栄光なき凱旋-下-

栄光なき凱旋 下

栄光なき凱旋 下

「栄光なき凱旋-下-」真保裕一(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、小説、第二次世界大戦、在米日系人、戦争、人種、誇り


まず、個人的なことから。
「継続は力なり」という言葉をいまさらながら噛み締めている。何の気なしにレビュー続けてきたのだが、書き続けるということは、実はそれだけですごいことなのではないかと思いはじめている。毎日、あるいは数日おきでも構わない、継続して本の感想を書き続けるネットの本読み人諸氏は、それだけでもしかしたらスゴイことをしているのではないかと思う。実は忙しさにかまけてレビューを書くことを後回しにしていた。それは、それがあることに気づいてたくせに、遊ぶことに忙しく何もしないでいた夏休み最後の日の夕食の後、山となった宿題を前に途方にくれる小学生の気分にも似た気持ち。小学生と違うのは、逃げてしまっても何の問題もないこと。気力をふりしぼりPCの前に座りながら、思わずネットを覗いたり、逃避行動を続けている・・。いかんなぁ。数日が早くも過ぎていく。


さて「栄光なき凱旋」の下巻である。この作品はまさしく物語である。上巻のレビューではhttp://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/40838347.html 、多少あらすじに触れたが、この作品の場合そのあらすじ(物語)を追うことが作品の楽しみのひとつである。故に下巻のあらすじはあくまでも簡単に触れることにする。


ジロー、マット、ヘンリーの三人の日系二世の若者はそれぞれ軍の生活を送ることになる。ジローは語学兵でありながらガタルカナルの戦場に赴いた。結果として日本兵を自らの手で倒し、偵察隊43名の命を救う英雄となっていた。しかしジローの心は決して晴れることはなかった。日本でもない、アメリカでもない、ただ自分が生きるというそのことだけが問題であった。冷たい蒼い炎を心に燃やすかのような態度で、基地でも酒を飲んでは白人兵士と問題ばかり起こしていた。英雄でありながら、上層部にはもてあまされる存在。
一方、マットもハワイの陽気な仲間とともに本土に到着、日系人部隊第四四ニ連隊の一員となった。日系人兵士に対して難癖をつける白人兵士といざこざもあったが、本土出身の上官であるイナガキの語る「わたしはアメリカ人だから軍に志願した、しかし国はわたしをアメリカ人だと認めたわけでなかった」という言葉に、日系人のひとりとして、この戦争で活躍しアメリカ人として国に認めてもらう決意を新たにするのであった。
マットの部隊に本土からヘンリーたちも合流した。主人公二人の出会い。陽気な気質で、仲間意識の高いハワイからの日系兵と、本土からの兵の間には埋めがたい溝のようなものがあった。それは本土からの志願兵がハワイからの志願兵と違い、日系人の強制キャンプのなかから選ばざるを得ない選択の結果としての志願であったことも大きく影響していた。そんななか決して本土の仲間に組みするでもなく、あくまでも理路整然とした態度を貫き通すヘンリーであった。そんなハワイからの兵と本土からの兵の溝も、厳しい訓練の合間の休日に転住キャンプを訪問したハワイ兵たちが現実を理解するに及び、瓦解し、理解しあうのであった。「アメリカとは肌の色を理由に、多くの国民を仲間外れにできる国なんだ。それでもおれたちの祖国だ。この国でしかおれたちは生きる場所がない。命をかけて自分たちの手で、生きる場所をつかみ取っていくしかないんだ」日系人部隊の心にヘンリーの言葉がしみわたっていく。
物語は舞台を戦場に移していく。第四四ニ連隊より引き抜かれ語学兵となったマットは、作戦でジローと行動をともにする。日本軍が落としていった重要機密を、再度日本軍に戻す作戦。現地ゲリラの協力と命の引き換えにより作戦をなんとか遂行した。任務から戻る途中、マットは足に怪我を負うがジローによって命を救われる。自分より大きいマットの身体を、見捨てることなく背負い歩き続け、ともに退路につくジロー。そんなジローにマットは、連隊で一緒だったポール・タカクラの弟エドワードからの質問を投げつけるマット。人を殺したことがあるか?
基地に戻ったジローたちが知るのは、アメリカ人たちにとって戦争という舞台のなかでは、自分たち日系人兵士は結局、単なる使い捨ての駒のひとつでしかないということであった。一方、マットのハワイの仲間や、ヘンリーたちのいる第四四ニ連隊はヨーロッパに送られていた。戦争でもっとも勇敢な部隊として名をあげる日系人部隊。しかしその実態は、銃弾の危険のない場所で作戦を練り、命令を下す軍の上層部の単なる駒にしか過ぎなかった。犠牲は計算のうち。そしてさらに、白人の命と名誉を優先した作戦命令が下される。無理としか思えない命令を果敢に遂行する日系兵たち。それは自らの存在を、戦場という場の功労でアメリカの国に対して訴えていくしかない日系兵たちの命をかけた悲痛の願いを表すかのように。そんな戦場でヘンリーは、死への恐怖から身がすくみ、さらに負傷してしまう。野戦病院で思い悩むヘンリー。皆と一緒に戦いに行かなければいけないと頭でわかることに反し、本能として死を恐れる身体が、怪我を理由にして病院に留まることを正当化する。その姿は、あの常に正当なものを追いかけるヘンリーの姿ではなかった。いや、まさしく極限状態で現れる人間の本当の姿なのかもしれない。
愛するものを守るため、自分たちの存在を祖国アメリカに認めさせるため、あるいは生きていくために、それぞれの思いを抱き戦争に参加した三人の若者の物語。そして彼らの運命はどうなっていくのだろうか・・。


戦争という状態において軍部が人を駒として、その損失をも計算し動かしていくということは、「人間」という視点から捉えれば冷たく残酷なことかもしれないが、それはまさに「軍」であれば致し方ないこと。本作品ではまさにそういう状況のなかで、日系兵という視点を通して描かかればこそ、軍あるいは国というものの冷たさを感じる。そしてさらに白人優先という作戦を遂行するアメリカ。この物語で、日系人の置かれた立場を理解し、また戦場で果敢に戦う姿に賞賛を与えることは簡単なことだ。なぜなら、彼らは歴史の被害者であったからだ。祖国アメリカと、民族として自分の身体に流れる日本人という血のふたつに狭間で揺れる立場に置かれながら、様様な思いを抱き、考え、そしてよかれと思う行動を行なう者たち。
しかし真保裕一の筆は、祖国と民族の血の狭間に揺れる日系人の悲劇を描きながら、また日本兵の、そして白人であるアメリカ兵の、そしてアメリカの姿をも冷静に描く。こういう作品はともすれば主人公たちの立場に寄りすぎて、悲劇をことさら劇的に描こうとする傾向が強くなる。しかし少し距離を置いた冷静な目で事実を描いていくこの作品は、声高に悲劇を叫ぶだけの作品と比べ、読むものに考えるという余地を与える。ヒステリックでないことがとても好ましい。そしてそれがゆえに日系人、日系兵の悲劇を描きながら、それがその状況のなかでは致し方のない事実であったことを訴える。
戦争は悲劇である。この作品では米国に住む日系人たちの姿を中心に描いているが、ぼくはこの作品のなかには、普遍的な戦争というシステムの悲劇を感じた。国というもの威信をかけ戦うこと。人はもっとわかりあうべきだと、きれいごとを言うことが、いかにたやすく、そしてもろいものかを感じた。


あぁ。いまさらながら、書くことに躊躇していたのは、この作品で扱われるテーマに対する意見を自分なりにまとめ、それを表現するということなんだと改めて気づいた。
作品をそのまま、第二次大戦中の日系人、日系兵の悲劇とだけ捉えて、レビューを書くことはとても簡単な気がする。そして、それでもきっと間違いではない。
しかし、ぼくはこの作品にはもっと大きな戦争の持つ悲劇の普遍性を感じた。いや人間や、国家というものの持つ普遍たる悲劇といったものなのかもしれない。肌の色で差別する白人に対し、真保裕一は作品のなかで「日本人は、中国人や朝鮮人をどう思っていたか?」と投げかける。肌の色はわかりやすい「区別」の材料で、それがゆえに簡単に「差別」の材料となった。しかし、人はもともと本能として「区別」をし、「差別」をしたがる生き物なのではないだろうか。日本という国でも長い歴史のなかで、隣国にのみならず、制度としての士農工商があり、あるいは血の違う隣村との諍いなどもあったはずだ。いや作品のなかで、同じ日本人の血が流れる日系二世の人々「帰米」と呼ばれる人々を日本語がきちんと使えないということで、虐げる描写もあったではないか。自分と違う異質なものを排除しようとする本能。移民と混血の国アメリカは、それをアメリカの長い歴史(それはたかだが200年強の歴史)のなかで反省し、システム(社会制度)として是正をしようとしてきた。それは長い時間がかかって実現したのかもしれないが、少なくとも社会制度としての人の平等を実現化していることはよほど素晴らしいことなのかもしれない。素晴らしいと、断言はしない。なぜならばそれはシステムでなければ作り上げられない人の弱さでもあるから。
しかしそういう道を選んだときアメリカという「国」の実体とはいったいどうなるのだろうとふと思う。きれいごとを簡単に、皆が仲良く平等であるべきだと口にすることはとても簡単なことである。しかし、皆が仲良く平等であったとき「国」は「国」でありえるのだろうか。文化や風習が時代によって変わることは否めない。しかしそれぞれの国に根ざした固有の文化があればこそ「国」とは成り立つもののでないのだろうか。あるいは真の意味での平等とはいったいなんだろうか。国はシステム(社会制度)だけではないはず。そうしたなかでアメリカという国が過去の反省を踏まえ選んだシステムは果たしてどうなっていくのだろうか。あるいは(なぜだろう祖国という言い方自身に違和感を覚えるのだが)ぼくらの祖国である「日本」という国はどうなっていくのだろう、どうなっていくべきなのだろうか。


ここまで書いていておきながら、自分が正解を求めたいわけでもなく、また何を言いたいのかもはっきりしないままであることを意識する。ただ混乱している。しかし確かにぼくはこの作品を読み、いろいろ考えさせられ、そしていまも考えさせられている。
そういう意味で多くの本読み人にこの骨太の作品を読むことを薦める。物語を楽しみ、そしてそれだけで終わらせることなく考えることを楽しむことができる。それがこの本の持つ最大の力(ちから)である。
久しぶりに読み応えのある素晴らしい作品に出会えた。そんな作品だ。


蛇足:終戦後のエピローグは、もしかしたら蛇足なのかもしれない。悪くない、決して悪くないのだが・・。とくにヘンリーのそれは、大きな悲劇であると思う。おそらく、そういう悲劇は現実にあったことだとは思うのだが。
蛇足2:すみません。今回のレビューはぼろぼろです。ただひとつの備忘録として、敢えてアップしておきます。