てのひらの中の宇宙

てのひらの中の宇宙

てのひらの中の宇宙

「てのひらの中の宇宙」川端裕人(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、科学、家族


大好きな作家のひとりである川端裕人の最新作。家族と少年の成長をテーマにした小説というところか。しかし正直に言えば、残念なことに、ぼくにとっては疑問符の作品。小説というほどの起伏のある物語があるわけでない。ある家族の日常風景を切り取ったといえばいいのだろうか。しかし、それだけ。もちろん日常風景を切り取っただけの作品というのは、小説にはいくらでもある。しかしそこに、読者の心を揺らす何かがあればこそ、共感とか、感動とかを生むのだろう。常にまじめで、真摯な姿勢のこの作家が、やはり真摯に取り組んだ作品というのはわかる。しかしこの作品からぼくは何を味わえばいいのかわからなかった。物語として、嘘でもいいから起伏と完結が欲しかった。こういう雰囲気は悪くないのだろう。しかし川端裕人という作家の作品に、いつも「『男の子』の物語」を求めるぼくという読み手にとっては、なんとも不完全燃焼な読書をしたという感じ。


妻が癌の再発のため入院し、幼い息子、娘とともに在宅テクニカルライターを生業にする主人公、崇と、息子ミライ、娘アスカとの何気ない生活風景を切り取った作品。


あらすじ王子を自認した直後で、こんな簡単なあらすじでいいのかと思うのだが、この作品には、本当にあらすじらしい、あらすじがない。ひとつひとつのエピソードはいくつか挙げられるのだが、それは決して連なり、物語となるわけではない。例えば、妻の再発する癌について、それはこの作品のなかで何らかの完結を見出すわけでない。癌という事例に対する劇的な物語はこの作品にはなく、あくまでも「母親不在」の条件にすぎない。完治して家に戻るでもなく、悲劇につながるわけでもない。
あるいは母親不在の生活のなかで、ミライという少年が出会っている謎の「おにいちゃん」。ミライに古い科学的な知識を伝えているらしい、その少年。その正体は仄めかされ、読者もそれと気づくのだが、その先はない。
主人公、崇がもともとじぶんのこどもに語るために作った童話も、それが出版されるだろうということまでは書かれるが、それも事実に過ぎない。
まさしく何気ない生活風景を切り取った作品。強いて言えば、娘アスカの描写が薄い。


正直なところ馴染めなかったというのが正解かもしれない。
こどもの名前と、そのカタカナ表記に最初からつまずいた。「ミライ」「アスカ」。その名前に秘められた想いが作家に、あるいはこの主人公である父親、崇、あるいは母親にあるならば、また違ったはずだ。しかし作品のなかではそのことは(たぶん)触れられてはいない。なぜかカタカナ表記が気になる作品だった。なぜ作家はカタナカ表記に拘ったのだろう。作品の世界に浸る前にどうしても違和感を覚えた。
あるミステリー作家が、名前を聞いただけではその表記までわからないという拘りから、敢えてカタカナ表記に拘りを見せる事例を知っている。しかしそれはミステリーという世界と、あるいはその作品に似合うからこそ拘る意味があった。この、母親が入院し、母親不在となった家庭で、男親が幼いふたりのこどもと生活する様子を描く作品には、必然を見出さないとカタカナという表記は似合わないような気がした。
とても主観的で、乱暴な感想だ。
「ミライ」は確かに「ミライ」で、「アスカ」は「アスカ」なのだとしたら、読み手がそれを「未来」や「明日香(あるいは飛鳥、あすか)」と勝手に読み替え、思い込み、論じるということが無意味だということはよく理解している。しかしぼくには「ウシロ」(それなりに理由は提示されるが)や「イトーちゃん」の表記さえ馴染めない。個人的な主観的、かつ生理的な反応。
先に触れたとおり、こどもの名前の説明ひとつあればもう少し違ったと思う。どうにも妙なところにひっかかり、最後まで作品世界に馴染めなかった。もちろんカタカナ表記のすべてが悪いというつもりはない、こどもがその意味をわからず音だけを真似る、例えばミライの語る「セイタイケイ」等の表記はわかるし、納得する。しかし、なぜミライとアスカは、ミライとアスカなのだろう。
物語が大事、とふだんはあらすじの起伏を中心に評価しがちなぼくが、こんな些細は「表記」に、これほどまでひっかかるとは思いもしなかった。いや、ひっかかったのは実は名前だけでないのかもしれない。ミライの語り口も馴染めなかった。これはぼくのまわりに幼ない少年がいないからこそ感じる違和感かもしれないが、ミライの語り口が、マンガやアニメに出てくる主人公のような違和感を覚えた。
もしかしたら作品がミライを主人公とした、ミライが語る物語であれば気にならなかったのかもしれない。しかしこの真摯な主人公、崇のこどもにしては、その語り口がどうにもマンガっぽく(ハードボイルドと評する論評も見たが)、薄っぺらなキャラクターに感じられてならなかった。こうあるべきわんぱくな少年の姿という感じ。いや作家は、一生懸命このキャラクターを創ったのだろう、それまでパパと呼んでいた主人公を、母親の入院とともに甘えん坊を卒業して、とうちゃんと呼ぶようになったというエピソードもきちんと用意されている。しかし逆にそのぶん「創られた少年」を意識させられ、薄っぺらなものに感じてしまった。これももしかしたら、甘えん坊の卒業を、ミライが大好きなアニメの主人公の語り口を真似するようになったなどの表記ひとつあれば変わったのかもしれない。いやこれは余計なお世話か。


作品自体が、起伏に乏しい日常のおだやかな風景であることも、この場合弱点となってしまったのかもしれない。主人公崇にも、その息子ミライにもどうにも感情移入、同化ができなかった。たとえば、ミライという男の子が、おにいちゃんと呼ぶ謎の少年との出会いを通じ、少年へ成長していく物語を前面に押し出したものであれば、あるいは母親の癌について、なんらかの物語と完結を見せれば、もう少し作品の世界に浸れたのかもしれない。


謎の「おにいちゃん」。それはミライにだけでなく、父親タカシにもその姿が見え、あるいは母親にも。いまどき見かけないランニングに短パン姿、とれない寝癖。そのストレンジャー(異人)について仄めかした種明かしはされるものの、きちんとした説明はなされない。なぜ「古い知識」をもったお兄ちゃんがミライの前に現れたのか。ここのところにもう少し、物語が欲しかった。たぶん、ぼくはこの物語にミライが、少年と出会い、別れ、成長する物語を期待していたのだと思う。


仄めかすだけで終わる。例えば大人となった主人公が羽化の失敗したトンボの姿をこどもに見せたくないと森に還す際感じた、濃密な自然というものに弾き出される感覚。それとは逆に、ミライという少年がこれからの少年として濃密な自然に抱きとめられる、つまりこれからかっての主人公の少年時代と同じように自然のなかを駆け巡ることを示唆するような描写。
太古の世界のアンモナイト、いやそれ以前の原初の生き物に始まり、身の回りにはまだまだプランクトンから始まる生物が居、そこに生態系(セイタイタイケイ)がある。そして想いは遠く果てしなく広がる宇宙にまで届く。無限の先の無限。無限の行き止まり。


主人公であり、父親である崇は、自分のこどもにできるだけ真実(ほんとう)のことを伝えたいと願う。それはいつかこの大いなる広がりをミライがミライなりに真に理解するために、中途半端なウソを教えたくないという、この作家に常に感じる真摯な姿勢。それは、ぼくの大好きなこの作家の真面目な態度である。
しかし、残念なことに、これは本当に残念なことにこの作品には「馴染めなかった」。崇の作る童話さえ、どうにもどこかで聞いたようなむず痒さを覚えた。
誹謗中傷のつもりはない。ただ、好きな作家の作品に「馴染めなかった」理由を述べてみた。この作品がたまたま評価できなかったとしても、それでもぼくはこの作家が大好きだ。このマジメな態度、それだけで打たれてしまう。
尤も作家としては、それでは困るのかもしれない。


追記:juneさんの「本のある生活」の同作品のレビュー(11/15)に、ぼくが気になったミライの語り口調が、アニメ「くれよんしんちゃん」を思い出すと言及されてました。あぁ、そうか。少し納得できた気がします。「とぉ〜ちゃぁん」も、そうですよね。相変わらず説明不足は感じるものの、juneさんがリアルに感じた部分含め、作品自体に対する見方は大きく変わりました。(2006.11.17)