第九の日

第九の日 The Tragedy of Joy

第九の日 The Tragedy of Joy

「第九の日」瀬名秀明(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、SF、ミステリー、哲学、ロボット、AI、自意識


※すこしネタバレあり?未読者は注意願います。


iBotと呼ばれる車椅子に乗る半身不随のロボット学者尾形祐輔が作った独立した自意識を持つロボット「ケンイチ」。彼を主人公とした長編「デカルトの密室」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/24016130.html ]の前後譚となる短編集。
物語の視点はロボットケンイチの一人称「ぼく」を中心に語られるが、それはロボット学者の尾形祐輔がケンイチの人格に自らを投影し語るという形式をとる。ときに「ぼく」はケンイチから尾形祐輔に代わり、読者は混乱する。「ぼく」はロボット「ケンイチ」であり、ケンイチの視点を借りた尾形祐輔であり、そして尾形祐輔自身である。そしてまた作品のなかでロボットのケンイチもいつか自分で小説を書くことを望む。さらにシリーズが進み、ケンイチが「ぼく」という人称で小説を書くとき、読者はさらに混乱に落とし込まれるのだろうか。


独立したロボットの自意識、人工知能を探りつつ、人間とは、ヒトの自意識とは何かを考え、訴える作品たち。「メンツェルのチェスプレイヤー」「モノー博士の島」「第九の日」「決闘」の四篇の中、短編からなる。それぞれ、ポォ、ウェルズ、C・S・ルイス、チェホフ等の作品をモチーフに置くが、おそらくそれらの作品を知らなくても問題はない。それ以上に難しい(苦笑)作品だから。前作「デカルトの密室」の前話になるのが「メンツェルのチェスプレイヤー」、残りが「デカルト〜」以後の話となる。それぞれ独立した作品としても成り立つようだが、多くの評者が語るように「デカルトの密室」を読んでからこの作品を読むことを薦める。通りがよい。


「メンツェルのチェスプレイヤー」
祐輔とともにケンイチの心を育てる進化心理学者一ノ瀬玲奈(ケンイチ視点では「レナ」)に連れられ、レナの大学時代の恩師である児島教授の屋敷を訪れるケンイチ。そこでレナは人間型ロボットであるチェスプレイヤーとチェスの試合を行うことになる。隔離され、通信も通じない山中の屋敷で起こる殺人事件。そして遠く洋上に浮かぶ客船の乗客の命をかけ、レナとロボットのサドンデスのチェスが行われる。


「モノー博士の島」
人工義肢の権威であるジャン・ジャック・モノー氏の島を訪れるレナとケンイチ。そこにはモノー博士の人工義肢のおかげで高度な運動能力を持つ身障者の多く集まる孤島であった。モノー博士は人工的な技術により、精神と環境のすべてを向上させることが、人間の本性を真に満足させ解放させることだと訴える。眼鏡と義足が同じ道具であるならば、望遠鏡という道具を使うことはいけないことなのだろうか?高度な人工義肢、あるいは細胞レベルでの身体改造に違和感を見せるレナに博士は訴える。そして予告どおり殺人事件が起こる。


「第九の日」
プログラムの訓練のため、ひとりイギリスの片田舎を旅行するケンイチは、彼と同じ一体の自立型の子供ロボットと出会う。ジョージと名乗るそのロボットに連れられ、コンピュータで管理された人間とロボットの街、エヴァーヴィルを訪れる。しかしそこは人間の姿はいっさい見えない、ロボットだけの街だった。
ケンイチからの自発的な連絡がなくなったことを心配し、レナは祐輔と連絡をとりながらケンイチの行方を捜す旅に出た。「大晦日までに私たちが帰らなかったら、第九はひとりで行って」。祐輔とレナそしてケンイチは大晦日に三人で第九を聴く予定で、チケットを用意していたのだ。
一方、インターネットのwebサイトではキリスト教の団体を名乗るAMCSという団体が、キリストの教えに反する断罪者リストを掲げていた。尾形祐輔の名前もそこに新たに加えられた。デカルトに始まる近代西洋の考え、人間個々が確たる自己を持ち、自意識を持つという考え方が、キリスト教の教えに反するとしている。脳科学認知科学、ロボット学などの分野で自意識の研究を進める研究者の名前がリストに並ぶ。
そして「第九」の日。ひとりコンサートに出かけた祐輔に降りかかる事件。


「決闘」
病院への入院を余儀なくさせられた祐輔。そんな彼らの姿を見つめるひとりの病院職員。
一方、世間では着陸寸前の旅客機のジェットエンジンに鳥たちが突っ込んで行き、次々と旅客機が墜落する事件が起きていた。BMIブレイン・マシン・インターフェース)で鳥の脳に指示を与えていた形跡が見られた。


相変わらず難しい小説。前作に続き、作品を通して作家の語りたいことの半分も理解できている気がしない。しかしこの真摯に訴え、考えようという態度、そしてエンターティメントとしての小説(物語)にきちんと落とし込んだこの作家の姿勢はとても好感を持てる。また科学的かつSF的な設定は、特撮やSF大好き少年であったぼくの心を揺らし、動かす。
近未来を舞台にした、とてもリアルな、今後存在しうるロボットたちの設定。対して大風呂敷を広げるようなカラクリ屋敷、謎の孤島、ロボットの村など、よくよく考えるとちょっとありえない舞台。その微妙なアンバランスの均衡が、SF少年の心をくすぐる。これは上質な「ウルトラQ」の世界なのだ。ウルトラマン仮面ライダーもいない、しかし自分のすぐそばで、あるいはすぐその先の未来で起こりうるかもしれない現実、いや虚構。科学的、SF的にありうるだろうと納得させられた世界で起こる物語に読者はワクワクさせられる。その雰囲気を味わい楽しむだけで嬉しい。ぼくにとってはそんな小説のひとつ。作家の想いや、考えをきちんと読み取れていると言い切れない点では、ぼくはこの作品の読者失格なのかもしれない。しかし読者は身勝手に作品を楽しんでもよいはずだ。ぼくはこの作品の雰囲気を、そしてロボットの心を味わい楽しんだ。とても心地よいものであった。
いや、本音はもっときちんと理解したいのだが。
というわけで、読み手の能力不足によりそれなりな楽しみ方しかできなかった本作であったが、今回はとくに二ケ所ほどとても興味深い描写があった。


「尾形さん、あなたはご自分の小説で、一度たりともケンイチの姿を描写していない。」「ロボットの筐体デザインはすぐに古くなってしまうからだ。ロボットは、その身を覆う筐体によって、生まれた時代に絡め取られてしまう宿命にある」「(外見を)描写してしまえば、物語の中のケンイチは特定の時代に収束し、普遍性を失ってしまうからだと」「あなたはもう一方の機能デザインも、巧妙に読者の目から隠している。ロボットは、同じ名前を持ちながら少しずつヴァージョンアップされてゆく。ハード面でも、ソフト面でもね。いまのケンイチは、最初の事件に関わったときのケンイチと違うはずだ。しかしあなたはその変化をケンイチの成長として、小説的表現の中にさりげなく組み込んでいる。読者を欺いている」(「第九の日」P305〜 一部改変)


ぼくらが唯一無二の存在であると思っていたロボット「ケンイチ」は、実は、ハード(身体)、ソフト(心)ともに少しずつ改良され、あるいは入れ替えられているということがここでは書かれている。現実的にロボットの機能を改善するということは至極当然、当たり前のことである。しかしケンイチというロボットに架空の人格を与え、読んできた読み手であるぼくらは、ここまで読んできた「ケンイチ」を、唯一無二の存在と思いこみ、愛着を感じていたということに気づかされる。しかし作家はこの文章で、実は「ケンイチ」は同じ名を持つが、バージョンアップされたものであることを認める。バージョンアップされた「ケンイチ」は以前の「ケンイチ」と同じ存在なのだろうか。ハードに記録された、なぞられる記憶は同じものかもしれない。しかし現実的に改良、改造を加えられたプログラム(心)、あるいはハード(身体)である「ケンイチ」は、果たして改造以前と「同じ」「ケンイチ」であるといえるのであろうか?
作家はハード(外観)の描写を避けることで普遍性を与えるという、小説の手法に、さらに「ロボット」の内面の改良を、敢えて書いてこなかったという、この作品ならではの小説の手法を明言する。このテクニック自体は、それと知ることがとてもおもしろく、かつ巧いと唸らされる。しかしさらに興味深いのはこの描写により作家は読者にいくつかの疑問点を呈すことだ。われわれ人間がモノへ、とくに名前を与え擬人化することで愛着を覚えるということは何か。あるいは改良され改変されるロボットの独立した自意識とは何か。このレビューではこれ以上追求しないが、それは本書第ニ話で触れられた人工義肢の問題にも立ち帰る。パーツを変えることは、その人間の核心を変えるコトではない。しかしケンイチのようなロボットのボディ全体が変わるような場合、それは同じと言えるのだろうか。いや仮に人間の知能、自意識のみを取り出せるとしたら、それはどのようなボディーであっても以前と同じ人間と言えるのだろうか。そしてそれはさらにまた第一話にも立ち戻る。第一話で触れた身体性能に応じた知能の問題は、心(知能)はその身体によって変わっていくのではという疑問の投げかけだった。
さりげなく作品に織り込まれた会話なのだが、本書を俯瞰するような、とても興味深く、感慨深い言葉でああった。


「彼が小説を発表したとき、ぼくらはみんな困惑したんだ。」「小説というアウトプット手段は、ぼくら研究者にとって境界線を越えた、アンタンチャブルな領域なんだよ、きっとね。」「彼の小説が一般の読者に受け入れられていったとき、ぼくらは決まりが悪かった」「彼は工学者であり、作家なんだ。ぼくらはそのふたつをまったく別のものだと思っていた。だから彼が両方の側面を持っていることに、ずっと居心地の悪さを感じたんだと思う。」(「決闘」P366〜)
そしてこれは学術の徒と小説家の二足の草鞋を履く本作品作家自体が置かれた立場のジレンマを、小説の登場人物の言葉で語らせる場面。
小説を書く科学者、尾形祐輔について、同じ研究者であり、尾形祐輔に尾形祐輔自身が(ロボット開発のために?)開発した人工視覚を施術した小野寺が語る場面だ。
おそらくこれは作家自身が直面し、かつ、推測に過ぎないがおそらく乗り越えた局面なのだろう。「科学的」な小説は、決して「科学」小説ではない。ありうることと、あると根拠をもって推論できることはおそらく科学者の中では似て否なる世界なのだろう。そうしたなかで「パラサイトイブ」という科学的にありうる(だろう)小説でデビューし、おそらくいま現在、近い将来に、科学的に存在をあると推論できるロボット、人工知能を主人公、主題とした作品を書く作家が通過した境遇だったのだろう。


きちんと理解したとは言いがたい難解な小説であった。また前作「デカルトの密室」抜きで、ここまで楽しめたかどうか疑問な作品。そういう意味では、独立した作品として多くの本読み人に薦めるべき作品ではないかもしれない。しかし、敢えてぼくはこの作品を評価し、そして読むことを薦めたい。いま、この人工知能が、あるいはロボットというものの実現化が、絵空事でなく本当にありうる時代において、読み、考えること、それはとても「知的な遊び」だ。ぜひ「デカルトの密室」とともに読んで欲しい作品である。


蛇足:本作を読んでいて、やはり「アイの物語」(山本弘)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/38853149.html ]を思い出した。同じ近未来の知能と自意識を持つロボットを扱いつつ、瀬名秀明の世界が今現在、現代の世界の地平にそのまま繋がる近未来に対し、山本弘のそれは大掛かりなSF的な世界。機械の自意識を扱うという意味では、舞台のリアリティに関わらず、同じ物語。山本の作品の描くAIの気持ちはまたとても感慨深いものであった。
ぜひこの瀬名の作品を読んでぼくと同じく「半分もわからなかった」のだが、おもしろかったと思う本読み人には、山本の作品も読んで欲しい。絶対好きだから。