優しい子よ

優しい子よ

優しい子よ

「優しい子よ」大崎善生(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、短編、生と死、生命、私小説


※ネタバレがあるかもしれません。しかし、それはこの作品の強さを損なうものではないとぼくは信じます。


「真実」の持つ力の(ちから)の強さに、圧倒され、そしてただ涙が溢れた。


ネフローゼという病を持ち、壮絶に将棋、そして生命と向き合った夭逝した若き天才棋士村山聖(さとし)の生涯を描いたノンフィクション「聖の青春」( http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/1890989.html )でデビューした大崎善生。その後、段位と年齢制限という棋士世界の熾烈な戦いの世界をドロップアウトしていった若者の姿を描いた、同じくノンフィクション「将棋の子」を書いたあと、「パイロットフィッシュ」( http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/1890834.html )を発表。ノンフィクションから小説(フィクション)へジャンルを変え、今や、すっかり売れっ子作家といえる大崎が発表した最新作。
帯に「私小説」とある。あとがきにも、作家の揺れる心が表れる。ノンフィクションなのか、小説なのか。大崎にとってノンフィクションというジャンルは、そのデビュー作を、そしてそれに続く作品が評価されればされるほど、自分を縛りつける言葉になった。次は羽生善治を、谷川浩司を、大崎に望まれたものを振り切るように小説「パイロットフィッシュ」を発表した。そして結果としてそれは成功し、繊細で、丁寧な筆致を魅力とする小説家、大崎善生が生まれ、今日に至る。「ノンフィクションは冷たい」「小説は自由だ」本書のなかで、そのときの思いを大崎はそう綴る。残念ながら、その真意を思い量ることがぼくにはできないのだが(それはおそらく読み手ではなく、書き手、作り手にしかわからないものだと想像する)、その葛藤を想像することはできる。そして、その結果のひとつが本書なのではないだろうか。


ノンフィクションなのか、小説なのか。帯にある「私小説」という言葉を見つけることなく、もしこの本をひとつの小説(フィクション)として読んでいたならば、あまりにベタなお話しに、もしかしたらぼくはなんだこの本はと思ったかもしれない。中堅の作家が書く小説だろうか、と。
本書は、9歳というまだ幼いといってよい不治の病に冒された子どもと、女流棋士である作家の妻とのあたたかい交流を描く表題作からはじまる。偶然にも作家の妻は、幼少の頃その片足を切断する寸前という大きな事故を負っており、そしてその傷跡はいまだに、彼女が向き合っていかなければいけない事実として残っている。しかし子どもは彼女に対し、純然たる女流棋士にひとりのファンとして言葉を投げかける。病床に於ける彼にとって女流棋士である作家の妻の姿は、ただの憧れの存在でしかない。しかし、傷ついたことのある人たちは、なんて強く、そして優しいのだろう。話は横道に逸れるかもしれない。ぼくはこの強さと、優しさを知っている。灰谷健次郎の書いた小説「太陽の子(てだのふあ)」に見た。小説(フィクション)であるその作品のなかには、沖縄の人々の真実があった。苦しく、哀しいことがあったからこそ、それに負けない強さと優しさを持つ。その言葉だけを弄べば、それはきれいごとの一言で済ませることができる。しかし「太陽の子」で語られる、そして本書で語られる「真実」の持つ圧倒的な力(ちから)は何なのだろう。絵空事でない「優しさや」「強さ」。病床にある少年は、作家の妻(高橋和(やまと)元女流プロ棋士)の足のことを知り、近くの神社にお祈りに行くと手紙を綴る。そこに打算とかおもねりはまったくない。真に尊敬し、敬愛する女流棋士の無事を祈る少年の優しさだけがある。そしてまた作家の妻は、自分のファンである無垢なる少年を心から想う。それはやはり、自らが痛みを知ればこそ。しかし、様様な思い、それぞれの思慮や現実の生活といったなかで、お互いに相手を想い合うふたり、作家の妻と少年が対面することなく物語は終わる。
これが小説(フィクション)なら、あまりに下手な展開だ。ベタな話(創作)なら、ベタな話なりに巧く書ききって欲しい、読者はそう思うかもしれない。しかし、大崎の丁寧で、繊細な文章は、これが決して創り話ではなく、そこにあった事実、真実を淡々と描くだけで終わる。そこにいっさいの装飾を加えることを潔しとしないかのように。劇的に描くことが幾らでも赦されている物語(題材)を、敢えてそのまま描いた大崎の姿勢、それは「真実」の姿と力(ちから)を浮き彫りにすると同時に、大崎の葛藤を表わすのかもしれない。ノンフィクションという舞台を敢えて離れ、小説家の道を選らんだ大崎が、真実の力に打ちのめされる。自分なりに消化し、小説(創作)という形態に昇華させるべき題材を、敢えてそのままの姿でしか書かざるをえなかった。


本書は表題作「優しい子よ」のほか三篇の短編、計四編から成る。大崎のデビュー作である「聖の青春」を早くから買い、作品が店頭に並ぶときには映像化の話を申し出、そして映像化した、テレビマンユニオンの会長であり、名プロデューサーである萩元晴彦の逝去、そして生前からの交流、あるいは死後、彼の生きてきた道を確かめる大崎の姿を描く「テレビの虚空」「故郷(ふるさと)」の二編の連作短編。そして少年の死と、尊敬する友人の死(あるいはそこに、大崎のデビュー作で描いた村山聖の死も含むのかもしれない)を経た大崎とその妻が、新たな生命を得る物語「誕生」。


年少の少年の生と死を経て、そしてまた、恩人であり年長の友人である萩元の生と死を経た大崎とその妻が、新たに生命を得る。これもやはりベタな展開である。しかしそれは驚くべき天の配剤、偶然という産物。そして奇跡。この物語も劇的ともいえる切迫流産の危機を無事乗り越え(しかも、それはまたもや決して劇的に書かれていない)、生命を継ぐものとしての子どもを得る大崎夫妻。生命の強さとしなやかさを、そこに見てしまうのは、読み手としてはやりすぎだろうか。
あとがきでは、表題作の優しい少年の両親が、その後(おそらく)決して幸せでなかった様子が仄かに読み取れる。これもまた現実であり、真実なのだろう。物語のようにうまくは進まない。この作品は、あとがきまで含めて一冊の作品である。作家、大崎善生はこの作品を経たことで、また新たな道を進むのだろうか。
ぼくと大崎善生の出会いは「パイロットフィッシュ」であり、またその後も幾つかの小説も読んできた。しかしやはり「聖の青春」あるいは「将棋の子」と比べた場合、その他の作品に「大崎善生」という強い個性を感じることはなかった。そうしたなかでこの四つの短編を発表し、そしてあとがきをも含めた一冊の作品とした出版したことで、大崎善生の何かが変わり、新たな大崎善生という個性が明確に生み出されることを期待したい。ターニングポイント(転機)。


そして最後に敢えて語る。この一冊の作品を「小説」という作品としてみた場合、客観的には高い評価は与えられない。真実を、そのままにしか表現できなかったこと。それは、仮にこの作品がノンフィクションであったとしても、もうすこし巧い書きようがあったと思う。そして「小説」(それが虚構であろうが私小説(が仮にノンフィクションであれ)であれ)としてみた場合、想いにひきずられすぎ、焦点がぼけ、散漫な印象を与えていることも指摘したい。とくに萩元を描いた語では、作品の焦点が萩元にあるのか、それとも萩元の友人の宮澤なのか分り難い印象を覚えた。


そういう意味で、客観的には高く評価しない。しかし主観では、とにかく泣いた。涙がとまらなかった。真実にやられた。
あとは、各本読み人の判断に任せたい。そしてまた、それぞれの人がどのような感想を得るのか心から聞きたい。


追記:同じ本読み人仲間、聖月さんのブログ「本のことども」の本作品の記事を読み、考えさせられたことがある。それは、この「真実」を伝えるための、「事実を書き連ねる技術」。それが大崎善生の筆であればこそ、ぼくらの心に染みとおるように伝えられるものなのかもしれない。


蛇足:しかし46歳で26歳の美人女流棋士と結婚ですかぁ、大崎善生。いや、もちろん魂と魂の出会いなのでしょうが、ちょっとびっくり。いやこれは我ながら下世話な話題か。