夜の朝顔

夜の朝顔

夜の朝顔

「夜の朝顔豊島ミホ(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、短編、連作短編集、少女、小学校生活

※あらすじあり。未読者は注意願います。

田舎の町に住むセンリという少女の小学校1年から小学校6年までの生活を描く作品。それぞれの学年ごとに切り取った短編7編。各学年一編だと6編になるのだが、小学校4年生の話だけ二編あるので計7編。六編が雑誌発表の作品であるが、敢えて一編書き下ろしを追加した。作品(短編)の質はともかく、七編は少し座りが悪い。形式の問題だけなのだが少し惜しい気がする。
入道雲が消えないように」「ビニールの下の女の子」「ヒナを落とす」「五月の虫歯」「だって星はめぐるから」「先生のお気に入り」「夜の朝顔」の七編から成る一冊。


入道雲が消えないように」(小学校一年)
妹のチエミが「からだが弱い」ことより、いつも友達との遠出を我慢させられるセンリ。そんなセンリが心待ちにしているのが夏休み、一関に住んでいる親戚の洸兄ちゃん一家がやってくる。五つ年上の洸兄ちゃんが来ればセンリも海に遊びにいける。「夏休み限定・兄」だ。洸兄ちゃんには、マリちゃんというお姉さんがいる。マリちゃんはチエミと仲がよい。今年の夏もマリちゃんは一緒にやってきた。家にあがるときマリちゃんの爪先がピンクに塗られていることにセンリは気づいた。用意した靴下を履き、それを隠すマリちゃんの微笑み。
そして高校生のマリちゃんは予定より早く、ひとりで電車四つを乗り継いだ先に乗って帰っていった。
来年はもうマリちゃん来ないよね。チエミの言葉がセンリの胸に響く。


「ビニールの下の女の子」(小学校二年)
ひとつ年下の篤史くんがトンボのしっぽをちぎっている。優等生の和也くんは曖昧な笑みを浮かべるだけ。茜ちゃんと塔子ちゃんとセンリの三人もそこにいた。敦くんの首筋に一筋の古い傷を発見するセンリ。どうしたのと訊こうとしたところを、篤史くんの幼馴染で仲のよいはずの塔子ちゃんに腕を引かれていた。「帰る」「もうやめようね、篤史と遊ぶの」塔子ちゃんはそう言った。
山をひとつ越えた向こうの町で女の子がひとりいなくなった。センリたちと同じ小学校二年生の女の子だという。犯人からは何も言ってこないらしい。「その女の子、もう死んじゃったと思わない?」塔子ちゃんは言った。昨日のとんぼのように適当にだれかが女の子をつかまえたんだと思うの。あたしたちだって明日はどうなるかわからない。
そんな塔子ちゃんが学校からの帰り道に怪しい水色のゴミ袋を見つけた。もしかしたら・・。不安に震える少女の心。


「ヒナを落とす」(小学校三年)
一年生、二年生のときの担任あきら先生は、学校を離れる最後の日にみんなのいいところをひとつずつあげていった。クラスの嫌われ者シノくん。シノくんのいいところを先生は見つけられるのだろうか。センリの心はどきどきした。そしてシノくんの番が来た。先生はシノくんを「やさしい」と言った。当たり障りのない言葉。そして先生はセンリのことも同じ「やさしい」という言葉で評していった。絶望を感じるセンリ。
そんなシノくんが道路に落ちていた鳥のヒナを拾ってきた。見た目はグロテスクな小さい弱いヒナを教室に持ってきたシノくんは、なぜだかその日は皆に受け入れられていた。普段と違う教室の空気と、シノくんの態度が気にいらないセンリ。そしてヒナは死んでしまい、翌日からは以前と変わらない日常が戻っていた。
そんなシノくんの家が家事で焼けて、シノくん一家は引っ越していった。
私はやさしくなんかない。シノくんを、そしてシノくんをはやす声、そうしたもの全部から逃げ出したい。
早く全部が私の記憶からなくなりますように・・。


「五月の虫歯」(小学校四年①)
「センリ、また虫歯大将?」歯を磨いているとも思えない男の子が虫歯ゼロなのに、一応「ながら」歯磨きをしているはずのセンリは、今年の歯科検診でも虫歯がたくさん発見されてしまった。いつもと違う隣町の新しい歯医者に行くことになったセンリ。歯医者が終わって、お母さんが迎えにくるまで待つ公園でひとりの少女と知り合った。アザミと名乗る浅黒い肌をした少女はママはフィリピン人で、トーキョーで歌手をしていた。トーキョーで出稼ぎをしていたパパと出会ってこの町にお嫁に来たと話してくれた。
一週間後、先週も同じ歯医者にいた同年代の女の子に話しかけられた。アザミはうそつきで、学校でも嫌われていて友達がいないと、。
歯医者が終わって公園に出てみるとアザミがいて、声をかけてきた。そして屈託なく遊ぶアザミを見て、センリはアザミのウソは悪くないと思った。そんなアザミと分かれる帰り際に、センリのお母さんはアザミの腿にあるアザを見てしまった。
雨の日曜。アザミは左の頬を真っ赤にふくれあがらせていた。小さい、布地のくたびれたワンピースからのぞく腿にはアザがいっぱいあった。「センリ、トーキョーに行こう」アザミの言葉に逆らうこともできず、雨のなかを歩くふたりの少女。駅までだって子供の足なら二時間かかる。神様。アザミを逃がしてあげて。


「だって星はめぐるから」(小学校四年②)
眠りのふちで歌が聞こえる。小さいころ「からだの弱かった」妹のチエミは、今では冬だというの日に焼けた手足をさらした、男の子とばかり遊ぶ、元気な二年生の女の子になっていた。
学校ではすごく「女子っぽくない」カツラちゃんの万引きが話題になっていた。塔子ちゃんと茜ちゃんがカツラちゃんの悪口を言う。いままで塔子ちゃんと茜ちゃんと並んで帰らなかったことはなかった。楽しかったなぁ。でも、いまは何かが違う。どうして私、この子たちと帰っているんだろう。


「先生のお気に入り」(小学校五年)
四年生から担任になった大場先生は、「先生」らしくない先生だった。まだ二十五くらいなのに覇気がまるでなく、「ムダ話」の多い先生だった。
バレンタインを前に茜ちゃんと塔子ちゃんは男の子の話題で盛り上がっていた。「ねぇ!センちゃんは?今年はだれかにあげないの?」塔子ちゃんの言葉に、戸惑い、言葉の出ないセンリ。「センちゃんが、誰かにチョコをあげるわけないでしょ。だってセンちゃんだもん」茜ちゃんの言葉、その言い方に込められたちょっとした軽蔑、軽い憐れみ、そして突き放し具合に、胸を冷たくするセンリ。
そんな茜ちゃんがクラスの女の子全員に手紙をまわした。「先生に義理チョコとかあげないでね」自分の言葉に逆らう子はいない、そんな茜ちゃんの態度に「あたし先生にチョコあげる」思わず答えるセンリだった。そしてその日、茜ちゃんと塔子ちゃんはセンリに声をかけず二人で帰っていった。それはセンリの小学校五年間で初めてのことだった。
待ち伏せして渡そうとした茜ちゃんのチョコレートを受け取らなかった大場先生。クラスの女の子は大騒ぎ。
給食のあと、駐車場に佇む大場先生を見つけたセンリは、先生の煙草を吸わせてもらう。苦い煙にむせたふりをして、別の涙をこぼすセンリ。


「夜の朝顔」(小学校六年)
夢のなかに隣の席の男の子、杳一郎が出てきた。こういうのって「好き」っぽいと、ひとに言われそう。でも私は杳一郎のことなんか好きじゃない。体育ができるからってイバってる。
妹のチエミが、髪の毛を伸ばしたいとお母さんにねだってる。「センをみなさい、余計なことを言わないから、ちゃんと勉強ができる」「ねえちゃんみたいに寝癖も直してこない小学六年生の女の子なんてほかにひとりも知らない」。学校に行き、アトムの角のような寝癖に思わず手をやってしまったら、杳一郎の爆笑が聞こえてきた。「いつも、すすごいよな、寝癖」。男の子にまで変と思われているのか。愕然とするセンリ。そんなセンリをチコちゃんがトイレまでひっぱっていき、櫛で髪をといてくれた。「好きなんでしょ」思い浮かぶのは、体育のときの厳しい冷たい横顔だ。そんな人を好きになるはずがない。
体育の時間、杳一郎の指示することができなったセンリ。杳一郎の怒鳴り声に涙がこぼれる。本当は私だってとりたかった。悔しくて涙が出るの。言いたいのに、言葉が出ない。そしてセンリは自分の本当の気持ちに気づく。
櫛を買おう。チコちゃんと寄り道をして、まっしろい櫛を買うのだ。


同じように小学校の六年間を切り取った短編小説集に「今ここにいるぼくらは」(川端裕人)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/13177752.html ]というのがある。こちらは少年の生活を切り取った作品。男女で区別すべきでないのかもしれないが、「今ここにいるぼくらは」は男の子の物語、事件がいっぱい。対してこちら「夜の朝顔」は女の子の物語、まさに普通の生活を描く。それゆえに小品佳作の印象は免れない。
また小学生の女の子のナイーブな気持ちの揺れを細やかに書いてはいるのだが、そこにリアリティーがあればあるだけ、幼い少女の底の浅さをも免れることはできない。小学生の女の子、とくに本作の主人公ように感情の幼い子の場合、どうしても自分の感情を表現する言葉に足りない。いや間違えないで欲しい、それを決して欠点というのではない。言葉に表現し得ない、あの頃感じた居心地の悪さを、この作品はとてもうまく表現している。年齢を経て、今なら言葉を並べて表すことができるかもしれない想い、しかしそれを敢えて作家の言葉を使って現わすことをしない。もどかしい思いや違和感を、主人公のうまく言葉にできない言葉、あるいは行動によって読者に伝えるこの作家を評価したい。


そしてこの物語は一貫して、区別され、差別され、虐げられ、あるいはほかのひとと少し違うことを描いた作品であることに気づく。慕う親戚のお兄さん、お姉さんの成長に置いていかれる主人公たちの物語。ある少年の幼いころの事件、そして事件によって刻まれた傷跡が残すもの。クラスの嫌われ者と彼がいじめられることを良しとしない気持ち。しかしそれを口に出して言えない自分へのふがいなさ。となり町の小学校に通う、区別され、差別され、親に虐待されている少女との出会い。いつも男の子とばかり遊ぶ、女の子っぽくない少女は他の女の子にシカトされる。クラスの女ボスのお願いという名の命令を受け入れず、シカトされそうになる主人公。そして他の女の子と違い、髪の毛の寝癖を気にしなかった主人公。
つい最近読んだ「凱旋なき栄光」(真保裕一)のレビューでぼくは、ひととは自分と違うことを区別したい本能があるのではないかと書いた。この作品でもそのことが書かれていると思う。そしてふつうの子と少し違う主人公の少女は、おそらく「違う」ことを自分でもうすうす気づいている。少し距離を置いて学校生活を眺める主人公。
しかし髪の毛の寝癖に気づき、寝癖を直すための櫛を買ってしまう少女は、今までのように少し「違った」女の子のままでいられるのだろうか。異性を好きになることで成長する少女は、しかし異性を好きになることで、ありふれたほかの人変わらない「普通の女性(少女)」へ成長してしまうような、そんな喪失感をぼくは味わった。それは同じ作家の「檸檬のころ」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/14962485.html ]の最後で、田舎町の生活を卒業して、都会へ向かっていった少女に感じた喪失感、それと似たような感傷なのかもしれない。


おそらく男性であるぼくにはこの作品の本当の魅力は理解しえないのかもしれない。しかし小学生の女の子の気持ちを、リリカルに、そして訥々と綴ったこの作品をとても魅力的に感じる。同じ作家の作品で、ほの暗い犯罪との境界を扱うような作品も幾つかあるのだが、「檸檬のころ」そしてこの作品のふたつの作品をこの作家のオススメ作品としてぼくは推したい。