長崎くんの指

長崎くんの指

長崎くんの指

「長崎くんの指」東直子(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、連作、短編、遊園地


※少しネタバレあり。未読者は注意願います。


よく遊びに行く幾人かの本読み人のブログで見かけ、ちょっと気になった作品。読み終わってみれば、それほど、気になる作品でも、それほど不思議な作品でもなく、普通に普通の作品だった。しかし、読む前は、なんだかとても気になった。レビューを書くのに振りかえると「本をよむ女」(10/9、ざれこさん)、「ひなたでゆるり」(9/28、リサさん)しか、見つけられないのが不思議なくらい印象的だったのに。「気鋭の人気歌人が紡ぎあげた、鮮烈のデビュー小説集」だそう。


表題作「長崎くんの指」に始まる、「バタフライガーデン」「アマレット」「道ばたさん」「横穴式」「長崎くんの今」と続く六編の連作と、「夕暮れのひなたの国−あとがきにかえて」の一編、計七編の短編から成る一冊。


いや、悪いというわけでない。しかしとりたててよいともいえない、そんな作品。表題作と、あとがき代わりの一作が秀逸なのだが、表題作は、同じ長崎くんを主人公にした併録の「長崎くんの今」があったため、その魅力が台無しになってしまった気がする。長崎くんは「羽衣の天女」のように、どこかに消えていってしまうだけのほうがよかった。
本書は、表題作の長崎くんが主人公の連作と思いきや、意表をついてその長崎くんの勤めていた、さびれた遊園地「コキリコ・ピクニックランド」を舞台にした連作であった。しかもこの遊園地は、最初の表題作で閉園が決定してしまう。つまり続く作品は、いまや潰れた遊園地を舞台にした回顧譚といった様相。そこにあるのは嬉しい、楽しい物語ではない。捨て去られ、置き去りにされた、夕焼けの光に包まれた思い出のような世界。弱く、柔らかい光に包まれた、黄昏のときに感じる、だるさ(というほど倦むものではないのだが)のような世界。悪くはない。しかし、強い肯定の「よい」世界でもない。ぴったりの表現ではないが、だんだん冷えていくのがわかっているぬるま湯に浸っているようなそんな感じ。ちなみにぼくはカラスの行水で、熱い風呂をさっと浴びるが好きだ。それがこの作品とぼくの関係かもしれない。


ぼくの知人で、指先がとても魅力的な男がいる。元バーテンダーのその男の指先は、男のぼくが見ても、「官能的」とか「エロティック」という言葉がとても似合う指先。まさにしなやかな指先。いままで指先を見て、魅力的だと感じるような人間は男女問わずいなかった。初めてそんな指を知り、そしてほかには知らない。そしてありがちなことに、その男は女癖が悪いというか、女性の噂が絶えない。やはり女性もその指先にまず惹かれるのだろうか。表題作「長崎くんの指」は簡単に言えば、そんなお話し。そんなお話しなのだが、そこの部分をつきつめているわけではない。


「長崎くんの指」
主人公は勤務先の銀行である事件を起こし、逃亡中の身である女性。ある日、コキリコ・ピクニックランドに辿りついたわたしは、乗り物券の販売機に貼ってあった求人票を見て思わず応募する。採用になり、また行き場のないわたしは、今はだれも使わない遊園地の仮眠室を住まいとすることになる。そして知り合った、職員の長崎くんの指先に惹かれた。わたしの歓迎会の夜、お酒に弱い長崎くんが飲まされ、酔い、わたしの住む小屋に転がり込んできた。気を失うように眠る長崎くん。その指先を見て、一本、一本なめてみるわたし。そして長崎くんは目を覚まし、わたしを抱いた。
翌朝目覚めると、下着も含め、長崎くんの衣服一式が残され、長崎くんの姿はなくなっていた。小屋からだけでなく、遊園地からも姿を消していた。
そんなある日、遊園地の閉園が決まる。その夜、わたしは「楽園」から出ていった。
※酔ったあげく、下着一枚身に着けず出て行ってしまうということは、現実に、どこかにありそうなエピソード。しかしこの作品は、そのままその人間が姿を消してしまい、かつ、日常が流れていく。
仕事に追い詰められた主人公。管理を任された金庫から、札束をブラジャーに隠しもち逃げてきた彼女にとって、ここは本当に「異世界」の「楽園」であったのだろう。
しかしこの作品は、せっかく「指」という魅力的なアイテムを主題に持ってきながら、その魅力をあますことなく使い切ったと言えない。そのことが少し残念。ぼくのあまり得意でない、官能的な描写にもう少し結び付けてもよかったのではないか。さらりとした筆致で「長崎くんの指が主人公の身体のすみずみを通りぬけていった」くらいの描写は欲しかった。はい、エッチな奴です(笑)


「バタフライガーデン」
気がつくと40過ぎの、何も残されていない女性となった主人公。行き場もなくなり、夜の仕事をするシングルマザーの妹の部屋に身を寄せ、妹の子供の面倒をみる日々を送っていた。そんなある日、妹たちと一緒に行ったコキリコ・ピクニックランド。バタフライガーデンと名づけられた蝶を見せる施設で一生懸命、お客さんに蝶の説明をする、うだつのあがらない岩山という中年男に出会った。
蝶たちの命は短い。幼虫のように寝袋に包まり、蝶の乱舞する世界で過ごす二人。できることなら幼虫にもどってしまいたい・・。


アマレット
美しい少女だったマリアさんは、長く受付嬢をしていた会社を、やはり長い間愛人関係にあった会社の男性と別れたことをきっかけにクビになった。一緒に暮らそう、そういってくれたのはやはり会社の人。しかしその人はマリアさんの恥ずかしい写真を、ネットで販売するような人だった。
そしてマリアさんは遠くの山の中に転々と光る丸い輪を求めてタクシーとばした。そこにはコキリコ・ピクニックランドの観覧車があった。年老いた観覧車の係員、森田さんと出会い、彼の計らいによりコキリコ・ピクニックランドで働くようになるマリアさん。ある日観覧車のそばでアマレットを飲みながら森田さんと話すマリアさん。「こんな甘いお酒が好きなんてあんたはよっぽど疲れているんだね」森田さんはマリアさんにそう語った。
そんなマリアさんと森田さんの日々にも終わりがやってきた。観覧車のそばでハモニカを吹きながら息絶える森田さん。そして観覧車は森田さんを乗せてゆっくりと夜空を回る。回る観覧車を一晩じゅう眺め続けるマリアさん


「道ばたさん」
中学生の麻美は学校帰りに家の前でひとりの行き倒れの女性を見つけた。母親に告げると、母親は、これはうちの所轄でしょと、自分の車で病院に運んだ。そして父親が単身赴任で不在の家に、記憶を失ったというその女性をひきとってしまった。
麻美は、麻美が適当に名づけた「道ばたさん」と母親の三人でコキリコ・ピクニックランドに行く羽目になる。遊園地で尋常でないほど勢いよくコーヒーカップを回した道ばたさんは、記憶を取り戻したのか、翌朝には書置きを残して姿を消していた。
麻美の母親も、実はこどものころ家を飛び出し、知らないおばあさんのうちでのんきに過ごしたことがあったという。


「横穴式」
心霊スポット特集の取材で、アポなしで訪れたのは、コキリコ・ピクニックランドにある天然の洞窟を利用した洞窟アトラクション。トロッコに乗って降りた先は自由に歩いて探検するというもの。
ひとりで歩く洞窟のなかで、ふたりの子どもと、その父親と出会う私。父親の話では、子どもの母親を亡くし、途方にくれていたところで、この洞窟を見つけ、住むようになったという。サヌマと名乗るその男性の言うとおり、その部屋の床にはじゅうたんがあり、ベッド、簡易式トイレも置いてあった。
雑会社に戻り、撮影した写真を現像してみると、そこは黒一色の写真だけがあった。そんな莫迦な。今度はプロのカメラマンとふたりで出かけ、園長にも話しを聞いた。しかし、そんなはずはないと言われ、また再度訪れた洞窟にも彼らの姿はなかった。
三度目にひとりで訪問すると、今度は父親とふたりのこどもが現れた。そして、ふたりのこどもは、父親さえ連れて行ってもらったことのない秘密の場所へ招待してくれるという・・。


「長崎くんの今」
目をさますと長崎くんは一糸まとわぬ姿で寝ていた。そんな長崎くんに大柄な女性が、生まれてくる子どもの教育に悪いから、もうそろそろ服を床に脱ぎちらかす癖をやめてくれないか?と近づいてきた。
気がつくと、長崎くんは結婚していた。妻だという女性は、まさにいま、こどもが生まれようという状況だった。破水し、長崎くんに病院まで車で送らせ、女性は赤ん坊を生んだ。長崎くんにあたしたちの既成事実と言って、赤ん坊を抱かせた。
そして長崎くんはつぶれてしまった、かって働いていたことのあるコキリコ・ピクニックランドを訪れる。


「夕暮れのひなたの国−あとがきにかえて」
こどもころ、わたしのうちには「おねいさん」とよばれる人がいた。なにをするでもなく「おねいさん」として存在する人。そんなおねいさんに「夕暮れのひなた」はあぶないから気をつけるように言われる、わたし。そして、ある日、私は「夕暮れのひなた」へ行ってしまったらしい。無事戻った、私におねいさんは魔法をかけてくれると言った。二度と夕暮れのひなたの国へ連れて行かれないように。
そして、いつしかおねいさんはわたしのうちから姿を消した。


あらすじを(苦労して)書いてみたものの、この作品の、なんともいえないぬるい世界は伝えきれるはずもない。今更ながら、これは随分と徒労だったなと、苦笑する。
どうにもレビューをうまくまとめられないので、ネットをまわって調べてみると、歌人東直子は自らの短歌を「しみこみ系短歌」であると称しているらしい。以下、某WEBより引用してみる。(P※引用URLのWEB名がわからないので、無断転載であると最初に断っておく)『本人(東直子)が「しみこみ系の歌が好きだ」と公言している。では「しみこみ系」短歌とは何か。東自身の定義によると、「具体的なことはあまり書かれていなくても、しかしゲル状になってひたひたと心に「しみこんで」くるような歌のことです」(穂村弘東直子『短歌はプロに訊け』本の雑誌社)[参照url: http://lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp/tanka/tanka25.html]』。
なるほど、「しみこみ系」とは言いえて妙。ゆるゆると、しみこむような作品。ぼくも嫌いではないが、「こういう世界、すごく好き」とかいう人がいそうな世界である。