灰色のピーターパン-池袋ウエストゲートパークⅥ

「灰色のピーターパン-池袋ウエストゲートパークⅥ」石田衣良(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、池袋、IWGP


※ネタバレあり、未読者は注意願います。


池袋の果物屋の一人息子、フリーライターで池袋という街を通し現代を書くコラムニストの主人公のマコトは池袋のトラブル・シューター。実家の果物屋の店番を手伝う彼のもとに、今日もトラブルを抱えた若者が助けを求めてやってくる。


前作「反自殺クラブ」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/2788230.html ]を評したとき、「マコトというトラブル・シューターが、仲間の手を借り、ときにはひとりで事件を解決していく。大好きな作品ではあるが、そろそろ何かが変わらないと苦しいかも」と書いたがその状況は本作でもまったく変わっていない。できあがった完成したスタイルと言ってしまえばそれまでなのだが、その変わらなくなったスタイルが読むことを苦しくさせる。安心して読めるという評価もあろうが、昔の池袋ウエストゲートパーク(IWGP)はもっとキラキラした何かがあったような気がする。それはまだ無名だった石田衣良という若い作家に、マコトという主人公を重ね、主人公と作家、そして読者が、IWGPという世界で、一緒に悩み、憤り、そして事件を解決してきた一体感だったのかもしれない。そこにはまだ完成されたスタイルはなかった。
今ぼくは、池袋の街角でクラッシックを流しながら果物屋の店先でリンゴを磨くマコトの姿を思い浮かべることができない。以前なら、それなりにマコトの姿を、映像を、思い浮かべることができたのに。


いま、あんたにマコトの姿は見えるかい?


丁度、有川浩の「図書館内乱」を読んだばかりだった。ステレオタイプの主人公たちと評した「図書館戦争」の続編は、前作の、「物語(事象)を描くスタイル」と異なり、より登場人物の内面を書く作品となり、ステレオタイプと評した登場人物たちの「人間」が描かれるようになった。読者はそのことにより、登場人物の心の動きに合わせ、どきどきわくわくを共感し、そして作品とその世界を楽しんだ。次はいつ?まだ?シリーズの成立だ。


しかしIWGPの世界はどうなったのだろう。マコトのもとにトラブルを抱え、依頼人が現れる。読者に対し「あんたならどう思う」と出来上がったスタイルで呼びかけながら、事件を無償で解決していく。しかし、それはあたかも一連の作業のように進むだけのドラマになっていないか。以前のIWGPなら、以前のマコトなら、依頼人の内側にはいりこみ、依頼人の抱えるトラブルを自らの問題として、解決していた。しかし今はただ問題解決をこなしているだけのように見える。お約束どおりに進む、安心して読める物語の展開を眺めながら、少し哀しく感じる。
もしかしたら本作でマコトはなにひとつ問題を解決してないのではないだろうか?本質の問題は、依頼人自らの手で解決するために手を貸すというスタイルは変わらない。しかし以前なら、その事件を経ることでマコト自身も、そして読者も成長していた。
もはや記憶に薄い昔のIWGPでは、依頼人の抱える問題は、「若者」という普遍の存在の前に立ちはだかる普遍の問題であった。それは依頼人の問題であると同時に、マコトの、そして読者自信の、そして世の中の若者すべてにとって当てはまる問題であった。それが同時代の、同年代の問題であったから、IWGPは輝いていた。
しかし、本作、いやあるいは前作もそうかもしれないが、持ち込まれる事件、問題は、確かにいまどきの、同時代の問題なのに、事件をどこか遠いところ眺めているような気がする。以前の作品ならタチの悪い上級生に絡まれる小学生の依頼人さえ、自分の姿であった。あるいはイジメられた結果、仕方なく暴力を振るい金品を奪い、暴力をふるった少年。または子供が好きな、少し知的障害を抱えた青年、彼らの抱える事件、問題は、そのままマコトのそれであり、あるいは読者のそれでなかっただろうか。
ところが本書の場合、トラブルはもはやマコトや読者のそれではなくなった。マコトは解決をこなすが、それを見ていて読者たるぼくの心は動かなかった。どこか自分と関係のない人間のドラマ、客観的に眺めているだけ。それは読者の資質の問題なのだろうか。感じ取れない読者としての「ぼく」の感受性が鈍くなり、ただ「じじい」になっただけのだろうか。それとも、作家の、書く側の、問題なのだろうか。


「灰色のピーターパン」
ある日、マコトの許に有名進学校に通う小学生が現れた。高校生の上級生に脅されている。金はきちんと払うから解決して欲しい。盗撮したパンチラの写真を売る小学生は、それをネタに脅されていた。問題はその高校生が自分たちは何もしないのに、金だけを取ろうとすることだと言う。トラブルの解決に乗り出したマコトの前に、ジャンキーで凶暴なことで名を売る丸岡という高校生が現れた。
※毒をもって毒を制すではないが、ヤクザを使って嵌めることが事件の解決なのだろうか。またトラブルを抱えた小学生が基本単位とする15万円という金額もなんか不自然。きれいにまとめすぎた感じ。


「野獣とリユニオン」
チヒロと名乗る女がマコトの前に現れた。「お兄ちゃんの足を壊した、この人の足を壊してください」。
チヒロの兄ツカサの足を壊した犯人は音川栄治という少年だった。たった三千円の所持金を奪うために起こした一年前の事件。それは料理人になりたいというツカサの夢を砕いた。ケダモノとチヒロが呼ぶその少年は、逮捕され少年院に入れられたが、池袋の街に戻ってきていた。そして実家に住み、ぶらぶらしているだけの日々。
調査にあたったマコトが突き当たる真実。果たしてケダモノに正義の鉄槌はくだるのか・・。
※ケダモノの正体見たり枯れ尾花、ではないが、このケダモノはどうなのだろう。そして、やはりキレイすぎるお話し。そりゃぁ、ひとりひとりは確かに「ひとりの人間」で、それを肯定することから物語は始まるのだが、まさに「お話し」を読まされた気分。
また最後のオチの必要が感じられない。冒頭で「女」と書いているのだけれど、どうする?


「駅前無認可ガーデン」
池袋のアンダーグラウンドの王様、安藤崇に呼びつけられるマコト。Gボーイズ先代キング菅沼真治からの依頼を受けて欲しい。真治は池袋の雑居ビルで無認可の保育園を経営していた。最近、幼少のこどもを狙った性犯罪が多発している。そこで働くテツオに、ロリコンの噂が立っている。その疑いを晴らして欲しい。
知的障害の少しあるテツオは、自分のアパート前の公園でこどもたちと遊ぶことをこよなく愛する男だった。「ぼくは頭がよくないから、いつも同じ年の人とは遊んでもらえなかった。いつも自分より小さい子と遊んでいたんです。」
そして、保育園にこどもを預けるキャバクラのナンバーワン、ジュリとその子ヒロミに降りかかる事件。
※実は、無認可保育園の話しではなく、子供好きな少し知的障害のある保父の話だった。保父の疑いを晴らすはずが、ロリコン事件を解決する話しに変わっており、根本的な解決に至っていない。いうならば、物語の焦点がぶれたというところか。
街に溢れる異常性欲について語る冒頭の広がりに対し、物語は小さな事件をきれいにまとめ、尻すぼみな感じを受ける。


「池袋フェニックス計画
音大ピアノ科のイクミがマコトのもとを訪れた。同じ音大に通い、同じ部屋に暮らす姉のカズミがホストクラブにはまり、借金を作り、部屋を飛び出してしまった。噂では借金を返すために池袋の風俗にいるらしい。仕送りをためたお金と、自分の留学用の資金を使い、親に内緒で解決したい。
マコトの調べで、カズミが絵に描いたような落とされ方をしていることがわかった。ホストにはまり、できた借金は、債権業者に買い取られ、その借金を返すために風俗で働く。問題は、その裏にいるのが最近、池袋で羽振りをきかせる関西系の暴力団だということ。
池袋の街では、やり手のイケメン、瀧沢武彦東京都副知事が先頭に立ち、街の治安を回復するために「池袋フェニックス計画」と名づけられた、大規模な摘発が行なわれていた。所轄の池袋署にさえ、その実施スケジュールを知らされず、行なわれる大規模な摘発。たしかに街は治安がよくなり安全になった。しかし、いっぽう池袋の街にあった、あの猥雑な活気もなくなっていた。安全で清潔で健全でいること、それは人から何を奪うのだろう。馴染みになっていた、外人ホステスも捕まり、夜の池袋は閑散とした。マコトの家の果物屋も閑古鳥が飛んでいる。
そんななか、カズミを嵌めた関西系の暴力団の息のかかった風俗店だけは、摘発の網を逃れていた。所轄の警察さえ、知らない摘発のスケジュールをどこからか仕入れているのだろうか、摘発前になると店のシャッターを下ろし、まだ店に関わる人間も街頭から姿を消していた・・。
カズミの事件を解決しようと動くマコトに、昔なじみの、いまや池袋の暴力団の幹部となった友人が声をかける。この状態をなんとかしてくれないか。
ひとりの音大生を助けることから始まった事件が、池袋の街全体に関わる事件に結びつき、そして・・・。
※これはIWGPの物語なのだろうか?池袋の街の猥雑さを、街の生きている姿とするまではいい。しかし、風俗界全体にまたがるトラブルをマコトが解決するのはどうなのだろう。風俗の世界が現実にあり、マコトの果物店が、風俗の世界があるがゆえに成り立っているのもわかる。しかし、こうまで正義の味方よろしく行動するのはどうなのだろう。この世界はマコトが越えてはいけない境界線の向こうの物語ではなかったのか。それぞれの個人の問題を解決するマコトのアイデンティティに関わる問題だけに、このエピソードをぼくは問題作であると感じる。やりすぎだ。確かに物語に語られる関西の組は「悪」なのかもしれない、しかしマコトの友人の所属する組とてヤクザである。「灰色」だから、マコトが赦し、守るというものではないと思う。
このエピソードを評価する論を多く見かけたが、ぼくはそれは間違いであると思う。


そして、ここまで書いてきてやっとわかった。昔のマコトは仲間だったのだ。事件を通し、知り合う仲間のために無償で働く。風俗の世界、ヤクザの世界にいる人間であっても、マコトにとっては、人間同士のつきあい、仲間のつきあいであった。そうであればこそ、たとえば客観的な「悪」の世界であっても、つきあえた。つきあっているとき、仲間は、目の前にいるたったひとりの人間なのだ。「ヤクザの」の肩書きがつく者でも、「ホステスの」の肩書きもない、同じ池袋の街で生きる仲間なのではなかったか。
ここに気づいたとき、Gボーイズと云う集団に対する違和感と、Gボーイズを統べる、池袋のキング安藤崇に対するマコトの関係にも納得できた。Gボーイズはひとりひとりの顔が見えない。しかし安藤崇(タカシ)には顔が見える。だから、ぼくらは納得できるたのではないだろうか。

仲間のために、仲間の力を借りることもあった。それがIWGPのきらめく世界だったのではないだろうか。しかし本作は、あるいはそれ以前から、少し違うものを感じる。
依頼人のために、知人の威を借りる・・・それは言い過ぎだろうか。