月が100回沈めば

月が100回沈めば

月が100回沈めば

「月が100回沈めば」式田ティエン(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、青春、渋谷、サンプル、普通


まず、ぼくはこの作品の雰囲気が好きだ。つまり理屈でない部分でこの作品を許容する。辛口気味と自認するレビューを書く一方で、主観的に作品を赦してしまうのはいったいどうなのだろう。フェアでないなと思いながらも敢えて正直に語る。あ、実は辛口でなくて、ただの偏屈なのかもしれない。それなら自分でも納得できる・・(苦笑)。


「栄光なき凱旋」(真保裕一)という、上下巻併せて1,300ページ弱のエンターティメントでありながら骨太な大長編物語を読み、深く考えさられたあとで読んだこの作品は、正直薄い。ある日姿を見せなくなった友人の行方を求めて、渋谷の街を仲間たちと捜す物語。物語というより、物語を通じて、作家がいま感じる現代の若者の姿を語り、そして作家の思いを語る作品。しかし残念ながら、その言葉は観念的に過ぎ、わかるような、わからないような。わかったような気分で読み終えることが楽しい作品なのかもしれない。
渋谷という街を舞台に16歳の少年の姿を描くことは、まさにいまどきの若者の物語のはずなのだが、この作品はどこか古臭い。語られる内容も懐かしい匂いがする。舞台は確かにいまどきなのだが、作品の内面から醸し出される空気がとても懐かしい。そんな作品。
主人公と行動をともにする美少女が、人の名前に拘るエピソードがあった。ニックネームではない本当のその人の名前に。そのエピソードに触れた瞬間、思わず作家紹介を見返してしまった。1955年生まれ。50歳の作家。なるほど、いまどきの作家ではないわけだ。つまりこの作品の本質とは、この作家の年齢に現れているとぼくは理解する。いまどきを舞台に、しかし「いまどき」は少しおかしいのではないかと首を傾げる中高年世代。主人公が16歳と思えないという論評をネットで幾つか見たが、これは作家の投影なのだ。読んでいて、あたかもくたびれた中年探偵のハードボイルドな物語のように感じられたことは決して間違いでないと思った。
そういう意味でいうならばこの作品は失敗なのかもしれない。いまどきの若者を、あるいはいまどきを描けていない。しかしぼくはこの作品の雰囲気と、作品を通し作家の語る「普通」に共感する。自信をもって人に薦められる作品ではないかもしれない。しかしたぶんある年代のとくに男性読者には受けいれられやすい作品、そういう意味での評価をしたい。匂いとか、雰囲気とか、そういうところ。もっともそれだけで評価するというのも、我ながらどうかと思うのだが。


この作品の作家、式田ティエンは宝島社が主催し、いまや新人ミステリー作家の登竜門とも言える(ほんとか?)「このミステリーがすごい!」大賞の第一回優秀賞を「沈むさかな」で受賞、デビューした。「沈むさかな」は日本ではあまり見かけない二人称(きみは〜)で書かれた作品であった。読み慣れない文体にとまどいながら、淡々と描かれる物語にハードボイルドを感じ、そしてまた二人称を用いた叙述トリックにあっと言わせられた。物語の主人公に深く関わろうとしない、距離を置いた作家の視点が好ましく、そういう点で気になる作家のひとりとしてその不思議な名前が記憶に刻み込まれた。そして3年が経ち、やっと二作目である本作品が発表された。


高校1年生16歳の僕、斎木耕佐(コースケ)は、ゼネラル・ゲート、通称GGと呼ばれる調査会社のサンプルのアルバイトをしている。渋谷にあるビルのワンフロアを借り切った会社は、サンプル専用の小部屋を幾つか用意しており、サンプルはその中で暇な時間を過ごす。TVゲームをしたり、DVDを見たり、用意されたアンケートに答えたり、基本的には自由に過ごす。部屋で過ごした時間が時給でもらえる。母親とふたりで暮らす僕にとって割のいいこのバイトが唯一の小遣いだ。決まりごととして、小部屋では勉強をしてはいけない。そしてサンプル同士が知り合ってもいけない。サンプルとして僕らが行なった行動がマーケティングの基礎データになるらしい。普通を基準に選ばれたというぼくたち。
しかしぼくは会社から禁じられていたサンプルの友人を得ていた。佐藤アツシ、アッシとかアッチとか呼ばれている、背丈の小さい、茶髪の少年。16歳の誕生日に佐藤が自分で買った原付バイクを販売店に受け取りに行くのをつきあう約束をしていた。しかし彼はやってこなかった。ぼくにバイクの鍵を預けたまま。そして代わりにぼくの生徒手帳を預かったまま。街では中学生の連続誘拐事件が起こっていた。まさか小柄の佐藤がその被害にあったのではないか。そしてぼくは彼を捜すことを決めた。まずは同じサンプルから。もしかしたらぼくのように佐藤に声をかけられたサンプルがほかにもいたかもしれない。GGのあるビルから出てきた少女に声をかけた。最初はぼくを無視していた彼女だが、二度目に出会ったときは協力を申し出てくれた。海老沢弓という探偵小説好きで、計算能力の高い彼女にやり込められながら、渋谷の街で佐藤を探すぼくたち。弓に映画女優にならないかと声をかける、ひとつの事務所で幾つもの会社を経営する社長や、俺は本部の言うことを聞かないとうそぶくコンビニ店主といった、怪しげでありながら自由で、そして自分の意見を持った大人たちと知り合う。あるいは渋谷を根城とする、ノートパソコンを背負った「少年A」こと東栄太郎を更なる仲間とする。そして佐藤を探すぼくらの辿り着く真実。あるいはぼくと父親の物語の行方。


作品の出来というか、好みでいくとデビュー作「沈むさかな」のほうが断然よい。物語として成立していた。しかしこの二作目は、拡散したまま集約しきれてない。物語としてみると決してうまくないのだが、それでも個人的には悪いものではなかった。それは何度も言うように、ただ雰囲気にやられているだけかもしれない。しかし作品で語られる説教臭い正論さえもこの作品は気持ちよい。
いや、もっとも作品で作家が語ることをきちんと理解したと言うつもりはない。言葉の選び方が観念的すぎる。
ここでさらにフェアに書くならば、作品で描かれた中学生の連続誘拐事件と、調査会社に起こった横領事件というエピソードはうまく作品と絡んでいない。そして作品の中核をなすはずの失踪した友人を探すという物語も、決して物語として納得のいくほどの必然を感じない。その意味でも古い青春小説を彷彿させたデビュー作「沈むさかな」には残念ながら及んでいない。しかしそれでも、まだこの作家には何かあるのではないか。そんな期待の余地をぼくは感じる。それは大いなる幻想なのかもしれないのだが。


しかしオビにある「ラスト一行に慟哭!」はどうなのだろう。オビは売るための道具だから仕方ないのかもしれないが、この「慟哭!」という文字を見ると、この作品が感動作品のように思え、この作品の持つ「沈むさかな」にもあった魅力、距離を置いた作家の視点という静謐な雰囲気をまったくもって壊してしまうような気がするのだが、いかがなものなのだろう。心は震えるかもしれない。しかしそれは決して慟哭を呼ぶものではない。


渋谷といういまどきの街を舞台に、そこにたむろするいまどき若者を描き、そして信頼する仲間たちで困難を乗り切ろうとする物語のためか、石田衣良の「池袋ウェストゲートパーク」のシリーズや、「アキハバラ@DEEP」、あるいは垣根涼介ヒートアイランド」と比較する評も見かけた。しかし本質的にいまどきを書ききれていないというか、書いていない作品なので比較すること自体がもはや間違いだと思う。どちらかというとこの作品は、大人の目から見えたいまどきの若者の持つ空虚さのようなものを描いた作品だと思う。その部分をもう少し分りやすく書いてもいいのではとないか思うのだが、もしかしたらこの中途半端に語ってしまうところも作品の、あるいは作家の魅力なのかもしれない。


本当は、この作品で触れるたったひとりの自分という「普通」について、あるいはネットにおける匿名性の問題についても触れたいところだが、キリがなくなりそうなので、敢えてここで筆を置く。うまくない物語であるのだが、作品には語りたいと思わせる題材が転がっている。そういうところがある種の人々にとって魅力を覚える部分なのかもしれない。
ひとにオススメはしない。しかし、決して悪くない作品。


追記:すっかり触れ忘れていたが、古臭い青春物語としての主人公コースケと彼の探索を助ける弓、栄太郎の三人の仲間のキャラクターはとても生き生きとして好ましい。そして怪しいプロダクション社長とコンビに店主もとてもいい。そのことも伝えたい。(2006.oct.17)


蛇足:それじゃぁ、コースケが気になる女の人って、誰だったのだろう?もしかしてGGの女性社員、榛名なの?えええぇ?!