A型の女

snowkids992006-12-12

A型の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

A型の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

「A型の女」マイクル・Z・リューイン(1991)☆☆☆☆☆
※[933]、海外、現代、小説、ミステリー、ネオ・ハードボイルド、探偵


あの読者を虚空に放り出すようなラストを見せた「豹の呼ぶ声」から十数年を経てアルバート・サムスンが帰ってきた。「A型の女」から始まる探偵アルバート・サムスンのシリーズ。ネオ・ハードボイルドの代表作と言われ、「豹の呼ぶ声」の唖然とするようなラストでシリーズを終えたと思い込んでいたアルバート・サムスンが「眼を開く」で帰ってきた。青春の書としてのこのシリーズの最新作を読むために、ぼくはシリーズを再読することを決めた。何回目の再読。何年ぶりだろう。


好きな本を一冊あげろと言われれば、まず間違いなくあげる一冊。それがこの「A型の女」。高校時代、ハヤカワ・ミステリ文庫で改訳が発売されたのがこの作品の出会い。実はポケミスがオリジナルらしいが、高校生のぼくが出会ったのはちょっととぼけたイラストの表紙。しかしそのイラストと違い、中身はとてもビターな作品であった。


ネオ・ハードボイルドという言葉を知ったのは、この文庫の池上冬樹氏の解説からなのだろう。氏の解説では「正統派ハードボイルドを継承しようと続々と生まれた」「しかし、きわだった一派を形成しているわけでなく」「いくつかの傾向が指摘できる」作品。それは「ヴェトナム戦争、もしくは戦争後の疲弊した時代の空気を反映して、精神的肉体的にハンディキャップを持つアンチ・ヒーローが多く排出された」と述べられている。ぼくが拙く氏の解説を抜粋するより、本書を手にとって実際に読んでいただきたい。素敵で素晴らしい解説。解説、かくあるべし。そしてこの作品とこの解説との出会いが、ぼくとネオ・ハードボイルドとの長いつきあいの原点。
池上氏の解説では「ハンディキャップを持つ」とあるが、実際にこの作品の主人公である探偵アルバート・サムスンが、いわゆるハンディキャップを持つとはちょっと言えにくい。しかし多くのネオ・ハードボイルドを扱う論評のなかで、その代表作としてこのアルバート・サムスンのシリーズをあげるものが多い。そうしたなかでぼくもこの作品をその代表とし、あるいはぼくが今までに読んできた自分なりにこのジャンルに当て嵌まる作品を通し、ネオ・ハードボイルドというものを自分なりに解釈し、説明する言葉として「等身大の主人公によるハードボイルド作品」という言葉を使ってきた。それまでのタフネス、マッチョな厚いステーキ肉をコーヒーで飲み流し、強いアルコールを好むようなハードボイルドの主人公に対して、ネオ・ハードボイルドの主人公はその辺にいる普通の市井の人間であり、殴られれば傷つき、痛みは勿論後日まで響く、あるいは暴力を厭い、この作品では拳銃を怖がる、あるいは日本の作品ではダイエーで生活衣料品を買い、生活費を心配する。地に足の着いた等身大の主人公による物語、そう語ってきた。悪い言い方をすれば「等身大」とは「卑小な無力なたったひとりの人間」と言い換えてもよいのかもしれない。小説の主人公たる彼らはそのまま読者である我々自身に重なる。現実の重圧、社会の狭間で、もがくように生きる読者である我々は、己の無力さを痛感しつつ、自己否定と自己の存在の意義に疑問を投げかけながら生きている。小説のなかの主人公も、同じように自己の行なう行動に疑問を抱きながら、しかし自分なりの自負を持ち行動する。その結果は必ずしも満足のいくような結果ではなく、自分も含め、だれかに幸せをもたらすようなものではないかもしれない。いやその行動は不幸を招くこともある。行なったことが必ずしも報われるわけでない。しかし自分が行なうことには自分なりの責任と自負を持ち行動できること、それを行動の唯一の代償とし行動する主人公たち。「男の誇り」とか「男のプライド」だとかで表現するとちょっと大袈裟な気がする、慎ましく矜持を保ち生きていくこと、それがこのジャンルのぼくなりの解釈である。
ボトルネック」(米澤穂信)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/42795008.html ]という作品を、今回「A型の女」「死の演出者」に続いて読んだ。「この本はかなり苦い本なので、体調のよいとき読むべき」だとか、「主人公をここまでとことん追い詰める必要はなかったのではないか」というネットの意見を多く見かけた。ところがぼくにはこの作品がまさにネオ・ハードボイルドの一冊であり、ここまで主人公を追い詰めてしまっても、そこに連なる系譜とすれば全然問題ないように思われた。ネットの感想の多くは「ボトルネック」を傑作としつつも、この追い詰め方はどうなのだろうという感想が多かった。
しかし「A型の女」にはじまるアルバート・サムスンをぼくが傑作と呼ぶ大きな理由は、もちろんこの一冊が素晴らしいこともあるが、このシリーズが「豹の呼ぶ声」という作品をもって、一度シリーズを終えた(かのように見えた)ことにあった。冒頭に読者を虚空に放り出すと述べた、唖然とするようなラストと述べた。そう、まさにその通り。主人公のサムスンは虚空に投げ出され、そして読者たる我々も投げ出されるのだ。それはまさに「ボトルネック」の主人公と同じ、いやそれ以上の衝撃だった。まさに「主人公をここまで追い詰める必要があったのか」だ。しかしその衝撃が収まると、心にはじわじわとこの作品の持つ悲哀、苦味が心の中に醸し出され、やはりこの作品の味わいはこういうところにあったのだと思えてならなかった。
話は前後するが、ぼくの青春の書のひとつに「はみだしっこ」(三原順)という少女マンガのシリーズがある。正直、お目々キラキラの絵柄(後年はかなり変化するが、それでもまつげが長い)にはじめのうちは辟易していたのだが、慣れてしまえばそのくどいまでの描き込みに魅了され、いやこの場合、絵柄は問題ではない。問題はその物語にあった。親に疎まれ、家をそれぞれ飛び出した四人のこどもが、寄り添い合い、あるいはときに反撥しながら進む物語。最後は四人揃って養家に迎え入れられるが、そのラストはとても衝撃的なものであった。これもまさに放り出されるラスト。「はみだしっこ」をネオ・ハードボイルドと位置づけていいかどうかは自分でもちょっと疑問なのだが、ある意味、あるがままの現実を受け入れる姿勢はネオ・ハードボイルドであったといえるのかもしれない。


ボトルネック」をとりまくネットでの論評のなかで、「純文学」との比較がでてきた。同じように「自己否定、自己の存在の意義」を語るという意味で、「純文学」ならよかったのにという言葉。しかしぼくはこのふたつは同じように見えながら違うものだと思う。ネオ・ハードボイルドでは自己否定に繋がる自己の存在意義の疑問について、主人公は苦々しくは思うものの受容することから物語が始まるのだと思う。対して「純文学」はそれを掘り下げることを旨としているではないだろうか。「純文学」は「なぜ」「どうして」「意味はあるのか?」と問いかけ、その回答を見つけようとするものであるのに対し、ネオ・ハードボイルドのそれは、それはそれとしてまず受け入れ、そして物語自身は苦い現実を噛み締めて生きてい姿を描くものではないだろうか。
ネットで交流させていただいている方から投げかけられた疑問に対して、これが回答になるかどうかわからない。しかし現時点でぼくはネオ・ハードボイルドをこう位置づけておき、またこれからもこの言葉の意味を模索していきたい。そしてぼくはこれらの作品が、主人公をとことんまで追い詰め、放り出しても、このしぶとく自負と矜持を持ち生きる主人公たちを信じ、このジャンルの小説を大好きだと言いたい。あくまでも個人的な解釈であり、好みの問題であるのだが。
いやさらに「そうではない。ネオ・ハードボイルドとはこういうものだ」という意見があればぜひ知りたい。かくもぼくを捕らえて話さないネオ・ハードボイルドとはいったい何なのだろうか?


さて「A型の女」のレビューではなく、ぼくのネオ・ハードボイルド論のような有様となってしまったが、残る文字数を少しだけ本書について語ることとしたい。


「昼食後に最大の決断が待っていた――オフィスで読書するか、居間にのこって読書すか、についての。」この有名な一文で始まる物語。
アルバート・サムスンインディアナ・ポリスのビルに住居と事務所を兼ね、探偵事務所を開設していた。となりのオフィスはすでに三年も空き部屋だ。1970年の10月、彼が私立探偵を開業して以来、時間が経つのがもっとも遅い月だった。そんな彼のもとにひとりの少女が現れ、「わたしの生物学上の父親を探して欲しい」と依頼してきた。
少女の名前はエロイーズ・クリスタル、年齢は16歳。学校の生物の授業を受けて、血液型B型の父親リアンダー・クリスタルとO型の母親フラー・グレアム・クリスタルから、A型の娘エロイーズが生まれるわけがないことを知った。そして100ドル札をサムスンに手渡し、去っていく。
エロイーズの依頼を引き受けるかどうか躊躇しつつ、しかしサムスンは情報源のひとつである<インディアナポリス・スター>紙日曜版の編集長モード・シモンズに電話をし、クリスタル家についての情報を入手し、さらに図書館で新聞のマイクロ・フィルムを調べることにした。その結果、エロイーズの祖父が今はなき富豪であり、この街の名士であったエスタス・グレアムであり、またエロイーズの両親の結婚とエロイーズが生まれたころの彼らの行動を知ることになる。十六年前、エロイーズはインディアナポリスでなく、ニューヨークで生まれた。そしてエロイーズは半月ではあるが年齢を誤魔化していたことも知る。彼女は16歳ではなく、まだ15歳だったのだ。
知り合いの弁護士に相談した結果、未成年の依頼に応えるリスクは、支払いを拒否された場合、要求することを法律的手段がないこと、またその依頼者が女性であり、きみからおかしなことをされたと訴えられた場合、罪を着せようとした場合だと言われる。
再び現れたエロイーズにサムスンは説く。この問題は解決しようと思っても、解決できると断言できる問題でない。かなり金もかかるが、結論がでないかもしれない。また大きな探偵事務所のほうがうまくいく。しかしエロイーズは、お金はつかい道のないおじいさんの残した信託基金があり、大きな探偵事務所では相手にされなかったと答えた。結果、サムスンは依頼をひきうけることになった。
地道に調査を開始したサムスンは、この調査にどうにも腑に落ちない点がいくつも見受けられることに気づく。そしてリアンダー・クリスタルの持つ秘密の事務所を捜し当て、不法侵入をし資料を写真に撮っているところを警察に逮捕される。高校時代の友人であり部長刑事のジェリー・ミラーを頼ったが、その日の留置場担当部長刑事は機嫌が悪かったのか、その夜釈放されることはなかった。
エロイーズの出生の秘密を語り、大金を提示し、調査から手をひくようにサムスンに話をするリアンダー。その横ではこの調査にためにサムスンが留置場にいれられたことに驚き、責任を感じるエロイーズ。真相を知りたくないかと尋ねるサムスンに対し、エロイーズはこれは家庭の問題で、父リアンダーが差し出す大金を手に取り調査をやめることを依頼する。
しかしサムスンは調査をやめることができなかった。そして辿り着く真実。その結果は悲劇を呼んだ。入院3ケ月の重症を負うサムスン。彼の行動はいったいなんであったのだろう。
そしてエロイーズは16歳の誕生日を迎えていた。


とりあえずはあらすじを追うだけで精一杯。またいつか再読した(するはず)際に、作品のレビューを書いてみたい。客観的には、サムスンがしなくてもよいおせっかいが起こす悲劇なのかもしれない。しかしこの作品は、この苦味が魅力なのだ。


蛇足:ネオ・ハードボイルドには「等身大の主人公」のほかに、「等身大の事件」という言葉もキーワードに付け加えておく。