八月のマルクス

八月のマルクス

八月のマルクス

八月のマルクス (講談社文庫)

八月のマルクス (講談社文庫)

「八月のマルクス」新野剛志(1999)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、ハードボイルド、江戸川乱歩賞受賞


※少しネタバレがあるかもしれません。未読者は注意願います。


この作家の最新作「愛ならどうだ!」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/43271209.html ]を読んだ。決して、悪くはなかったのだが、どうにもこの作家らしくなく思えた。この作家の持ち味とはもっと乾いた、そう、ハードボイルドの苦味という奴にあると思っていた。そこでこの作家の代表作、デビュー作であり江戸川乱歩賞受賞の本作を久しぶりに開いてみた。


この作家、ある日、自分にイヤ気がさし、会社にも、実家にも無断で失踪。そのとき、小説を書こうと思い立ち、終夜営業のファミリーレストランで応募原稿を書き続け、睡眠をとるのは始発電車かカプセルホテルという放浪生活を続け、本作の江戸川乱歩賞受賞で三年半ぶりに実家に帰ったというエピソードを持つ。作品は作品のみで評価すべきだと、常々語るぼくには本当はあまり関係ない話のはずなのだが、どうにもこのエピソードは忘れられない。いや、さきに触れた「愛ならどうだ!」についても、作家の持ち味というものに期待し、それが充たされなかったことに失望するということは、自分があるべきと考える作品の評価の方法からすればおかしいはずなのだ。しかし「おかしい」ことを自覚していても、まったく作家を離れて読んでいない現実を鑑み、敢えてその部分を深く追求しないで本作のレビューを続けたいと思う。自分にとって作品と作家の関係という問題については、いつかどこかで自分なりに考察できればと思うにとどめることとする。


ハードカバーの装丁の、欧米人を思わせる彫の深い男性の写真(イラスト)は、決して本作を伝えてはくれない。この作品はこの表紙の男性が持つ甘さのようなものとは無縁な、乾いた男の物語。だからこの場合、装丁は失敗。さきにあげた「愛はどうだ!」の装丁もなんだかよくなかった。


表紙をめくると、著者近影の裏に「著者の言葉」がある。これがいい。全文を引用したいくらい。一部引用にとどめるが、男とはこういう言葉にくすぐられる生き物なのだろうか。
「格好いい小説を書きたい。それだけを思っていた。 完全無欠のヒーローではない。傷つき悩み、転んでは立ち上がり、ぼろぼろになりながらも前に進もうとする男――― そんな人間を主人公としたハードボイルドが、私の書きたいものだった。 ところで私はテレビでコメディアンを見ると、つい笑顔の裏にある陰の部分を想像してしまう。彼らは傷を負い、悩みながらもひた隠し、ちりぢりの心で客を笑わせているのではないか。(中略) この作品は、自分自身ではっきり好きだと言える初めての小説である。(中略) 私はこれからも小説を書き続けていく。書きたいものは、やはり格好いい小説だ(後略)」
この「著者の言葉」が最初に触れたこの作家の失踪のエピソードと呼応する。この作品はまさにこの作家の想い、生き方に重なる苦い物語。完全無欠ではない主人公。それは最近ぼくが触れてきたネオ・ハードボイルドの主人公に重なるようだが、しかしこの作品はやはりまごうことなくハードボイルドなのだと思う。その違いは?と問われれば、明確には答えられない。強いて言葉を選べば、やせ我慢の度合いの違い。この言葉で伝えられるだろうか。


もと売れっ子お笑いコンビ「セロリジャム」の片割れだった私、笠原雄二は、五年前、覚えのないレイプ・スキャンダルで芸能界を引退した。鎌田和美というその少女はたしかに私のマンションの部屋のしつこく訪ねてきていた。しかし、彼女を家に入れた覚えはないし、あまりのしつこさは私の限界を越えさせ、最後には私の部屋の前で激しい口論となったほどだ。そんな彼女が、私にレイプされたという記事が週刊誌に載った。事実無根のでっちあげ、それで済むはずだった。しかし私の部屋にあがったこともない彼女が週刊誌に話した、公表されたことのない私の部屋のレイアウトはほぼ正しかった。このことをきっかけに、もともと態度のよくないことを売り物にしていたセロリジャムのパッシングが始まった。そしてその渦中に、私の起こした事件の責任をとると遺書を残し、母親が自殺した。母の死がきっかけだったのだろうか、新しい証言も飛び出し、事件はファンによる狂言自殺ということで収束していった。芸能界入りしてから家族と反りの合わなかった私について、会えば露骨にため息をついていた母は、どのように思い、そして死んでいったのであろう。そして私は母の自殺のニュースを知りつつも私にすぐ伝えず隠していたプロダクションにも嫌気がさし、すべてを棄てた。
そんな私の前に、下北沢の住宅街に位置する私の行きつけのバー「ホメロス」に元相方の立川誠が五年ぶりに現れた。今日は酔うぞと宣言した彼は、言葉通り酔いつぶれ、そして私の部屋でひとつの告白をしていった。「癌だ」。もはや治る見込みのない癌にかかっていること、そして週刊誌にスクープされた同じプロダクションの女性タレントとの仲と、彼女のために残りの時間生きることを語り、私の部屋を去っていった。
翌日、私の部屋に刑事が現れた。五年前の私の事件をスクープした記者が殺されたという。しかし私は記事を書いた人間が誰だったのかも知らないのだ。私のアリバイは元相方の立川が証明してくれる。刑事の質問にそう答える私であった。
自分のアリバイを確かめるために、プロダクションの昔なじみのスタッフに電話をいれた私は、高木が行方不明であることを知った。立川はどこにいったのか。
そんな私の前に現れる市瀬を名乗るフリーライター。立川から秘密裏にゴーストライターを雇われたという彼女は、高木がなにかプロダクションについての暴露本を出版しようとしていたと私に語った。


失踪した元相方、立川の行方を捜す私。そして立川の部屋で見つけたゴミ袋から辿り着いたプロダクションの起こしていた不正事件。しかしそれさえも事件の一端に過ぎなかった。
最後に辿り着いた驚くべき真相。それは五年前の私の事件にも繋がる事件だったのだ。


古い作品である。そして、たとえばアマゾンのようなネットの評を見ると、決して評価の高くない作品らしい。しかしぼくはこの作品をいまさらながら高く評価したい。人物の心の動きの描写を最小に抑えていながら、しかしその焦りのような想いは、少なくともぼくには伝わる。ぼくは思うのだが、男性の、あるいはハードボイルドの文体というものは、決して主人公の心の動きを直接そのまま書くものではないのだ。それらは行動、あるいは事物の描写を通し描くものであると思う。読者は最小限の描写のなかで、主人公に同化し、主人公の想いに自らの心を重ねる。それがぼくには、あるいは男性読者には心地よいものであると思うのだ。ときにぼくが女性作家を苦手だと思うのは、主人公の思いを饒舌に書きすぎるから。心を重ねる以前にうるさく感じてしまうのだ。
そういう意味で、説明不足を欠点とするこの作品への評に対して、ぼくはこの最小限の行動描写の積み重ね、無意味なシニカルな主人公の言葉に映る想いに、心惹かれ、評価したい。ぞくぞくするぜ。
事件の真相、その裏側には、芸能界という華やかなスポットライトの影にいる、いつかスポットライトを浴びようとする下積みの若いコメディアンの姿があった。あるいは、まだ無名の才能があるのかないのかも不明な彼らを支える、やはり若いファンたちの姿。丁度、若手のお笑いブーム再来している現在であるが、彼らの姿は決して昔もいまも変わるものではないだろう。事件のきっかけは、ほんの些細なものであった。売れない若手タレントの芸名にまつわる些細な出来事から始まっていた事件。それが「些細」であるがゆえに、逆に現実はそんなものなのかもしれないと思わせられる。無知なる若さというのは、ときに本当に残酷なものであるのだ。正義の鉄槌を下ろすことしか考えられない無邪気さ、あるいは思慮のなさ。しかし、その素朴ともいえる事件は、緻密に計算された見事なミステリーがあまりに出来すぎているため、逆に「お話」でしかないことに対して、決してありえないことではないと思わせるリアリティーを生んでいたと思う。
もちろんこの作品に欠点がないとは言えない。リアリティーがあると述べた事件の真相に対して、立川の失踪や記者の殺害事件の真相などが小説としてありがちなものに過ぎない部分など、決して満点ではない。
しかしありがちのラストなのかもしれないが(いや、確かにありがちなラストだ)物語の最後の、主人公と元恋人のやり直しを予感させるエピソードをも含み、男のドラマを堪能できた、そんな気がする。


蛇足:しかし文庫本の表紙もどうなのだ?たしかに寝癖頭がトレードマークなのだが・・。