行なうことを決めた。え?ちょっと待ってくれよ。新調した浴衣を着たいから?好きな女の子の浴衣姿を見たいから?そんな理由だけでいいの?
「いい」「下心は必要だ」いつも冷静な、学年一の秀才高原が下心を宣言した。そして、。
そんな話し合いのなかでも、やはりメグはいつもと様子が違っていた。メグを家まで送る間に聞いたのは、メグの父親が再婚を決意したこと。そしてその相手の名前。プロポーズの回答はまだもらってないらしいが、メグの心は揺れていた。だって、そんなことになったら・・。
ぼくは決意した。メグを笑わせてやる。それが僅かの時間でも笑いの力で、すべての悩みも辛さも粉々に砕いてやる。すべてを忘れさせてやる。やろうぜ、秋本。
そして夏祭りの日になった・・。


ひととの関わりを避け、傷付くことも、傷付けることも恐れる主人公の歩。それは現代の若者のひとつの姿なのかもしれない。しかし、あさのあつこは、決して若者の典型としてだけの主人公を描こうとしているわけではない。あくまでもひとりの、繊細で、孤独な少年の心を描こうとしているのだ。傷つきやすく、プライドが高い。だれとも関わりたくないのに、捨て置かれることの怖さを知る。そんな彼の気持ちをあさのあつこは以下の文章で見事に表現する。


熱をもつような激しい感情は苦手だった。自分のものであっても、他人のものであっても、圧倒的にうっとうしい。静かに、自分の内にも外にも波風をたてず、何も荒立てず、凪いだままで生きていたい。たとえそれが憎しみや哀しみといった負の感情でなくとも、たとえそれが愛とか恋とかと言った甘い感情であったとしても、激しく脈打つものからは、身を引いていたい。
疲れるのだ。それに、怖い。人の感情は、いつだって刃を含む。丁重に用心深く扱わないと、誰かを傷付けることにも、誰かに傷付けられることにもなってしまう。どちらも嫌だった。だから、ぼくは、もう被害者にも加害者にもなりたくない。なのに・・。(ピュアフル文庫P86)


多くの読者がこの部分を読み、共感するだろう。共感するのは決して若者だけではないだろう。そしてそんな歩を、人との関わりに無理やり引っ張り込む秋本を羨ましく思うのだ。こんな友人がいてくれたら、どんなにいいだろう。秋本は、歩がどんなにつれない態度をとっても、決してあきらめたりしない。それは歩が彼の特別だから。主人公をサポートする相方なのだ。2巻のレビューでも触れたが、おちゃらけた性格と言動、行動に誤魔化されるが、秋本はとても大人だ。この巻を読んでいてさらにそう思った。そしてまた、ほんの少しだけだが、そういう立場の彼だからこそのおふざけが、ちょっとだけ鼻につくような気がした。いや、秋本はとてもいい奴なのだけれども・・。


次の巻では、亡き父の浴衣を着た歩が、秋本といよいよ夏祭りの舞台を踏む。この舞台を、いかにあさのあつこがうまく書いてくれるか楽しみだ。


蛇足:歩のメグへの切ない思いが吐露された本作であったのだが、もう少し書いてほしいところ。愛と恋とエロの森口ではないが、いままでのおままごとのようなトライアングルから、真剣に人を恋する思春期の切ない想いを交えた三角関係も、あさのあつこがどう書いてくれるか楽しみだ。