温室デイズ

温室デイズ

温室デイズ

「温室デイズ」瀬尾まいこ(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、いじめ、中学校


ネットで親しくしている「本を読む女」のざれこさんが、丁度同じ時期に読まれ「すごくタイムリーな読書だと思い、そしてこの本をタイムリーだと思ってしまう最近ってどうなってるんだ、と哀しくなった。」と書き始められていた。


幸せなことにいじめを受けたことはない。
残念なことにいじめに加担してしまったことはある。それは小学校の高学年の頃。想像力に不足していた。いじめられる人の気持ちがわからなかった、想像さえしなかった。中学に入り少しだけ人の気持ちを思い量ることができるようになったからか、それとも当時の「いじめ」という社会現象に対して小学校時代を振り返ることがあったからかもしれない、ぼくらはとても悪いことをしたのだと心が薄ら寒くなったことを思い出す。なぜあのときに気づかなかったのか。それはたぶんいまでもぼくらの心の傷。いじめた側が何を言うのかという意見もあろうが、じぶんたちが「いじめていた」ことを自覚し、反省することが早くできたということは、それでもぼくらの救いであった。


「温室デイズ」、中学校の教師である瀬尾まいこが描いた、「いじめ」のひとつの姿。「中学校の教師」という立場で、この作品を書くことの痛みが伝わるような作品。この作品には、強い希望も、明日もない。「いじめ」に対する解決もない。ただ、こういう「いじめ」が現実にあるということを坦々と描写する。いじめを受けた側の内面の描写。


いじめられる側には、いじめられる明確な理由がわからない。それはほんの些細なきっかけ。いじめを行なう人にとってもそれは、ほんの些細なきっかけ。
人の本質とは、群れて他者を排除することを本能とする動物ではないだろうか、レビューでも幾度かそう書いた。最近では「栄光なき凱旋」(真保裕一)でも触れている。アメリカという国で有色人種を差別してきた歴史。それは日本であっても同じこと。同種であること、群れのアイデンティーを高めるために自分と違う「敵」を作る、人間にはそういう本能がどこかにあるのではないだろうか。このことを意識しないことには「いじめ」はなくならないと思う。いじめを受ける人の気持ちなど、いじめを行なう人にはわからない。なぜならいじめを行なう人にとって、いじめを受ける人は「敵」にしか過ぎない。温かい血の通った人間ではない。戦争で敵兵を躊躇なく殺すことと同じ。「敵」はまさに標的なのだ。
標的を「人間」に戻すことが、まず肝心なのではないか。「いじめは悪い」という標語を掲げても、いじめを行なう人間には届かない。いじめを行う人間にとって、自分がいじめを行なっているという自覚はない。ただ「敵」を叩く。それは英雄的な行為。
気がついていても、自分がいじめの対象になるのが怖くて何もできない、あるいはいじめに加担する人。でもそれは本当に気がついているといえるのだろうか、いじめを受けている人が、自分と同じ「人間」であることに。自分さえも「人間」扱いされないことの恐怖、不安に、ただおののいているだけでないだろうか。


さきに述べたとおり、たったひとつの「いじめ」しか経験してない人間が語るべき話ではないかもしれない。ただいじめについて語るとき、「いじめが悪い」というだけでなく、標的となった人の、いじめられた人間の気持ちに思いを馳せる、その人の気持ちになるということをもっと訴えるべきでないだろうか。自分がいじめられていたらどうだろう。想像してみよう。それはいじめだけではない。他者を理解する第一歩。


最近いじめを理由に自殺をするこどもが増えている。果たしてこれは「いじめ」自体が変質したのだろうか、はたまた「いじめられるこども」が弱くなったのだろうか、ぼくにはわからない。そんなことを書くと「いじめられた者」の気持ちがわからないのか、「いじめられたこども」は被害者だと声高に言いつのる声が聞こえそうだが、敢えて書きたい。彼らが被害者であることは間違いない。それはまず認める。しかし彼らが死というものを安易に選んでいないだろうかという点も、ひとつの側面として忘れてはいけない。ざれこさんが「逃げるべき」と語ることはぼくも同感だ。ともすれば立ち向かうことを、よしと考える向きもあろうが、人の心はそれほどに強靭なものだと思わない。自分だけで解決できない問題は逃げても構わない。庄司薫の名作「赤頭巾ちゃん気をつけて」で、主人公薫くんのお兄さんの友人たちは、逃げて、逃げて、逃げまくり、最後まで逃げ切れる問題は、実は大した問題でないと言っていた。いや、これは横道に逸れすぎているか。
ただ逃げ方にもいろいろある。自殺という逃げ方はどうなのだろう。ぼくは自殺という逃げ方は嫌いだ。それは残された人の気持ちをまったく想像しない逃げ方だからだ。「ごめんなさい」と書かれた遺書の言葉が嘘だとは言わない。消えていなくなりたい、その気持ちも至極理解できる。しかし自殺という逃げ方は、最低の逃げ方であることをだれかが教えなければいけない。選ぶ道がなかったというかもしれない。しかし恥ずかしくても人に相談することのほうが、自殺より余程、恥ずかしくないということを教えなければならない。そうみなが思わなければならない。
自殺は決して美徳なんかじゃない。残されたひとの気持ちを想像したのだろうか。自分が楽になることだけしか考えられなかったのではないか。そしてさらに言えば、それが最期の最大の攻撃になることを意識していたのではないか。
いや何度も言う、自殺に追い込まれた者がいちばんの被害者であることは否定しない。しかし彼らにももう少し想像力を働かせてほしかったと思うのだ。もちろん悪いのは加害者であることに間違いはないのだが。どちらにも、もう少しだけ想像力をもって欲しい。
ただそのためには、心の訓練が必要だ。想像するための訓練。何もないところからは理解できない、正しく想像するためには、正しい知識が必要。これも大事なこと。いやこれはもはや本のレビューではない、話を本にもどそう。


さて「温室デイズ」である。正直、瀬尾まいこらしい作品だと思った。前作「強運の持ち主」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/40646707.html で、ごく普通の女流作家の書くような作品になんだかがっかりしたことを思うと、この坦々と出来事を描く姿、それが社会的に大きな問題であれ、ただ坦々と描く姿はとても瀬尾まいこらしいと思った。大きな事件は起こらない、ありがちな解決にも至らない。そこにあるのはとても普通の日常生活。「いじめ」さえ、きっと現実には日常にありふれている。瀬尾まいこのこの作品を読んで、そう思う。そしてここで作家が現役教師であることを触れるべきかどうか迷うものの、現役教師が書くこの現実に、ため息さえ出てしまう。教師でありながら何もできない現実に、彼女自身が痛みを覚えながら、その痛みを隠し、抑えながら坦々と綴ることを選んだのではないかと思わせる作品。作品から、作家という人間に思いを馳せることが、正しい本の読み方かどうかは別として、あるがままを描いたと思われる姿勢に好感を覚える。
坦々としていること、解決がないこと、強く明るい未来が予感させないことに、不満を覚える読者もいるだろう、しかし、ぼくは瀬尾まいこの作品として、この作品を高く評価したい。
そして坦々と現実を綴りながら、しかし負けなかった主人公を描いたことをさらに高く評価したい。主人公が負けてしまったなら、この作品には絶望しか残らなかったのだと思う。


中学三年、主人公のみちるは、小学六年生のころ学級崩壊を経験してきた。それは五年生のときの締め付けの厳しい先生から解放された心地よさだったのかもしれない。はじけたみちるたちは、家が金持ちで持ち物もしゃれていて、身体もきゃしゃで、可愛らしい女の子、前川優子をいじめの標的にするようになった。どんなにいじめられても正論を訴え続ける彼女に、いじめは収まらなかった。そして彼女は隣の校区の小学校に転校していった。そのとき、初めてはっきりとした後悔を覚えるみちるたち。
そんなとき、五年生の初めの頃、先生の厳しい締め付けにより不登校になっていた斎藤くんがもどってきた。休んでいた間、部屋に閉じこもりきりで過ごしていたわけでなく自転車で日本一周をしたり、活動的に過ごしてきた彼を新しいリーダーとしてクラスは復活した。生徒の気持ちと、教師の気持ちがうまくかみ合い、なんとかまともな学校生活を取り戻せたといえたのは、卒業を間近に控えた二、三週間だった。


正しいことができない苦しさ、だらけきったどんよりした空気、立て直す時のもどかしさ。もうあんな日々は送りたくない。誰かを傷つけたり、仲間を追い込んでしまう後味の悪さ。もうあんな気持ちを味わいたくない。(P15)


中学三年の教室は、まさにあのころのようだった。始まりの合図はあったのに、教師は気づかない、気づかぬふりをしてきた。平和ボケしてきた日本。大事にならないと動かない。その結果はまた追いつけない、手遅れの状態。「このペースでテスト範囲まで行くのかな」崩壊した授業、それぞれに自分の好きなことをしている生徒たち。優子が机を寄せて話しかけてきた。小学校のころいじめの対象であった前川優子とは、同じ校区ということで中学で再会した。どのように接していいかわからず居心地の悪い思いをしていたみちるに、優子は懐かしそうに声をかけてきてくれた。
雑然とした教室で優子はみちるに語りかける。「あのころはまじめにすることが一番だと思っていた。先生や親のいうことを聞かなくちゃだめだと思っていた。でも中学生になって、自分の意志でまじめなみちるは本気だからすごい」
「学校できちんと勉強していれば、塾に行く必要はない」時代遅れの理髪店の店主の父親はみちるに言う。小学校のとき崩壊した教室を再生させた斎藤くんは、自分からクラスのパシリを買ってでている。幼馴染で父親がやくざの伊佐は学校の不良の中心。みちるはある日終礼で、立ち上がる。「こんなことじゃいけないんじゃないかな」しかし、それはみちるへの長いいじめの始まりにしかならなかった。


物語は、みちると優子、各章でふたりの少女の視点が交互に入れ替わり進む。いじめられるみちるの姿を見ていられない優子は、いつしか教室を離れ「相談室」へ、そして「学びの部屋」に通うようになる。カウンセラーと話しをしているうちに、人に話しを聞いてもらうことの意味を知り、自分なりにできること、不良の伊佐に話しかける優子。いっぽう、みちるへのいじめはとどまることを知らず続く。かばんは切られ、そしてついに暴力にまで発展する。擦り傷を作り、血を流すみちるの様子に気づかぬ振りをする担任教師。騙されたとぼやきながらスクールサポーターをする吉川は、いじめられながらも毅然とした態度でいるみちるが、壊されたくないと願う中庭の花壇を守ろうとする。それは自分の力でなく、ナイフの力を借りた行為。自分たちだけでは何もできない不良たちは、伊佐を頼みとする。不良たちの頼みに応えようとする伊佐。それはいけない。伊佐を止めるため思わぬ行動を起こすみちる。どくどくと流れ出る赤い血は・・。


この痛々しい辛さを理解でき、共感できるなら、きっと「いじめ」なんてなくなるはず。ぼくはそう思いたい。しかし例えば、給食費を払わない親、自分の子どもばかりしか見えず権利ばかり主張する親、そういう親に育てられたこどもたちに、本当に他人の痛みがわかるのかどうかわからない。他人の気持ちを想像するための正しい知識を与えられているのだろうか。それは学校ではない。やはり、家庭という人間関係のなかでまず育まれるものだと思う。そういう意味ではぼくも「最近ってどうなってるんだ」と思わないではいられない。