アジア新聞屋台村

アジア新聞屋台村

アジア新聞屋台村

「アジア新聞屋台村」高野秀行(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、小説、出版社、エッセイ、多国籍、アジア


ええと、正直に言う。なんだ?これ?小説?自伝?エッセイ?
帯を見返すと「本邦初!自伝仕立て<多国籍風>青春記」とあるが、なるほど、たしかに自伝風青春記。この作家のことを全然知らず、タイトルの怪しさに借りてみたのだが、一応小説らしい。主人公はフリーライター高野秀行、作家本人と、作品の主人公がまるきっり重なり、またその来歴も同じ(らしい)。この作家が、過去に関わった幾つかのアジア系のミニコミ誌関係の仕事のエピソードをもとに書かれたのが、この小説らしいが、これで小説といっていいものやら。個人的には「小説」未満。書かれている内容は、日本で幾つもの外語月刊新聞を発行するたくましく、恐れを知らず、チャレンジ精神いっぱいの、そして可愛らし台湾人女社長を中心とした、本業ではなく片手間に新聞を作る多国籍の人々の姿。日本という国のなかで、ちまちましている日本人に比べ、ここに出てくる人々の豪快ともいえるいいかげんさには、気持ちよく、おもしろく思うものの「小説」が成立しているとは思えない。ただ(おそらく)実際に起こったことを、並べただけにしか思えない。なぜ「小説」と呼ぶのかといえば、(おそらく)事実を一部脚色し、それが「虚構(フィクション)」となっており、そのためだろか。作品的な質は大きく変われど、最近読んだ「優しい子よ」(大崎善生)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/40300157.html ]と同じで、真実(事実)が力(ちから)のある作品。しかし、ひとつの小説としては、あまり評価できない。小説として、主人公が題材となった会社に別れを告げる場面がある。主人公の成長をあらわすこのエピソードも唐突、かつ、とってつけたようでなんだか面映い。あんた、本当にそれで成長したのかい?


ネット等を調べてみると、もともとこの作家、大学(あ、同窓)の探検部出身。決められた道ではなく、自由を選び、世界のあちこちを旅し、三十過ぎでも生活の安定しない、しかしそれはそれで楽しい。普段はアジアの人々の生活を中心に書くフリーライター生活を送っているよう。まぁ、ありがちなライフスタイルのひとつ。
そんな彼が、ある日「エイジアン(ASIAN)」という会社から、執筆の依頼を受けるところから物語は始まる。酩酊した頭で受けた電話で「エイジアン」を「エイリアン」だと聞き違え、混乱しているエピソードを紹介するが、最初から蛇足。
タイ人を名乗るレックという名の女性の依頼は、タイについてのコラムを書いて欲しいというものだった。原稿の分量は「縦24.5センチ、横17センチ」。それはコラムの枠の大きさだろう。かって原稿の量を原稿を収めるコラム(枠)の大きさで依頼されたことはない。大体、活字の大きさが違えば、文字数も変わる。翌日高田馬場近くにあるエイジアンを訪れ、原稿を依頼してきた女性、レックちゃんに出会ってみると、なるほど彼女の作る「タイ・ニューズ」という月刊新聞は、記事ごとにいろいろな文字の級数が並んでおり、これでは原稿の分量は枠の大きさになるのも頷ける。新聞も、彼女ひとりで作っているらしい。原稿用紙七〜八枚を適当に書けばいいな。かくして主人公である私、高野は「タイ・ニューズ」にタイについてのコラムを連載することになる。
そしてそこで紹介された社長が、最初に会社を尋ねたときに入り口脇のデスクにいた、タンクトップにショートパンツ、スニーカーに茶髪のロングヘア、ピンクの口紅という遊びに来ているねえちゃんとしか見えなかった女性。子犬のような笑顔のこの女性が「株式会社エイジアン新聞社」社長、劉さん、台湾人、年齢三十一歳だった。
こうして最初はコラムの連載ではじまった、主人公の私とエイジアンの物語が始まる。
エイジアンでは、在日外国人向けに月刊新聞を五つ発行していた。「タイ・ニューズ」(タイ)、「台湾時報」(台湾)、「マンスリー・ミャンマー」(ミャンマー)、「インドネシア・インフォメーション」(インドネシア)、「マレーシア・ワンダー」(マレーシア)。これらの新聞は、皆、半分が母国語で、半分が日本語という形態をとっている。これは社長の劉さんの方針で、日本人のパートナーを持つ在日外国人はたくさんおり、両方が一度に読めるからだという。母国語で書かれた新聞の半分を在日外国人を読み、日本語で書かれた残り半分をそのパートナーが読む。日本人だったらそれぞれの対象向けに新聞を発行するところだろうが、成程、これはこれであり、なのかもしれない。しかし、日本語版の内容がひどい。誤字、脱字の嵐。校正とか、編集会議とかふつうに出版に関わる人が当たり前と思うことが、ここでは通用しない。それぞれの新聞を作るのは、それぞれの国の、とてもプロといえないような人たちばかり。例えば留学生であるレックちゃんの作る「タイ・ニューズ」は、レックちゃんが「お姉ちゃんグループ」と呼ぶ、タイに住むレックちゃんのお姉さんとその仲間がインターネットで送ってくるニュースを切り貼りしている有様。他の新聞も似たり寄ったりの状況。
どうしてこうなったかと言えば、社長である劉さんが、安定を嫌い、何でもやってみようという、イケイケドンドンな性格だから。日本人だったら、始める前にいろいろ戦略を練り、やれるという自信を持ってから物事を始める。しかし国民性か、この台湾人の若き女性社長はとにかくおもしろそうだったらやってみよう、という性格。会社も新聞の発行だけでなく、国際電話のカードの発売、在日外国人向け不動産業等、多岐に渡る。新聞は「発行されてさえいればそれでよし」とばかりに、各国の人々が集まりボランティアでそれぞれ勝手に作っているのだ。
エイジアンで知り合ったインドネシア人、バンバンさんもそんなひとり。彼は日本の医師免許がないので、外国人向けの医者をやりながら、片手間に「インドネシア・インフォメーション」の編集を行なっている。そんな彼が言う、ここは屋台の集まりなのだ、欲しいといわれて、あれば渡すし、なければ売り切れ。そうか、まさにアジアの屋台なんだ。料理の代わりに新聞を出す。メニューを増やして評判がよければ、続けるし、ダメならやめる。アジア的発送に頷く主人公。
「編集顧問」という肩書きをもらい、エイジアンに深く関わるようになった、主人公3年間(だったかな?)の物語。途中、淡い想いの物語もあり、あるいはデキる日本の編集者がやってきたり。そんな、多国籍人種起業エイジアンのてんやわんやのエピソードが綴られる物語。


最初に述べたとおり、「事実」はとにかく、おもしろい。臆病で慎重な日本人の目から見ると、はちゃめちゃに見えるアジアの人々の姿。日本という国に居て、なおかつ自分のやり方を貫く彼らの様子は、傍から見ればおもしろ、おかしい。確かに本書は、そのおもしろさは伝わる。しかしなにか表層的という、印象を覚える。もっと深く、食い込んで、さらって欲しい。この書で取り上げている、日本で働くアジアの国の人々は、自国では富裕層の人々だという。それらの人々が日本で、不自由な思いをしながらも学生をやり、バイトをやり、新聞作りに関わりあう。ローマの休日を例え、無名でいられる日本での不自由ななかでの自由を語る。しかし、ならばこそ、彼らの中にもっと、ぐっと突っ込んで作品として掘り下げて欲しかった。
後から思い返してみれば、それでも、やはり、この新聞社で新聞を発行できる人々は、富裕層の人々だからなのかなとか思ったりもする。結局、片手間にしているのではないか。作品で、会社が差し押さえを喰らい、半年も給料が払われない状況になったとき、このたくましきアジアの人たちは、動じることなく、本業でしのいでいたようである。ここで、問題なのは「ようである」なのだ。この本の作家は、ここに登場する人々と会社という場では仲良く、和気藹々と過ごしているように描かれるのだが、実は彼らの本当の姿を知らないのではないだろうか。だからこそ、会社で起こる「事実」はおもしろいのだが、それだけ、表層的に見えるのではないか。事象を通して、作家も考察するのだが、人づてに聞いたことや、推測ばかりであり、その本人の本当の姿まで行きつけていないような気がする。


こういう、形態の小説も認めないわけではないが、やはり「小説」ならばこそ、もっと突っ込んで欲しかった。


蛇足:同じような形態で書かれた自伝風青春記では、椎名誠の「哀愁の町に霧が降るのだ」「新橋烏森口青春篇」「銀座のカラス」が思い出される。もっとも、椎名誠のほうが、こうぐっと青春で、小説なんだよね。それはこの作品が事実を見つめる作品なのに対し、椎名誠の作品は、それでも自分を見つめているからなのかもしれない。