ボトルネック

ボトルネック

ボトルネック

ボトルネック米澤穂信(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、青春、パラレルワールド、SF、ファンタジーネオハードボイルド


※少しネタバレあり、未読者は注意願います。


二年前に東尋坊の崖から落ちて死んだ恋人諏訪ノゾミを弔うために、事故現場を訪れたぼく、嵯峨野リョウ。手向けの花を投げ込もうとした瞬間、強い眩暈に襲われ、崖下に落ちた。・・・・気がつくと、見慣れた金沢市の公園で寒さに身をよじる自分に気づいた。どうして?とにかく家に帰ろう。
家に辿り着き、ドアの鍵を開けようとしたとき、鍵が合わないことに気づいた。そしてポッキーをかじりながら家から出てきたのは、ぼくの知らない少女だった。この家に住むものだと言い、そして勿論ぼくなんて知らないという。
家にあげてもらい話しをした。どうやら、ここはぼくの住む世界と少し違う世界のようだ。嵯峨野サキと名乗る少女は、ぼくの世界では死産となった母がツユと名づけたぼくの姉にあたる少女。こちらの世界で、彼女は生まれ、そしてサキとして生活をしていた。代わりにこの世界で、ぼくは生まれてこなかった。同じ両親、同じように起こっていた両親の不仲。しかしこちらの世界では、両親は仲良くふたりで旅行などしているらしい。
すこしずつ違うどこかを、ぼくらは「間違い探し」をするように探していった・・。


この作品については、読む前からネットで賛否両論というかこの切ないまでの痛みをどう評価したらよいかわからないという文章を多くみた。某ネットコミニュケーションで、近く読むと宣言したら、体調を整えてから読んだほうがいいですよと、ありがたい忠告さえいただいた。果たしてどんな作品なのだろう。


レビューをまとめる前に、幾つかのネットレビューを今一度覗かせてもらった。すると「本を読んだら」のゆうきさんのレビューでのなかで帯にこんな文章があると触れていた『青春を描くには二つの方法がある、と勝手に言い切ってしまいます。一つは「過ぎ去って初めて分かることがある」という大人の視点で物語を進めるもの。もう一つは「渦中にいなければ感じ得ないこともある」という、同じ目線で若さを描くもの。青春から遠のくほど「等身大」からは離れるわけですが、米澤穂信は後者の青春を描かせたら右に出る者なし、とずっと思っていました。本書はその集大成。若さ特有の「痛々しいオーラ」が横溢する、紛れもなく「現在進行形の」青春小説です。』
あぁ、まさしくそうだ。そうだというのは、ぼくはこの作品のキーワードにしたかったのは「等身大」という言葉だった。


読み終わっているけれどレビューを(大好きな作品がゆえに)書きあぐねている作品に、ネオ・ハードボイルドの代表作といわれる「A型の女」(マイクル・Z・リューイン)とそれに続く「死の演出者」という作品がある。過去のレビューで何度も触れているが、ぼくにとって「ネオ・ハードボイルド」というジャンルはとても好きな小説ジャンルのひとつである。ぼくなりにそれを一言で言い表せば(ほかに誰も言ってくれないのだが)「ネオ・ハードボイルドとは等身大の主人公が演じる物語」ということになる。
この作品と同じ作家の書いた「犬はどこだ」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/19638588.html ]、
あるいは愛して止まない作家、東直己の「英雄先生」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/31321595.html ]のレビューでも、簡単にネオ・ハードボイルドというものについては触れてきた。地に足のついた「等身大」の主人公の物語。ここで使う「等身大」という言葉は、悪い言い方をすれば「何もできない卑小なひとりの人間」と置き換えることも可能だ。小説という想像世界を楽しむにおいて、何もすき好んで実際の自分と同じ、何もできない主人公に同化する必要もないだろうと言われてしまえばそれまでなのだが、おそらくいわゆる世間一般的に大人の男といわれる人たちは(その中身を問わず)こういう小説に弱い。会社社会のなかで、現実世界の狭間で、もがくように生きている男たちにとって、自分と同じような「等身大」の主人公が地道に物語を紡ぐこのスタイルはまさに自分を投影する影のように心に響くものがあるのだと思う。


さてこの作品、「痛い青春小説」と評されている例が多く、あたかも「青春小説」が本質のように捉えられているが、ぼくとしてはこれは「青春小説」よりは「ネオ・ハードボイルド」の系譜のひとつと考えるほうがぴったり来ると思う。いやもちろん「青春小説」であることを否定するわけではない。物語の構造を捉えれば、「現実」の自分の世界とちょっと違ったパラレルワールドに飛び込んだ主人公の物語。SFとも、あるいは構築された異世界という意味でファンタジーとも言える。また主人公が別世界を「旅」するという意味では「貴種流離譚」ともいえなくもない。少しネタバレで言うならば「生きて帰りし物語」の構造も持つ。また「もし」という仮定物語、いわゆる「IFモノ」。そして、明確なかたちでの表現はないものの、旅を通し何らかの成長を得ている(はず)という点ではもちろん「青春小説」でもある。
そのなかでぼくがこの救いのない物語をどう楽しんだかと言えば、「何もできない卑小な自分」をとことんまで意識させられたという意味での、ネオ・ハードボイルドである。いやネオ・ハードボイルドは決して「卑小な物語」ではない、あくまでも「等身大」の主人公の姿を描いたという部分を評価したい。生きていればきっと希望がある。そう言うことはとてもたやすい。しかし現実は「希望」を唱えるだけでは済まない世界、希望が見えない現実に溢れている。そんななかで地道に生きることを余儀なくさせられていた主人公が、「生きていることの意味」を見失いかねないほどの厳しい「現実」に直面する物語。
物語として作品の最後のまとめ方については、ぼくも大いに疑問を持つ。それが「青春小説」ならば、とくにそうだろう。しかしぼくが作品として評価するのは、最後のまとめをほとんど問題にしない、自問を繰り返すかのように綴られる主人公のモノローグによる物語過程なのだ。
主人公が紛れ込んだもうひとつの世界は、生まれていなかったはずの「姉」が生まれ、生き、暮らし、その代わりに自分が生まれていない、自分が存在していない世界だった。ふたつの異なる世界ではあるが、同じ家庭環境で育ったはずなのだが、消極的で、諦念しすべてを受け入れながら、しかし生活に不満を覚える主人公の性格とまったく異なり、「姉」の性格は明るく、積極的で面倒見がよかった。そして主人公の暮らしていた世界で同じように起こった事件も、性格の異なる姉の対処した結果は、主人公の世界で主人公が対処し、悲劇で終わらせてしまったことを、対照的なまでに良い結果に結びつかせていた。これでもかこれでもかと見せつけられる主人公の無力さ。そしてこの世界では、主人公の世界で死んでしまっていた恋人さえ、その性格を変え生きていた。そして最後に最大の悲劇が待ちうける。主人公が心から惹かれ愛していたと信じていた、その恋人への愛の本当の姿があらわにされるのだ。徹底的に、完膚なまでに主人公を自己否定に追い込むパラレルワールドでの現実。そしてまた突然放り出されるようにもとの世界に戻る主人公。最後に残ったふたつの選択肢を選びあぐねる主人公のもとに届く、母親からのメールが語る言葉が追い討ちをかける。


基本的に、明るく、勢いのある物語が好きなぼくであるが、ネオ・ハードボイルドの虚無感漂う世界に惹かれずにはおれない部分も持つ。最後に、救いや希望を望む声は勿論、至極理解できる。しかし、ぼくはこの作品の魅力、いやネオ・ハードボイルドの魅力とは、決して現実というものには、調子のよいお手軽な希望や救いがないことを噛み締め、その苦味を味わうことにあるのだと思う。
ときに人は現実世界の重圧のなかで、なぜ自分は生きているのだろうか、生きる意味はあるのだろうかと自問するときがある。希望や未来を持ち、明るくふるまうための、その心の糧を得る読書もあれば、一方この作品のように、おのれの無力さを噛み締める読書もあるのではないだろうか。
多くの読書人がこの作品を人には薦められないといいつつも、傑作と評価しないではおれないことがこの作品の価値を証明しているとぼくは思う。


つまりそういう価値でこの作品を判断するべきで、ぼくは他の読書人と違い、この作品をまさにネオ・ハードボイルドの作品として多くの人に強く薦めたい。誰もが自分の無力さを感じ、自分の存在意義を疑い生きている。自分を無にすることもひとつの選択肢であろうが、それでも人は生きていかなければいけない、そういうことを噛み締めて生きていくことも人なのである。もしかしたら、そうした人生のなかでもなにか楽しいことや素敵なことがあるかもしれないし、あるいはないのかもしれない。しかし、それが現実なのだ。


突然もうひとつの、自分の現実に似た別の世界に投げ込まれ、そこでとことん自分の存在意義を否定され、また放り出されるようにもとの世界に戻される。この不思議な現象の意味、そしてそれが起こる理由、それらはこの物語にはいっさい書かれていない。そういうところが気になるひともいるだろう。しかしぼくは、これもまた最近読んだ「鴨川ホルモーhttp://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/42521938.html 同様で、敢えて解決される必要のない「設定」に過ぎないと思う。


米澤穂信という作家は最近よく名前を見かける名前の作家であった。ラノベ出身の作家として読まず嫌いで過ごしてきたが、ネットでの取り上げられ方がどうにも気になり、先にあげた「犬はどこだ」を読んだ。まったく期待しないところで好みの作品に出会い、ネオ・ハードボイルドに通じる作風を評価し、続いて「「クドリャフカの順番 -「十文字事件」-」に進み、少しがっかり。こちらは青春本格ミステリーといえる系譜か。まだレビューを書いてないが「春期限定いちごタルト事件」も最近読んでみたが、これも青春本格ミステリーの系譜だろうか。どうもこの「本格」というジャンルが、個人的にはあまり馴染めない。こさかしい主人公が推理を弄ぶだけにしか思えないところがありあまり買えないのだが、米澤穂信はどうやら「青春本格ミステリー」と「ネオ・ハードボイルド」のふたつの作風を持つ作家のように思えてきた。もっとも他の方のレビューを読むと、この作品は米沢穂信の作品としてはかなり異色なもののようなので、間違っているかもしれない。しかし個人的には「犬はどこだ」に連なるこのネオ・ハードボイルドの作風の作品を評価し、この作家には今後もこの作風の作品を期待したい。昔からのファンはがっかりするかもしれないが・・。


追記:敢えて誤解されることを恐れずに付け加えたい。ネットで交流させていただいている、ひねもじら乃太郎さんがそのブログ「ぶっきLibrary・・」の2006/11/11の記事で「“いじめ自殺”を考えてみた」という記事を掲載されていた。
そのなかで乃太郎さんは『でも、わたしは自殺ということがよく理解できない。何となく感じるのは、他人が応援/支援できるのは、最低限「苦しいけど、生き抜きたい」という意欲や希望を持っている人たちだろう、ということ。』と述べていた。
この記事にぼくも自分が書いた「温室デイズ」(瀬尾まいこ)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/42459222.html ]のレビューをTBしたのだが、自殺を選択する人の気持ちをぼくは理解できない。頭でそこに至る事情を認識することは可能だが、自殺という結論を選択することを同意はしない。もっと考えて欲しいのだ。
ボトルネック」のネットでの感想を見ると「これを読んだ青少年への影響が心配だ」という感想を多く見かけた。だからこそ青少年には、あるいはこどもには読んで欲しくない。ぼくは思うのだが、この主人公は絶対自殺を選ばない。踏みにじられようが、どうしようがしぶとく生きる。そう思う。だからこそ、逆にそのしぶとさを読み取ってほしい。
個人的に、ある時期、真剣に自殺、それは自分を殺すことでなく、自分の存在をこの世から消すことた考えた時期がある。その時期にあったネガティブな要因をすべて解消したあと、これ以上「生きる意味」を見出しかねた時期がある。いや、決して今だって自分の「生きる意味」があるとは思っていない。自分が今急にこの場からいなくなっても、大きい意味で世間は変わりなく支障なく運営される。それなら、ぼくは自分を消していいのだろうか。
生きることの意味なんて、だれも分からない。しかし、それでも生きるしかないと思うのだ。その部分を「ネオ・ハードボイルド」という言葉を不用意に使ったため、混乱をきたした部分もあったようだが、ひとは簡単に自殺を選んではいけないのだ。
この作品を読み、影響を受け自殺するような輩をぼくは悼みはしない。生きることに苦労しながら、それは前向きでなくてもいい、とにかく生きていく人には、ぼくも乃太郎さんのように応援したい。
ネットで仲間を募り、流行のように死を選ぶ人がたくさんいる。生きていればいいことはあるなんて、簡単に言うつもりはない。しかしそれでも、生きろ、苦しくても生きろ、それしかぼくは言えない。(2006.Dec.10追記)