エンキョリレンアイ

エンキョリレンアイ

エンキョリレンアイ

「エンキョリレンアイ」小手鞠るい(2006)☆☆★★★
※[913]、国内、小説、現代、恋愛


※少しだけネタばれあり。


わかっていたんだ、このタイトルから正統な恋愛小説だということ。好評をあちこちで見かけ、きっとただの恋愛譚以外に何かあるに違いない、そう思い手に取ったぼくがいけない。結局ありふれたありがちな恋愛譚、ぼくにとってこの作品はそれだけでしかなかった。
オビに「上戸彩さん絶賛!」の言葉、つまりそういう小説。決して悪いものでもない。しかしぼくの心に訴えるものもなかった。ベタベタなお約束の物語。
こういう運命的な物語、エピソードはありふれたというほどに数は多くないかもしれないが、確かにどこかにあるような物語のひとつに過ぎない。ありふれた恋愛の光景のひとつを読者にどう伝えるかは、結局作家の腕。作家なりの狙いは読めるのだが、決して成功しているとはいえないような気がする。
そして気になる読点の多用。この作家なりの文章のリズムを生むのだろうが、個人的にはあまりいただけなかった。自分の文章を推敲する際に(誤字脱字が多いレビューであるが、一応簡単な推敲はする(ときもある(苦笑)))、最初にするのが多用する読点の削除から。もしかしたら近親憎悪かもしれないが、読み始めは気になった。


泣き虫花音(かのん)。少女だった頃、わたしにはそんなあだ名がついていた。小学校二年生だったころ、貯水池で弟を亡くし、それ以来、笑うより泣くことの方が、好きだった。中学生になり、高校を卒業し、大学生になってからも、泣き虫花音はわたしの中にひっそりと棲み続けていた。
学校のある京都の本屋のバイトを、卒業と東京への就職のため辞める最後の日、わたしは運命のような出会いをした。その日はわたしの二十二歳の誕生日でもあった。


「こんにちは」
ああ、なんて気持ちのいい声。いったいどんな人が、どこまでも晴れ渡った海のような、この声の持ち主なのだろうと思いながら、うしろをふり返った。(p6-7)


従姉妹のこどものために絵本を選びに来た青年、井上海晴に話しかけられた。運命の出会い。それは二度と出会うはずのないような出会いであった。しかしわたしたちは出会った。出会って、すぐ遠く離れる運命なのに。
勤めていた外資の銀行を辞め、アメリカの有名な料理学校に通うことを決めた海晴が、丁度一時帰国した際に出会うふたり。明日にはアメリカに渡ってしまう、そんななかで交わす深夜の電話。そして京都から東京に戻る新幹線のなかで、彼を見送るために、約束もないまま成田空港に向かう決意をするわたし。そして空港で交わすキス。もうひとつのわたしの人生がはじまった。
東京とNYを結ぶエンキョリレンアイ。未婚の母を持つ海晴のお母さんは自らをカタカナでミコンノハハと呼んだ。漢字とカタナカでは同じ言葉でも語感が違う。そう言っていたという。だからわたしも遠距離恋愛でなくエンキョリレンアイ。
物語は主人公のモノローグ、そして主人公の受け取る恋人からのメールにより描かれる。
遠く離れたふたり。電話やメールでつながっているといえども、うまく連絡がつかないときの寂しさはことさら。郵便でなく、メールであればこそ、すぐ届くはずなのに。待ちわびる主人公の気持ち。そして主人公は勤め始めた会社で、仕事上のトラブルに巻き込まれる。心細く寂しく、そして会いたいという切ない想いと裏腹に、彼からの連絡は途絶える。意を決し、海を越え彼のアパートまで出かけた先に待ち受けていた運命とは・・。


最近、同じように遠距離恋愛をひとつのテーマにした作品で「追伸−二人の手紙−」(森雅之http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/42329808.html を読んだ。こちらのほうは漫画(絵物語)であったが、余程ぼくの心に響いた。ぼくは森雅之というこの作家のファンであることを差し引いても、この「追伸−二人の手紙−」のほうが心に響いたのはなぜなのだろう。同じようにベタベタな物語なのに。
例えば「追伸−二人の手紙−」は、お互いの書簡のやりとり、お互いのそれぞれの地での生活を描くことにより、それぞれの想いがきちんと描かれ(それは傍から見れば少し歯がゆいものなだが)それゆえに共感を覚えるのだろうか。
対する「エンキョリレンアイ」は、主人公の切ない想いはあくまでも主人公のモノローグのみで描かれる。それゆえに主人公が巻き込まれる、ある仕事上のトラブルは相手の青年のメールの返信の文面から読み取れるだけでなかなかその実体が明かされない。やっと、そのトラブルが本文で明かされたとき、すでに彼女のなかでそのトラブルは終わっており、ただ彼とはうまく連絡がとれない状態という事実のみが読者に呈される。
ぼくはこのトラブルは(これもありがちなトラブルであると思うのだが)、やはり早くから読者の前に呈されべきであったと思う。作家は敢えて主人公の読む彼のメールの文面から状況を読み取らせようと狙ったのだろう。しかしあとでトラブルの実体を知らされた読者にとっては、彼のあまりにも常識的な回答が、実際にこのトラブルが主人公に与えたであろう衝撃を読み取らせるには至っていなかった。そしてさらに彼の回答は、実際にトラブルを抱えていた主人公が、そのときおそらく持ったであろう心理状態に対してかけ離れた、あまりにも一般的な回答であったように思えた。遠く離れた恋人が切実に感じている状況に対しての回答としては決して適当なものであったとは思えない。少なくとも、ぼくには、。
ならば、もっと主人公の状況を本文で説明すべきであったと思う。そうすることで、読者は主人公にもっと同化できたのではないか。主人公の抱いた切なく、寂しい想いに。
いやこれは読者としてのぼくが、ただもっと主人公の気持ちに同化したかったという願いに過ぎないのかもしれない。多くの読者はこの物語に納得し、涙をも流している。
でも本当に、そんなに簡単に涙していいの?


ありがちなドラマと評した。悪意あるひとりの人間のために引き裂かれたふたり。そして年月を経て、思わぬ場所、思わぬときに再会するふたり。このさきのふたりの未来は本文に書かれない。しかしおそらく読者は希望を期待する。ありがちなドラマだ。どっぷり主人公に浸ることができれば、素敵な愛の物語なのだろう。しかしぼくのようにひねくれた読者はどうも気に入らない部分が多く、作品に浸りたいという思いとは裏腹に浸ることができなかった。
主人公はその後この悲恋を乗り越え、別のひとと結婚する。しかし結局は夫に好きなひとができて別れてしまう。このエピソードは何だ?いつまでもあの人を忘れられない主人公は結果として恋人との再会を果たす。まさに「お話し」ではないか。物語の展開の必然を感じられない、作為的なシチュエーションとドラマ。正直、なぜ多くの人がこの作品に感動し、涙するといえるのかぼくには理解できない。
ちりばめられたエピソードも然り。ひとつひとつのエピソードは確かに綺麗で心を打つのだが、それが物語と有機的に絡まり作品に命を与えているとは思えない。冒頭に掲げられた幼い頃弟を亡くした「泣き虫花音」の設定は、この作品にどれほどの意味を与えていたのだろう。それは二人の出会う冒頭の絵本を選ぶエピソードのためのエピソードに過ぎないのだろうか。あるいは海晴の「ミコンノハハ」のエピソード、あるいは親友の不倫、そして不倫の果ての妊娠と堕胎のエピソード。
最近の小説では当たり前のようになっている簡単に身体を合わせることがない物語と、遠距離恋愛という状況で愛を育み、醸成するという設定は嫌いではない。しかしこの物語はどこかおかしい。何かがぼくのふに落ちないのだ。
この作品でぼくが納得できないところを挙げ連ねてたところで、何かが変わるものでもないだろう。こういう読み方をした読者もいたということで、数多くの本読み人の参考のひとつにでもなればと思い、筆を置くことにする。


これは、たんにぼくが期待しすぎただけなのだろうか・・?