馳星周

楽園の眠り

楽園の眠り

「楽園の眠り」馳星周(2005)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、DV、誘拐、少女、幼児、ノワール


※たぶん・・ネタバレありです。


正直言えば、ぼくはこういう小説は好きじゃないはず。
つい最近、同じような書き出しでレビューを書いた。前回は成長のほとんどない青春小説(「スイッチ」(さとうさくら))、今回はDV(ドメスティックバイオレンス家庭内暴力)のなかの、とくに幼児虐待を扱った作品。基本的に、抵抗する力のない(言い方は悪いが)女こどもが、暴力に晒される作品を好まない。しかし今回読んだ作品は、それがテーマであったにもかかわらず実はそれほど悪くないという読後感、いや読中感を持った。それは馳星周ノワールノベルを前提とした読み方だったからかもしれない、アンダーグラウンドとバイオレンス、それが馳星周の作品に対して予期した世界。しかし本作はちょっと違った。妻に家を出て行かれ、残された自分の子どもに暴力を振るわずにはいられないあるひとりの刑事が、ひとりの女子高校生に子どもを誘拐され、(それは女子高校生にすれば子どもを保護しているということになるのだが)子どもを愛するがゆえに捜し、追い求める物語。幼い子どもに暴力を振るうことが悪いことだと頭で判っていながら、それをとめることのできない悩み。しかしそれでも子どもは、自分を保護し、可愛がってくれた女子高校生ではなく、暴力を振るう父親を選ぶ。せっかく家族になりたかったのに、女子高校生の悲痛な心の叫び。女子高生もまたDVの被害者であった。誘拐事件が解決し、一見幸せを取り戻したかのように見えたな主人公親子であったが、新しい生活をはじめ、苦しい現実世界に戻ったとき、またもや泥沼のような迷宮、繰り返される暴力に突入の予感を思わせる終わり方となってしまうのだが、それでも自分の息子を愛する主人公には、ほんの少しの希望のようなものが見えたような気がする。それは錯覚だろうか。


残念ながらというか、幸せなことにというか、DVという問題には無縁の生活を送ってきた。書物からの知識しかない。そういうぼくが、偉そうにDVとはなんぞやと語るつもりはない。しかしこの作品を読む上で、ぼくが理解している、知識の前提のようなものを語りたい。そしてそれがもし間違っているなら、ぜひ指摘を受け、直しておきたいと思う。社会事象としても取りあげられる現象は、正しい理解を行ないたいと思う。
DVとは、いわゆる日本語では家庭内暴力と訳されるが、それは決して「家庭」内に限ったことではなく、愛し、愛される恋人たちの間にも起こる。強い感情を軸に結びついた人間関係の間に起こる暴力。それは親から子への暴力、子から親への暴力、恋人(伴侶)からの暴力。形式はいくつかあれど、問題はそこに「愛情」という感情が介在していること。無差別な暴力であるならば、立ち向かうことができるのかもしれない。しかしDVの場合、暴力という事実以前に、人間関係が成立していることに問題がある。そのため、立ち向かうことができなくなる。その多くが「愛するがゆえ」に起こる。愛するがゆえに、愛する人への接触の仕方を間違えてしまう、あるいは知らない。とくに本書のテーマである幼児虐待という問題では、子供を愛するがゆえに、「良い子」にするために行なわれることが多い。泣き止まない子供に、泣き止むことが良いことだからと、泣き止ませるために行なう暴力。いうことを聞かない子は、自分がいうことは間違いない、それを聞かない子が悪いとふるう暴力。暴力をふるうことで、泣き止まない子供が、泣き止まないがゆえにさらに親たる自分を追い詰め、また暴力を振るう。子どもに暴力をふるうこと、それ自体は「頭では悪いこと」だと「判っていて」も、「気持ちがついていかない」、止められない。彼らは自分が子供に暴力を振るうことを自分のなかで正当化する、あるいは後悔する、その心理的な補償行為は人ぞれぞれさまざまであるが、問題は「頭でそれが頭でわかっている」のに、止められないこと。そしてまた問題なのは、DVを受けて育った子供は、自分の子供にも同じように暴力をふるう傾向にあるという悪循環のスパイラル。
DVを受けた子どもは自分が幸せでなかったから、自分の子どもには自分と同じような状況を味わわせたくないという願いを持つ。しかし願い虚しく、あたかも暴力を振るうことが子どもとの唯一の接触の術と幼い記憶に刷り込まれたかのように、自分も繰り返している。そういう傾向があるといわれている。それは本書でも、刑事の子を誘拐する高校生の少女の行動に現われる。
※またDVを受けて育った人間は、DVを振るう相手を選ぶ傾向にあるとも聞く。子どもとは、たとえDVを受けたとしてもいつまでも親の影を求めてしまうのだろうか?


人間として、頭で理解できることを、感情が止められないというのは、悲しいことなのか。それとも感情に左右されるからこそ人間らしいのか。いや、しかし暴力はどこかで断ち切って欲しい。人には「強い意志」というものが与えられているはずだ。それは「感情」であり、また「知能」であると思う。この作品の終わり方は、暗い予感を思わせる終わり方である。まさに、悪循環のスパイラルを予感させる。その意味では馳星周ワールドここにありなのだろう。しかし、それでもぼくにはこの主人公には強い意志があり、一筋の明るい未来をまだ感じ、期待できるような気がする。信じたいのだ。
この終わり方、他の人はどう思うのだろう。この終わり方はなくてよしという意見もネットで見かけるが、ぼくはありだと思う。悪循環のスパイラルは確かにある。大団円で終わらない現実を見せつけるかのような終わり方。しかし、ぼくのようにこの終わり方でも希望が見つけ出せるならありだろう。ただしそのまま素直に読むと、まったく救いがないということになるので、読み手の受け取り方で印象は大きく変わるのだろうが。


麹町警察署に努める友定伸は、幼稚園児の子ども雄介を置いて、妻に家を出て行かれた。ある日、ふとしたはずみで始まった雄介への暴力。理不尽にいたぶられる息子を不憫に思いながら、声を押し殺し泣き、不憫さに甘んじる息子が許せない。こんなことではいけない、なざまともに自分の子どもが愛せないのだろう。
生理が来ない。妊娠判定薬が妊娠を知らせる陽性をくっきりと報せる。幸治に知らせなきゃ。高校生の大原妙子は幸せな気分でいっぱいだった。友人からは幸治はやめときなと言われていたが、ふたりのときはとびきっり優しい幸治。赤ちゃんが欲しいって言っていた。ふたり、いやお腹の中の子どもと三人で素敵な家族を作るんだ。公園で仲間とたむろしていた幸治を呼び、妊娠を告た。すると幸治の態度は豹変した。生でやりたいだけだったんだ、第一俺の子かもわからないじゃないか。そして妙子のお腹をサッカーをやっていたというその脚で、凄い勢いで蹴り始めた。私たちの赤ちゃんなんだよ!訴える妙子に情け容赦なく襲い掛かる暴力。
気がつくと、病院に運ばれていた妙子。赤ちゃんは流産だった。
妙子の母、聡子は、妙子の心配をするより、夫であり、家の中の暴君である孝昭のことばかり気にし愚痴ばかりこぼし続けた。鹿児島の出身で高校まで柔道を習っていたという孝昭は、気に食わないことがあると、聡子や妙子を殴りつける。そしてここ数年、彼の暴力の向かう先は、たいてい妙子だった。しつけだと孝昭はいうが、それはでたらめだ。妙子はある日気づいたのだ、孝昭が自分に暴力をふるいながら股間を固くしていることに。こんな家、もうイヤだ。だから妙子は幸治と新しい家族を作りたかったのだ。明日になれば孝昭と顔を会わせなければならない。そう思った妙子は、まだ癒えぬ身体をベッドから引き剥がし夜の街へ脱出したのであった。
出会い系で援助交際を行ない当面の資金を得た妙子が、夜の池袋で出会ったのは、華奢で色の白い小さな言葉を発しない男の子だった。たったひとりで夜の街にいる男の子。妙子には自分がなくした赤ちゃんの代わりに神様が連れてきたのように思われた。
妙子が紫音と名づけたその子どもは、友定の息子雄介であった。預けられた、託児所を抜け出していたところを妙子と出会ったのだ。雄介の失踪の知らせを聞き、友定はあせった。だれかほかのひとに知られたら、雄介への暴力が露見してしまう。自分ひとりの手で捜さなければ。果たして、紫音とともにいた妙子は紫音の背中の痣から、彼が虐待を受けていることに気づく。この子は私が守る。
かくして友定と妙子の追いつ、追われつの物語が始まる。
行き場を無くし、妙子が頼る池袋のクラブのDJ、ヒデさん。ドラッグを扱い、ヤクザへの上納金を納められなくなった彼が思いついたことが、事態を複雑にする。息子を必死に探す友定が手に入れた情報、息子を連れて行った女子高校生、妙子は、出会い系サイトで援助交際の相手を捜す。僅かな望みをかけ、出会い系サイトに入会する友定。送られてくる多くのメールのなかに、友定と同じく自分の子どもへの虐待を止められない奈緒子という女性のメッセージに気づく。こんなことしていられないのに、そう思いながら、奈緒子と交わすメッセージを止められない友定。奈緒子の心の支えになりながら、自分の救いを求める友定。そしてふたりは出会う。さらに、ヒデさんの昔の知り合いで、数年前、数曲ヒット曲を飛ばしたロックバンドの女ボーカリストの登場。転がり込んだ彼女の部屋は、ひどく散らかっていた。泣かず飛ばずの日々で、金がない。事務所からはいよいよAVに出ろと言われている。
妙子にとって、いちばん大事なのは紫音とともにひっそりと暮らすこと、それが途中で加わった大人の思惑に翻弄されていく。友定の、身に染みた刑事の勘が、妙子を追い詰める。果たして妙子は無事逃げ切れるのだろうか・・。


スピーディーに展開する約3日間の出来事。馳星周らしくないという声もネットでは多く見かけたが、馳星周という作家の作品だからこそ、この作品はよかったと言えるのかもしれない。
この題材と、決して表向き希望のあるといえない作品をしてオススメというのもどうかと思うが、ぼくとすれば、必要以上に幼児虐待のシーンもなく、愛する息子を血眼に捜す父親という物語を楽しめたという意味でオススメの一冊。
ただ、馳星周の作品と思って読むと、はずされる。かといって、馳星周の作品と思わないで読むと、前述したとおりイヤな作品なのかもしれない。この辺は、読み手の判断に任せたい。


蛇足:幼児虐待が、日本でも一般的に認知する社会現象となり、小説の題材等で多く書かれるようになったが、個人的には海外ミステリー、ジョナサン・ケラーマンが書いた、小児精科神医アレックス・デラウェイの「大きな枝が折れるとき」から始まるシリーズが好きだった。「歪んだ果実」「グラス・キャニオン」と扶桑社文庫まではとてもよかった。日本では新潮文庫に移ってから、ちょっとなぁという感じ。