夜のパパ

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夜のパパ

「夜のパパ」マリア・グリーペ(1980)☆☆☆☆★
※[949]、海外、児童文学、少女、夜、交流


ネットの本読み人仲間「今日何読んだ?どうだった??」のまみみっくすさんがマンガ「papa told me」(榛野なな恵)の雰囲気だと言ってオススメしてくれたので、さっそく図書館で借りてみた。彼女は再刊のほう、つまり絶版になっていたが熱狂的なファンが復刊を望んだ結果、再刊された新装版を手にしたようだが、ぼくは1980年版の図書カードをいれるポケットのついた、ちょっと古びた奴。再刊の表紙は夜のパパの頭にふくろうのスムッゲルが乗っているのだが、遠くから見ると丁度ちょんまげみたい。


なるほど素敵なお話しだ。しかし残念なことにいまどきのお話しではない。
シングルマザーである主人公ユリアの母が、ベビーシッター代わりに、夜の間娘の面倒を見る人を捜す。ひとり娘が寝ている間、家を空けているのが心配なので、寝ていていい、寝るのが仕事だという広告を新聞に出した。さて、そこに応募してきたのがひとりの青年。自分の部屋に本がたくさんありすぎて、寝心地のいいベッドがないという理由から、まさに寝るために応募する青年。ほんとうのパパを知らない、ほんとうのパパがいないユリアにとって、夜の間だけ訪れる「夜のパパ」との出会いと交流の物語。
この作品のよいところは少女と青年の交流が決してすべてうまくいっているわけではないということ。少女の、悪く言えば身勝手さをもてあまし気味の青年の姿、あるいは「夜のパパ」と関わりあうことで、他者との関係を通し、成長していく少女の姿がリアリティーをもって、そしてデリケートに描かれること。そういうところが素晴らしい。


スウェーデンの作家が1968年に発表した作品が12年を経て日本で翻訳、出版された。しかし80年代というまだ暢気であった日本であればともかく、2000年代のこの、何ともいやな事件、いやな風潮が蔓延、当たり前という現代の日本という状況において、この作品の設定が受け入れられるかどうかはちょっと疑問。「ロリコン」という概念が当たり前に社会風俗現象として受け入れられている時代。ひっそりとそういうものがあった時代においてはまだしも、こうもあからさまにそういうことが普通に語られる現代の日本において、娘を縁もゆかりもない若い男性に預けることはあり得ない設定だし、受け入れがたい設定かもしれない。
シングルマザーという社会的な設定を児童文学に持ち込み、なお少女の成長を、少女に欠ける「男親」の代替との関わりで描くこの素敵な物語が、もはや普遍性をもって伝えられないとは何とも残念なことだ。そういう見方をするほうが悪いと言えばそれまでなのだが、勘違いする男性読者には間違っても薦められない。そう思うのは、やはりぼくが娘を持つ父親だからだろうか。下世話なかんぐりと言われても仕方がない。


しかし、スウェーデンという男女同権、男女平等を標榜する社会福祉の国であっても、やはりシングルマザーは両親のいる家族と比較すると一般的でないという様子がこの作品からは読み取れる。主人公の少女の友人たちの家庭では、何かあると「パパが、」とか「パパに、」と言われる。そうしたなかで、しかし少女もその母親も男親がいないことについてことさら語るわけではない。ただ欠けているのだ。そんな母娘のもとに、いや少女のもとにひとりの男性がふくろうを抱えて現われる。「子守は不要」と母親にいう少女を、決してこども扱いしないで、ひとりの人間として少女と対面する「夜のパパ」と呼ばれる青年。


と、ここまで書いてみてふと気づく。このレビューを書くにあたって、「夜のパパ」と、パパ=男親の部分を重視していたのだが、どうもそれは違うのではないだろうかということ。主人公の少女にとって大事なのは「欠けた男親」の代替ではなく、こどもであれ、ひとりの人間として認めてくれる大人の存在だったのではないだろうか。ぼくらはつい「こども」を「こども扱い」してしまうが、自分たちがこどもだったときに、決してこども扱いされることを潔しとはしなかった。この主人公の少女にとって大切なのは、たしかにパパが欠けているのだが、そんなことより自分をひとりの人間として扱ってくれる人間、大人だったのではないだろうか。そしてこの青年は無理をすることなく、少女をひとりの人間として扱う稀有な大人だったのだ。
ひとりの人間として認められた少女(こども)と、ひとりの大人の交流。その交流が素晴らしい。そしてその大人は、決して「男性」に限るものではないのだろう。
ならば、作品において例えどんなにこの設定が秀逸なものであれ、若い男性を「夜のパパ」にしてしまったことは現代という歪んだ時代においては、やはり残念なことかもしれない。ひなびた爺さんとか(「夜のじじい」だ)あるいは若い女性が、この少女をひとりの人間として扱うことのできる大人であったなら、この物語の持つ魅力の普遍性を、こういう時代においても損なわれることはなかったのではないだろうか。


いや勿論、この「夜のパパ」という青年のキャラクターが細やかに描かれ、あるいは少女との交流、飼っているふくろうスムゲッルとのやりとりがあればこそ、この物語が輝いているという大前提を忘れるわけではないのだが・・。