女信長

女信長

女信長

「女信長」佐藤賢一(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、小説、中世、歴史、if、織田信長明智光秀、男女


織田信長は女だった だからこそ、時代の最先端をいき、歴史はかくの如く動いたのだ』
『鬼才が、空前絶後の大胆な発想で、史実のなかに「生身の信長」を描ききった傑作戦国小説』
『守るべきものがある。男は責任を取らなければならない。そんな大層な理屈を捏ねておきながら。道々で他人の田を焼き、家々に押し込んで根こそぎ金目のものを盗み、あげくが女という女を犯して省みようともしない。暴れに暴れて、それは日頃の憂さ晴らしということか。
「ふざけるな」
ふざけるな。ふざけるな。男に戦をさせると、これだ。泰平の世を拓くことなど誰も考えていないのだ。もう御長は怒りのままに奔らないではいられなかった。------(本文より)』
『----------信長は「天才」ではない。普通の人間、そして女だ』(すべて帯より)


天下統一を成し遂げた織田信長は、実は女であった。大胆な発想で描いた歴史物語。本書をまとめるとこうなり、そしてそれはまた冒頭にあげた帯に書いてある通りとなろう。
もしも信長が女であったならば、史実の解読はこのように納得のいくものだったとする物語なのかもしれない。しかし勉強不足で、史実に詳しくないぼくはそこのところにおもしろさがいまひとつ理解できず、ただひたすら500ページという長い歴史物語を読みきったにすぎない。そして、とにかく困惑した。佐藤賢一、混乱したか?
数多くは読んではいないものの、佐藤賢一作品の魅力は歴史物語のなかで、ある人物を浮き上がらせ、その人物の魅力を描ききることにあったと思う。しかし作品は果たしてどうなのだろう。


父信秀の命により、女性でありながら家督を継ぐ身、嫡男として育ち生きてきた信長。その女としての名は御長(おちょう)であったが、そのことを知るものは少ない。父は世継ぎとしての信長を得たあとも、さらに男の子を幾人か設けた。しかし家督は信長に譲ることを決めた。「父親の志を継げるのは息子でなく、本当は女のほうなのだ」口癖にように言っていた。そしてまた信長も父の遺言を噛み締めるように、尾張の大うつけものを演じながら織田家を継ぐ。
物語はその織田家を継いだばかりの若き織田信長に対し、娘、帰蝶(御濃)を嫁がせながらも、隙あらば倒すことをも考える、美濃の蝮こと斉藤道三と出会うところから始まる。会見の席で道三はその眼力で信長が女であることを見破り、あろうことか信長を手篭めにし破瓜をさせる。初めて女となる信長。
信長が女であることを理由に、織田を攻め入る根拠はできた。しかし道三はそうはせず、信長の語る「男の発想」と異なる「女の発想」をおもしろがり、後ろ盾になることを決める。かくて信長の時代が始まる。


物語はこの後、信長が「女」を武器に有力武将を引き抜いたり、あるいは「女」であればこその自由な発想、勝ち負けではない正しいことを、天下の泰平をのみ願い行動ができることを武器に、「女」あるいはそれの対比としての「男」(の愚かさ)を書き連ね、物語を進める。
信長が非力の「女」であればこそ、力を誇示することに執着する「男」と異なり合理的な南蛮銃を早くから導入する。勝ち負けに拘る「男の名誉」ではなく、正しい「世の泰平」を願えばこそ西洋式の軍の考えを取り入れる。あるいは国を発展させる「楽市楽座」をとりいれる。種々のエピソードが「女」信長であればこそと、明快に解説される。そしてその自由奔放な発想がゆえに、独自に南蛮文化を勉強してきた明智光秀という知将を得ることができたとも書く。
しかし一方、いわゆる「女」である信長は、若い恋人、浅井長政に屈辱的に身体を任せ、その狂態のなかに女の悦びを見せる。あるいは、男の体面など一切気にしないことが原因なのだろうか、まったく人望がないとも書かれる。また体力の衰えに早い女がゆえに疲れやすく癇癪もちになってしまう。あるいは刹那、感情的になる。
確かにこう書いてみると、長所、短所の両面が多々描かれ、「人間」織田信長が描かれているような気がしないでもない。しかしその実、作品は「信長」の長所、短所というより「女」だから、「男」と違う、その部分ばかり強調していく。織田信長という「ひとりの人間」を描いた作品というより、織田信長という「ひとりの女」を、「女」がゆえにこうであったという作品となってしまっている。
当たり前なのかもしれない。本書は「織田信長は実は『女』だった」の作品であるのだから。
その観点はおもしろい。しかしぼくは「女」であったということはひとつのif(設定)だけであり、もっと「女」信長を「女」ではなく「人間」として描くべきだったのではなかったかと思う。たとえそれが「女」故の発想なのだとしても、ここまで「女」と「男」を比較して書く必要はあったのだろうか。
あるいはこの作品で書かれる「女」と「男」は、それぞれあまりに凝り固まりすぎた固定概念なのではないだろうか。現代という男女の性差さえ個性の多様のひとつと捕らえられるいまこの時代に発表される作品として、「男」「女」を凝り固め、解釈することはいかがかなものか。作家はわかりやすくするために男女それぞれの性格を極端なまでに類型化させたが、それが逆に己の作った類型という枠に囚われすぎてしまったのではないか。
それを証明するかのように本書の明智光秀はとても魅力的であった。彼は男であっても、この作品のなかでは「男」に捕らわれていない描かれ方がされている。有用であると理解したからこそ、南蛮文化について早くから独自に勉強をしてきた。発想のポイントは違えど、結果として女の非力ゆえにそれを早くから取り入れようとした信長と同じ結論に辿り着く光秀。しかし光秀は男であったが、男の体面にとらわれない「人間」として、本当の天下を見通す力があった稀有な存在として描かれる。ならばこそ信長の知将として召し上げられていく。こうした光秀の「人間」を作品は描いていればこそ、物語を通し、光秀はとても魅力的であり、物語の最後には結局、主人公である信長を食ってしまう。おそらく多くの読者はこの食えない知将、逆臣を演じ、遠く天下を見つめる金柑頭である光秀のやさしさと人間をして、最後にはもしかしてこの作品の主人公は女信長でなく、実は光秀であったのではないかと思うかもしれない。
対してこの作品では信長の「人間」をすべてが「女」であることを前提、根拠にしてしまったように感じられた。それは信長を「女」という枠に嵌めてしまい、結果的にそれ以上に「人間」を感じさせないものとなった。まさに「人間」としての信長ではない「女」信長。確かに上り詰めるまでは「女」は作品のなかでプラスに働いていたのかもしれない。男が拘る古臭いものに捕らわれず、自由に、奔放に行動する女信長。しかしそれでも信長の「女」は決して、普通の「女」ではなかったはず。妻である御濃と、女友達として気軽に語り、あるいはその女を揶揄するようなときも、信長は信長であり、女としての御濃とは決して同じ「女」ではなかった。よほど信長という人間であった。ならば作品はやはり「女」に拘る必要はなかったと思う。年若き恋人、浅井長政に執着するあたりから、作品は「女」に拘りすぎ、おもしろさを失速させていったような気がする。


結局あまりに「女」に拘りすぎていたことが、せっかくの自由な発想のもとにあったこの作品の魅力を失速させ、あるいは辟易させられたように感じる。天命を担ったはずの女信長が、最後に凋落していくさまも、まさに信長が「女」であったからがゆえにと書いたことがこの作品の前半にあった魅力を台無しにしてしまったのだ。信長の凋落は「女」信長でなく、あくまである到達点に達してしまい、追い求めることより、守りの体制に変わった信長のその状況の変化に対する物語であれば、作品のおもしろさもまた変わったと思う。そして「女」信長は、天下統一をまがりなりにも成し遂げた部分までであったのならば、女性解放を謳ったすがすがしい良作であったのではなかったかと思う。
結局これでは「やはり女は駄目だ」の物語に過ぎないのではないか。ならば、これだけの長編を読むことは、ただの徒労に過ぎないのではないか。


本作品自体はそれほど評価しないが、この作家の文章は好きだ。この作家の畳み掛けるようなリズムある文章は、この作品でも健在であった。心の声を「」(かっこ)でくくり表記し、それが発せられた言葉なのか、心中の言葉なのかあいまいにさせ、そして連ねる。読みにくいという声も聞くが、ぼくはこの文章は好きだ。


蛇足;しかし実際それほど執拗でも、あるいは数があるわけでもない性描写が、どうにも気にかかる作品だった。潔いといえば、そうなのかもしれないが、実も蓋もない書きようとでもいうべきか。
そして身体で男を支配できるという発想はどうもいただけないし、また身体で支配される輩もいただけない。そこがどうにも気に入らない。信長が女に生まれ、それがゆえに男では持ち得なかった「女」の発想だけを生かしたほうが作品としてよかったと思うのだが、いかがか?