エデン

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「エデン」五條瑛(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、小説、近未来、ミステリー、思想、暴力、囚人、収監、読み物、エンターティメント


五條瑛の作品を読むのは久しぶりな気がする。彼女の代表作と言える「革命小説シリーズ」(※)を未読のなかでこう述べてしまうのはおこがましいが、彼女の作品はとにかく「男」の世界。防衛庁出身の本家本元の諜報出身者である彼女が描く世界は、地味な諜報の物語、近未来や現代を舞台にした男の世界。それらを情に訴える書き方でなく、まるで男性作家のように淡々と事実を積み上げて書くエンターティメント作品。彼女自身インタビュー[ http://media.excite.co.jp/book/interview/200305/index.html ]で「書きたいのはペーパーバッグ、芸術じゃない」と明言する。己の培った知識をもとに築き上げる物語世界、それは想定できる現実世界であり近未来世界。それらを舞台に語られる物語、読み物は、エンターティメントというには華やかさは足りないかもしれない、しかしこの作家の描く「本当のような嘘」の世界に惹かれる読者は多い。敬愛する本読み人でこぽんさんもそのブログ「でこぽんの読書日記」で「男ばかりが出てくる五條作品を読むのはただそれだけで、楽しい。」(「ROMES6」2006-11-13)と、五條作品に惹かれる様子を述べる。
(※)「革命小説シリーズ」、シリーズが現在も続くなか、なぜか第一作「断鎖"Escape”」が入手困難という不思議なシリーズ。上記インタビューによれば女の子がたくさん出てくるらしい。


暑い夏だった。
男はたまたま運悪く、そのときにその場所にいた。それ以上の説明はない。
「お前らがここにいる理由は一つしかない。闘うためだ。それなら闘い続けろ。何があっても続けろ。止めるな。それが、お前らがここにいる意味だ。お前らが信じているあらゆるものは、意味がない場所には存在しないはずだ。そして、俺に見せてくれないか。信念とやらが造り上げた楽園の姿」
「何も考えずに、この街にお前らの信念とやらをぶつけてみろ!ここを楽園に変えてみせろ!」
男の叫びに、暴徒は歓声で応える。
しかし、楽園なんてこの世界にないことを男は知っていた。暴徒は男を必要としているが、男は誰も何も必要としていない。(「プロローグ」より抜粋)


死刑の廃止された近未来の日本。ストリートギャング「涅槃」のリーダーである亞宮正人が目覚めたのは「K七号施設Nエリア」という聞いたこともない施設の一室であった。
中華系のストリートギャンググループ「四頭会」とお台場の「WEST」で起こした事件をきっかけに逮捕、二年間の特別矯正施設送りが亞宮に下された判決だった。
そこは、入所者の人権を重んじ、まさに文字通りの“矯正”を目的とした施設だという。施設のなかの行きたいところで、自分に合った場所で暮らせばいい。ルールさえ守れば意思が尊重される。仲良くやろうね。カウンセラーを名乗る宇津木は亞宮にそう語る。
施設のなかに入ってみれば、そこは確かに今まで亞宮の知っている刑務所とは様子が違った。空間全体をドームに覆われた施設。外界から閉ざされた、しかしとてつもなく広いドーム。広がる青空は本物なのかどうか判別できない。そのなかで受刑者たちは己の好きなように振舞っていた。
何かが違う。違和感を覚える亞宮。話しかけて来た男は、亞宮がストリートギャングの出身だと聞き、驚く。この施設は政治・思想犯専用の特別矯正施設だ。己の信念に基づき行動を起こした人間だけが来られる場所なんだ。
房棟は7階まであり、それぞれのフロアは一階と三階が中国人、二階が日本人、四階は朝鮮半島、五階はアラブとアフリカ系、六階、七階は五階までのどこにも住めない連中が住んでいる。それは誰かが決めたことでなく、自然とその人種勢力によって分けられた区分け。中国人がふたつのフロアに別れているのは派閥があり、同じ階に置いておくと殺しあうからという理由。房棟にはそれぞれのフロアの代表者からなる「評議会」が置かれ、何か事件が起きても、基本的に「評議会」でそれを処理することができるなら、施設が口を出すことはない。囚人、いや生徒たちの自治に任されているのだ
そしてそれぞれの人種に分けられたフロアでは、それぞれの思想により住まう部屋も分かれていたのであった。
思想的に特定の主義を持たない亜宮は、チームの後輩が郵便物に忍ばせ送る種々の品々を取引の材料に、ある意味、中立の立場で動き、そして施設を見つめる。後輩の手紙によれば「K七号施設」は公的には存在を隠されており、チームにいた警察幹部を父親に持つ女性メンバーをしても詳細が掴めない施設だという。そして亞宮は施設で「WEST」でぶつかり、同じように逮捕された「四頭会」のリーダーのひとりである蔡と出会う。外では対立するふたりだが、この施設のなかでは特定の思想を持たない短期収容犯という意味では同じ。それぞれの利害の一致するなかで、協力する二人。
この施設のなかでは二十一年前に起きた「日比谷暴動」という事件がひとつの鍵になっているようだ。その事件は、ひとつの政治結社への家宅捜査がきっかけとなり、日比谷というひとつの街を三ケ月の長い間、燃やし続けた。国家権力との闘争と位置づけた数多くの政治・思想・宗教団体が日比谷を占拠した。彼らは、これといった共通点もなく、思想、セクト、政治信条、みな違っていた。それなのに一致団結して、闘い続けていた。そこにはリーダーとされている宇賀神という男の存在があった。事件が終結したあとには宇賀神の姿はどこにもなかった。果たして宇賀神という男は何だったのだろう
そしてその際指揮を執ったのが、現在のこの施設の所長であると思われる、当時警察のエリート官僚であった北であった。多くの警察官の死者を出し、リーダーであると目される宇賀神を取り逃がした彼はその責任をとるかたちで表舞台から姿を消し、そしてこの謎の施設の所長に収まっていた。
房棟では、大怪我や、ひとが殺られるような事件があちこちで起こり始めていた。度重なる事件。そして、それはいままでのように評議会では抑えれらなくなりはじめてきていた。そして亞宮は気づく。暑い。起こる暴動事件。この事件の意味は、そして亞宮がこの施設に送られた意味は?


思想・信条をひとつの題材にしている割に施設のなかでそれぞれの囚人は、思想・信条でいがみあうことより、人間として交わっている。ときに思想・信条を題材にした小競り合いも見られないわけでないが、大きな事件は思想・信条のそれより、もっと卑近な原因で起こる。
そのなかで思想や信条と無縁にまさに野獣のように生き、自分が気持ちよく生き抜くために自由に行動する亞宮の姿はとてもかっこいい。その姿はまるでドラマやマンガの主人公。
しかしでこぽんさんもレビューで触れるように、残念なことに風呂敷を畳めていない、というか風呂敷を広げるまでに至っていない。思想犯という設定の割に、施設にいる人間はあまりに小さい。とくにふたつのフロアに別れたはずの中国系の人々の動きは、小説やマンガのなかで見かける、目先の利権だけしか見えない中国系の犯罪者のそれでしかない。彼らがとても高い理想を掲げた思想・政治犯とは思えない。
収容所の男だけの生活を描くエンターティメント作品を五條は書きたかったのだろう。しかし振り返ると、ちょっと設定に無理があったように思う。
思想・信条より人種の区分けのほうが先というのもどうなのだろう。少なくとも思想・信条の矯正施設であるならば、やはり思想・信条は人種という枠をを超えるべきではないだろうか。例えばフロアの区分けは思想・信条により区分けされ、各フロアの部屋の区分けは人種、あるいは思想・信条の細かい差異のほうが納得できたのではないだろうか。
いやもしかしたら五條にとっては、もはや思想・信条の持つ力の薄ぺっらさとは、嘲笑うだけの存在なのかもしれない。これは実際の諜報の世界に身を置いた五條だからこそ描ける世界なのかもしれない。ぼくの知らない「学園紛争」の時代に於いても、本当に思想・信条のために生き抜いた男がどれだけいたのだろう。フォークソングの名曲「いちご白書をもう一度」で歌われるように、政治活動はただのファッションにしか過ぎず、ただ拠ることで心の平安を得ることのできる存在なのかもしれない。
この作品の場合、それぞれに高邁な理想を掲げ思想・信条に基づき行動していたはずなのに、実は宇賀神という男の下で、拠る者の下で、もはや思想・信条に関係なく、国家と闘争するという大義名分に酔いしれた男たちの姿を描きたかったのかもしれない。それは一見、テーマのように見えたが、実はただ嘲笑うだけの存在。
結局、思想・信条を語ることより、強いものの命令のもとに暴力の本能のもと、酔いしれてしまうことの簡単さに身を任せた彼らの姿を、ただそういうものだと描きたかっただけなのかもしれない。


500ページ弱の物語。それは確かにおもしろい読み物であった。しかしこれはやはり、亞宮というダーティーヒーローを描きたいだけのステレオタイプの物語なのかもしれない。そしてまだまだ深く描けた作品だ。
かっこいい。まさにそういう小説。悪くはない。しかし、敢えてオススメするほどの作品でもない。