摘出−つくられた癌−

摘出―つくられた癌

摘出―つくられた癌

「摘出−つくられた癌−」霧村悠康(2005)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、医療ミス、医者、乳癌、治験、権力


現役、現場の医師が小説という表現手段を用い、医療現場の問題を描く作品。最近、流行(はたり)の現場から、現場の問題を告発するスタイル。現場には一般の人の想像もつかないような問題が転がっている。そのことに問題を感じ、何とかしなければいけないと思う人たちが、こういうスタイルで作品を発表することが最近多いように思う。
この作品を読んで思い出したのが、同様に法曹界という現場に身を置き、警察内部の問題を告発した「死亡推定時刻」(朔立木)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/12596650.html ]であった。この作品も、本作同様に自分が身を置く現場を告発する作品。そして同様に、問題を訴えようという姿勢が強かったことを思いだす。
個人的にはこうした作品の目指すところが、現場からの<告発>なのか、それとも読者を意識した<小説>なのか、その辺りをはっきりして欲しい。ちなみに前者であるならば、小説でなくルポルタージュやノンフィクション、ドキュメンタリーできちんと証拠を明示して行なって欲しい。そして後者であるならば、<告発>は作品の二義的な部分として、まずきちんと<小説>として及第の作品を作り上げて欲しいと思う。
これらの作品の作家が、読み物として読者に娯楽を与え、かつ現場の問題を知らせたいという意図を持つだろうということが分からないわけではない。知らせることにより、まず一般の人が知ることから始めたい、知ることから始まる変革を期待したい気持ちは理解する。しかし中途半端な娯楽作品から知ることが、真の意味で問題提起の一端になるかどうか疑問だ。力を持たない作品は、結局、読者にとって読み物に終わる。「へぇ、こういうことがあるんだ、気をつかなきゃいけないね」「本で読んだけど、こういうことってあるらしいね」で終わってしまうような気がする。
そしてまた、きちんと論拠のあげられない「本にあった」や「人から聞いたけど」という話を得々と話される行為をぼくは厭う。論じるならきちんと足場は必要だ。こうした作品で語られるエピソードは、作家にとって事実であり、真実であっても、結局「読み物」のなかにおいては、極論を言えば<噂>にすぎない。<噂>を論拠にして話されても困るのだ。
ならば、小説で発表された以上は、まず小説足りえるべきであり、小説として力を持つべきである。この作品を読み、まず誰もが思い出す「白い巨塔」(山崎豊子)がなぜ医療告発小説としていつまでも話題になるのかといえば、綿密な取材による真実の裏打ちあることもさることながら、やはり人間ドラマが小説として描かれていればこそである。(横道にそれるが山崎豊子の作品が素晴らしいのは、それは残留孤児の話であれ、ある航空会社の話であれ、真実とドラマ(虚構)が過不足なく補い合って描かれるからこそであると思う。)ドラマが素晴らしくても、扱う事実が嘘だらけでは読者は鼻白むし、驚愕の事実が本当(真実)であっても、ドラマが薄っぺらであれば読者は読み物としか認識しない。もちろん、この作品を読み、知り、動く読者がいないと断言するものではない。あくまでも個人的な意見。小説で事実を告発するならば、それなりに小説でなければならない。


そしてこの作品の場合、正直に言えば小説としてはいまひとつであった。ネットでは文章がひどく、また視点があれこれ変わり、読みにくいという意見も多く見られた。しかしぼくにとっては、ときどき作家が地の文で現われ薀蓄をたれるのが(「死亡推定時刻」同様に)鼻につく程度で、決して読みにくくなはかった。逆にひとつひとつのエピソードは簡潔に、かつ完結しており、読みやすい作品であった。しかしエピソードだけのこの作品で、作家が小説として何を書きたい、訴えたいのかどうしても掴めなかった。
メインとなるのは、乳癌の手術中に右の乳房と左の乳房を取り違えたことから始まる物語なのだが、オビにある内容だけでも「ずさんな手術」「カネ(謝礼)で変わる(医者の)対応」「製薬会社の犠牲」「出世目的の捏造」。このほかにも「癌患者の気持ち」「医師世界における権力抗争」「(よくある)医者と愛人」と次から次へ、これでもかとこれでもかと描かれる医者の世界のエピソード。しかし、それらが絡み合い複雑なドラマを生むわけでもない。ただ書かれるだけ。病院内の医療過誤を発端にした物語は、結局、焦点をどこにも結ばすに終わる。なるほど医師の世界にこうしたことはあるのだなということは分かった。しかしそれでこの作家は、何を作品で訴えたかったのだろうか。


手術室で乳癌の手術が始まった。医師になって二年目、患者の主治医である研修医の本木は、所属する大学病院第三外科の高木教授の第一助手として、手術に臨んだ。一瞬、形容しがたい違和感を覚えたものの、それが何とは分からぬうちに乳房の切除は行なわれた。そしてそれに気づいたときは遅かった。緑の覆布、無影灯の下にさらされていた乳房の右と左が逆だったのだ。それは完全な思い違いであった。しかしミスを公にさらすことは、できない。かくして、本来癌でなかったはずの右乳房にも手術中に癌が発見されたために切除したという隠蔽工作がひっそりと行なわれた。
もしかしたら健康なはずの右乳房にも癌細胞がみつからないだろうか、一縷の望みをかけられ病理検査部へ送られた摘出標本から、微細な癌細胞が発見された。低レベルな凡ミスが、結果としては癌を食い止めた。ミスを起こしたことを悔いる気持ちはあるものの、ほっとする本木、そして高木教授をはじめとする面々。しかし、それは何者かによって捏造された標本からの結果であった・・。
大学病院を舞台にした権力の構想。そして医療現場にあふれる山積みの問題。現役医師が描く医療現場の恐るべき真実の姿。果たして捏造は誰の手で、どのような目的でなされたのか。


正直TVドラマを見るような、あるいはどこかで読んだことのあるエピソードばかりであった。いまさらの驚きはまったくない。それはまさに「白い巨塔」で描かれた権力抗争の図であり、医療過誤の図式。いまどきのエピソードに置き換えても、発表され40年を経とうとする「白い巨塔」の世界は、現代においてもまるっきり変わっていない。
そうならば逆に、この作品を読むことで「白い巨塔」が如何に素晴らしい普遍の名作であったかを知り、逆説的にこの作品が「白い巨塔」をそのまま踏襲しただけの二番煎じということになってしまう。
やはり、この作品ならではのドラマが欲しかった。研修医二年目で医師という職業に理想を持つ本木という医師が起こしたこの事件。中途半端な権力抗争図と、稚拙で杜撰な癌の捏造の部分をもう少し練りこみ、作り、そして本木の心の葛藤をきちんと描き、あるいは不要なエピソードを削れば、もう少し小説らしくなったかもしれない。きれいにまとめたようなラストは安っぽいいだけで何も生むものはない。


こういう現場告発型、あるいは医療分野の作品が好きな人には、読みやすい作品としてオススメかもしれない。しかし、ぼくは同じような医療小説であるならば、まずこのレビューでも触れた「白い巨塔」(山崎豊子)であり、最近では「廃用身」(久坂部羊)あたりをオススメしたい。あるいはマンガ「Dr.コトー診療所」(山田貴敏)、「ブラックジャックによろしく佐藤秀峰)も決して期待を裏切らない。


蛇足:たぶん、この作品でいちばんリアルを感じたのは癌患者の気持ちかもしれない。乳癌という基本的に女性にとって、ひとごとでない話題。そして現実味あふれる患者の気持ちの描写。この部分にもう少し焦点を絞り、医師と患者の人間同士のぶつかり合いを描いたほうが・・。いやこれも余計なお世話か。