145gの孤独

145gの孤独

145gの孤独

「145gの孤独」伊岡瞬(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、ミステリー、小説、ハードボイルド、野球、便利屋


「いつか虹の向こうへ」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/8717831.html ]で2005年度横溝正史ミステリ大賞テレビ東京賞のダブル受賞でデビューした伊岡瞬の二作目。おぼろげな記憶にしかない前作に比べると、作品の後半からはおっと思わせるような読ませる題材を扱い、少し巧くなったかなと思わせる。しかし前半の、まるでTVドラマのようなキャラクター設定と「お話し」にはどうしようかと思ったのも事実。正統派なTVドラマサのスペンスミステリーのような、やはりこの前に読んだ「月が100回沈めば」(式田ティエン)同様な古臭いパターンと匂い。作家は1960年生まれ、45歳の新人。なるほどね。
作品と作家は切り離して考えるべきであるのだが、やはりまったくもって作品のみで語るものでもない。たまたま続いたこの丁度ぼくよりひとつ上の世代の年代の新人作家ふたりに感じられた、懐かしいような安心できるような匂いは、やはりいまどきではないのかもしれない。いやこれは決してけなしているわけではない。かなり苦しい褒め言葉のつもり。ただ式田ティエンのそれが、物語を突き放した作家の、距離を置いた視点という、ある種孤高で、その意味では早くも確立しはじめたこの作家のスタイル、個性に対し、伊岡のそれは、まだどこかで見たような読んだことのあるような作品。己の語りたいことを書く式田と、読み手を意識した読み物を書く伊岡の違いか。個人的には式田のそれに魅力を感じる。伊岡のわかりやすい物語も、とくにこの二作目も悪くはないのだが、もう少し何かが欲しい。心の底に訴えてくるような何かが。


この作品、長編として書かれているのだが、前半が便利屋を営む主人公が巻き込まれるふたつの事件、後半が主人公自身の物語という二部構成になっている。前半のふたつの物語は長編を構成するひとつ章であるより、それぞれひとつの短編であるほうが収まりがよい。長編の枕にするには、後半の物語に絡んでいるとはいえない。前半で口(くち)の減らない、しかし社会を少し斜めに見るような主人公を浮かび上がらせ、後半の主人公自身の物語に誘いいという気持ちはわからるのだがあまりうまくない。ただ後半の物語は、とくにそこに導入の場面がありがちなのかもしれないがちょっと唸らされた。なるほど、そう来たか。
丁度、この作品を読んでいるとき「本を読んだら・・buゆうき」のゆうきさんから、「強運の持ち主」(瀬尾まいこ)のレビューについてコメントをもらった。「〜連作短編集は最近、独立した物語がぽんぽんと続く前半と、主人公自身について描かれ、全体をまとめる後半にくっきり分かれ、雰囲気も違うことが多いですね。」長編という形態をとっているが、この作品もまさしくそのパターン。これは流行り(はやり)か?ただぼくは「強運の持ち主」は前半の短編を評価したが、この作品は主人公の心の傷に焦点を当てた後半を買いたい。買いたいとはいっても、敢えてありがちでないほうへ物語を進めようとして、結局うまくまとめられず終わっってしまったという点は否めないの。そこがこの作品の、あるいはこの作家の弱点でもあるのか。しかしそれでも、うまいとはいえないながら決して悪いともいえない。読んでみてもそれほど損はしない。って、これはどういう評価なんだ、我ながら。


プロ野球投手だった主人公倉沢修介は、消化試合で投げた、たった一球のデッドボールで運命を変えられた。バッターのこめかみに当たった球は、バッターを倒し、そして倉沢を勝利から遠ざけていった。球団をクビになり現役を引退した倉沢は、人の紹介でサラリーマンを勤めていたが、気持ちは晴れず、酒におぼれかけていた。そんな酒場で総合サービス業、わかりやすく便利屋と呼んでいる「アリエス」を経営する戸部という男と出会う。フランチャイズ展開を広げている戸部の紹介で、自宅の下を事務所にして便利屋「ヴェスタ・サービス」を開業することとなる倉沢。「ヴェスタ・サービス」の従業員は倉沢と、倉沢がデッド・ボールを当てた男、西野真佐夫、そして西野の妹の晴香の三人。デットボールの影響で左側の視力を失い後遺症のめまいを持つ西野は、経理を少しやるだけで窓からを外を眺めて過ごしてばかりいる。畢竟、仕事は倉沢と晴香の二人がすることに。減らず口ばかりのひねた男倉沢と、口は減らないが、きっちり仕事はこなす晴香。ある意味、割れ鍋に綴じ蓋のようなコンビの便利屋に事件は舞い込む・・。
第一章:ある日、本部の「アリエス」から「つき添い」の依頼が舞い込んだ。小学生高学年の男の子をサッカーに連れて行って欲しい。小学生の子どもを持つには見えない女性からの依頼は再度続いた。幾らなんでもおかしい。サッカーや野球に興味のない男の子の付き添いに二時間で数万円も払うのは。少年の話しによれば、家は父親を失い、金持ちでもなく、母親はデパートで惣菜売り場で働くという・・。
第二章:倉沢のもとに、またもや「付き添い」の仕事が舞い込んだ。今度は現役の頃知り合い、同じチームのひとつ年上でずっと頭のあがらなかった村越からの依頼だった。フィリピン女性が無事フィリピンまで帰国するのを成田まで見届け欲しい。妹の旦那、つまり義弟がフィリピン女性にいれあげてしまい、亭主と別れたくないという妹の要望を汲んだ後始末だという。依頼を受けた倉沢はウィルマというそのフィリピン女性の、帰国前に前橋に住む妹に会いたいという願いを聞いたばっかりに、妙な事件に巻き込まれることに・・。
第三章:「今度の仕事は泊り込みだからね」村越から振り込まれた正規の料金以外の金を返金して以来、晴香の機嫌はよくない。以前雨どいの掃除で行ったことのある60歳くらいの女性の依頼だという。一年ほど前に夫を病気で亡くした、大学講師の女性の資料の整理を手伝う仕事を三日間、依頼されたという。泊り込む必要のある仕事とは思えないのだが。いぶかしく思う倉沢。
その一方元プロ野球投手としての倉沢を兄貴と呼び慕う、花屋の二代目、田中の執拗な要望に応えるかのように、倉沢はトレーニングをはじめた。思い出のつまった三つのボールを田中に渡し、過去と決別するかのようにキャッチボールをはじめる。
倉沢はふとしたことに気づいた。いままで依頼を受けた客の多くが、すでに亡くなっていることに。「アリエス」の戸部にもとを訪れ詰問する倉沢。
事務所に戻り、晴香を責める倉沢。しかし返ってきたのは、逆に倉沢を責める晴香の叫びだった。あなたは現実を見ていない。そう、それは倉沢が敢えて見ないようにしてきた晴香の兄、西野の真実の姿。そして晴香は去っていった。
第四章:晴香が去り、そして見せつけられた真実に打ちのめされた倉沢。便利屋は開店休業、いやほとんど休業状態であった。そうしたなかで、「アリエス」の戸部から、個人的な依頼を申し込まれた。妻とは別な女性との間に生まれた娘との旅の「付き添い」を依頼したい。「SA・KU・RA」という芸能界にデビューしたばかりの若い女性、井上さくらが、戸部の娘だった。そしてヴェスタ・サービスを飛び出した晴香がさくらの付き添いとしてやってきた。東北道を北へ向かう四人と、そしてさくらの連れてきた豚一匹。途中サービス・エリアでさくらに車を奪われるアクシデントがあり、そこを救ってくれたのは胡散臭い中年男。
果たして旅は再開し、そして目的地での石巻で起こる事件・・。


重ねる幾つものエピソード、それ自体はなかなか興味深い。しかし、残念ながらそれらは決してうまく着地をしていない。読み手を充分意識したキャラクターを用意した作家の物語において、それは最大の弱点だと思う。読了後気づいたのだが、おそらくこの苦味は敢えて狙ったものなのだろうが、作家の作風に合っていないような気がした。まだ二作しか発表していない作家に、作風もないのかもしれない。しかしこの作家は、例えば樋口有介の少しユーモアのある、そして減らず口ばかり叩いている主人公の小説に似ているような気がする。そういう匂いがする。それが良いか悪いかは別として。
第一章の親子の物語も決して後味はよくない。第二章のフィリピン人の物語もまた苦味を残す。そして中途半端な第三章。第三章は第四章と連なり、ひとつの物語を紡ぐ、その経過に過ぎないとしても、それでもやはりもう少しきちんと解決しておいてほしかった。そして第四章へ続く。だれも救われない物語。そして観念的で夢想的なラスト2ページ。これはかっこいと思うべきなのか、それとも余計と思ってよいのか。残念ながらぼくは後者だと思う。もっとも、作家の思いを汲み前者ととりそこを評価するも読者もいるだろうが。
改めて作品を振り返ると、この作品をぼくは当初、光り輝くプロ野球の投手という立場からドロップアウトし、ひねた主人公が、エピソードを通し成長し、明るくまとまる大団円の物語だと思い、期待して読んでいた。しかしそれは間違いであった。左手の震えで、それと表す心の傷を癒せない主人公のもとに集まる胡散臭い依頼と後味のよくない終わり方。この作品はほろ苦い「苦味」を味わう作品だったのかもしれない。それを作家は狙っていたのだろう。ちょっと読み方を間違えていた。しかしそれは、この作品がそういう小説だということになかなか気づかせてくれない作家に、責任の大半はあると思うのだが。
苦味が少し苦すぎる。苦くてもそこに苦味に見合う旨みがあれば読者は納得できるだろう。本作品にそれがあったと言えるかどうか、疑問だ。


決して悪くはない。もしかしたらそういう読み方で再読すれば、また違う味わいがあるのかもしれない。しかし、あまりにも結末を読者に任せすぎているのではないか。それを余韻とするべきなのか・・。


蛇足:主人公のモノローグで進める物語の第一章で、依頼人の広瀬碧という、子どもを持ちながら若々しく美しい女性を、特に親しくもないのに下の名前「碧」と呼び捨てにする表記(モノローグ)はちょっと気になった。なんらかのエピソードを絡め、主人公とこの女性の間にそういう関係を読者に意識させるものがあれば別なのだが、違和感を覚えた。
蛇足2:主人公と、主人公と一緒に便利屋をする主人公が野球の試合で怪我をさせてしまったバッターの妹の関係は漫画「シティー・ハンター」(北条司)のそれを彷彿する。減らず口ばかり叩く主人公と、手綱を引っ張るアシスタント。そしてほろ苦さ。この作品の狙いもそんなところなのだろう。