空飛ぶタイヤ

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空飛ぶタイヤ池井戸潤(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、企業小説、三菱ふそう、リコール、大企業、ブランド、財閥、トラック、ハブ


タイミングというものは確かにある。この作品を丁度読了した2007年1月17日の朝、ふたつの新聞記事が眼に留まった。「第136回直木賞受賞作なし」「三菱ふそう、リコールでの交換用ハブもリコールへ」。本作品はまさに、この数年前におきたトラックハブの不良により起きた横浜市の母子殺傷事件をきっかけとした、ある大手自動車メーカーの企業体質の問題をテーマにした作品であり、かつ受賞作の決まらなかった第136回直木賞の候補作であった。もし今朝報じられたこの再度のハブ不良のニュースが、直木賞選考前に報じられたとしても、この作品は直木賞を受賞しなかったのだろうか。
以前から述べているが、ぼくは他の本読み人ほど直木賞というものに、いや世間一般的な文学賞というものに重きを置いているわけではない。本を選ぶ際のひとつの指標に使わせてもらっているだけだ。実際、直木賞の時期になるとお祭りよろしくわいわい楽しく話題にする多くの読書ブロガーの方と比べると、その扱いは違う(と思う)。とくに今回の直木賞受賞作なしは、候補作が発表された時点でかなり疑問を持っっていたが、結局受賞作なしは政治的配慮かと思うほどで、だったらあんな大家をいまさら候補にしなきゃいいのに、と思うほどであった。いやこれは横道に逸れている。
この作品は、もし今朝のニュースが先にあったら、直木賞を受賞していたのではないだろうか、そう思わせるほど、素直でそして今となっては時流にあった力作であった。


素直な力作。まさにその言葉がふさわしい作品。本作のオビには「小説好き諸君!たまには直球の起業小説、読んでみてくれ。」の言葉が踊る。まさしくその言葉どおりの直球の小説。そこには「小説」にありがちなかけひきや仕掛けをない。ただ渾身の力を込めた直球のような、素朴で、しかしそれがゆえに真の力に満ちた作品があった。しかし正直、あまりに直球すぎる作品ということは否めない。主観的には高い評価をするものの、客観的には☆ひとつ落とすくらいの評価が妥当だろうか。それでも、ぜひ読んでほしいオススメの一冊に変わりはない。


物語はあるひとりの女性、それは幼い子の母であり、そしてふつうのサラリーマンの妻である女性の突然の死に対し、夫が呼びかける場面からはじまる。
「君は−」そう呼びかける場面から。
大井町線等々力駅から徒歩十分のところにある赤松運送。父親から継いだ二代目社長赤松徳郎が菊名で行なわれた通夜から帰ってきた。赤松運送のトレーラーが、ひとりの主婦を殺害した。大手自動車メーカー、ホープ自動車のトレーラーから突然タイヤが脱落し、幼い子供を連れで歩いていた主婦を直撃したのだ。柚木妙子、被害者であるその主婦は即死であった。
赤松運送はトラック80台、年商七億、従業員90名の中小運送会社。警察では繰り返し「整備不良」を問われた。赤松は「整備不良」について警察では否定しながらも迷いがあった。整備した従業員に自信がもてなかったのだ。門田というその整備士は、まさにいまどきの若者。事務室に呼んだ門田の姿は、以前注意した金髪を直すことなく、耳にピアスをして、赤いメッシュまでいれていた。赤松の質問と叱責に、デスクを蹴り、飛び出す門田。しかし赤松は思い違いをしていた。数日後、赤松のもとに門田の残した整備手帳が手渡された。そこにあったのは門田自作の点検シートであった。法律で定められた点検項目よりさらに詳しく、厳しい内容であった。仕事で勝負しろ、常々従業員にそう言っていたはずなのに、仕事を見てなかったのは俺だった。飛び出したまま出社しない門田に謝りに行く赤松。不在の門田の家で、おなかの膨らんだ若い女性と出会い、門田がいかに赤松と会社を愛していたかを知った。門田の、いや従業員すべての家族をも含めて守ってこその社長だ。赤松はそう己を戒めるのだった。
「整備不良」を疑われ、刑事事件の容疑者とされた赤松運送を巡り、さまざまな問題が噴出する。得意先の大手のメーカーから取引の停止を通告された。運転資金の融資をめぐり、長い間一行取引を行なってきたホープ銀行から、コンプライアンスを持ち出され冷たい態度をとられる。運転資金の目処がつかなければ、赤松運送は倒産する。そしてまた赤松の家族にも波及は及んだ。赤松が無理やり担ぎ出されPTA会長を務める小学校では、赤松のこどもたちにもいじめがはじまった。そうしたなか、自分の会社の仕事に自信を持ち「整備不良」でないことを頑なに信じ奔走する赤松の姿。しかし「整備不良」を素直に認めない赤松の姿に、被害者の家族は不快をあらわにし、制裁的損害賠償の訴えを起こす。
ホープ自動車に預け、事故の原因を調べるた結果はやはり「整備不良」であった。何かがおかしい。整備不良を結論づけるのに、整備を行なっているもののへの聴衆も行なわれない。警察も、被害者も、そして多くの人々が大手メーカーの言うことを疑いなく信じるなかで、執拗に訴え、迫る赤松。再調査をして欲しい。できないなら部品を返して欲しい。しかし旧財閥のブランドのうえにあぐらをかき、自分たちの会社が日本の経済成長を支えてきたという驕りから、中小企業である赤松運送からの訴えを、自分の非を認めないでメーカーに責任を転嫁しようとするたちの悪い悪質なクレーマーとして、けんもほろろの態度を取り続けるホープ自動車のカスタマー戦略課課長、沢田。しかし真実は思わぬ方向に進み始めた。会社でのなかでもエリート意識の高い品質保証部がなにやらきな臭い動きをしている。同僚と情報を集めに走る沢田。そして辿り着いた真実とは。
いっぽう、ホーブ自動車担当となったホープ銀行の井崎はため息をついていた。日本を代表する重厚長大企業の車両部門から独立したホープ自動車はいまだ、親方企業の一部門であったプライドと慢心が捨てきれず、自ら招いた経営不振に反省の色もみせず、銀行に対する態度も傲慢で、グループ企業なのだから支援して当然という不遜な態度で臨んでくる。三年前のリコール隠しの「過去」すら忘れてしまい、今回、横浜で起きた事件に対しても何の心配も見せない。そして気軽に融資を依頼してくる。いまや、そんな時代でないことに一向に気づかない。そんな井崎のもとに大学時代の友人で、週刊誌の記者となった榎本が連絡をしてきた。ホープ自動車リコール隠しをしているという噂があるのだが・・。
物語は中小企業ながら、誠意に誠実に仕事をしてきた赤松運送の社長赤松の奔走する様子を主軸に、ホープ自動車社の過去の栄光に甘えた企業体質の問題を浮き彫りにするとともに、また同系列のホープ銀行で、過去の栄光にとらわれず己の信ずる信念に基づき仕事を行なう者の姿を描く。まさに正当な企業小説の例にもれず、大企業の大きな力に翻弄される主人公の姿。次々と眼前に現れる難題を、ひとつずつ解決しながら、地道に情報を集める赤松。そして彼が最後に辿り着くのは・・。


実際は「三菱ふそう」の事件であり、三菱という旧財閥グループをモデルにしたことがありありとわかる小説ではあるものの、この作品はフィクションである。そして、あえてドキュメンタリーでなく小説にしたことによって、この作品はあるひとつの私企業の物語ではなく、普遍性を持つ作品となった。企業小説として普遍性を持つ作品として、われわれ企業人はこの作品を読み、人としてこの作品に取り上げられる事象をひとごとと思わず、わが身のこととして受け止め、考え、そしていま一度襟を正す必要があるのではなないだろうか。現在の日本の経済社会において「内部統制」「コンプライアンス」という言葉はあたかかもありがたい呪文のようにもてはやされている。この作品でもこの言葉は何度も出てきているが、それがきちんと機能していないことが描かれる。実際、生かすも殺すもひと次第なのだ。この作品のなかで赤松運送という小さい運輸会社は、コンプライアンスという言葉を使うことはないものの、実際にはそれを遵守していた。誠心誠意働くこと。そして、それがあったがゆえに信念を持って主人公である社長は行動できたのであり、またぼくら読者も共感できるのだ。一片の曇りもなく己の会社の仕事を信じることができたからこそ、主人公はあきらめることなく険しい困難な道を乗り越え、真実に辿り着き、そして大団円を迎えることができたのだ。
ぼくも会社のなかで管理系の仕事を行い、権限規定やコンプライアンスの遵守を訴える立場、守らせるほうだが、実際、それは必ずしも機能しているとは言えない。どうしても面倒くさいのだ。しかしそれは実は絵に描いた餅ではない。これからの企業活動に、必要なことなのだ。この作品でも整備をしっかり行なった上で、「整備手帳」を詳細に残していたことが、主人公である赤松社長の信念の補強になっているのだ。
しかし本作で取り上げられた事件もさることながら、最近では国民的キャラクターをイメージキャラクターに持つ洋菓子メーカーの問題が発覚し大きな事件になっている。数年前、日本を震撼させたある大手乳業メーカーの事件の反省をまったく生かしていない企業。まさにひとごとだったのだろう。そしてこれもブランドにあぐらをかいた結果なのだろうか。経済効率だけではない、ひととしての正しい行ないにだれも気づかなかったのだろうか、あるいはすることができなかったのだろうか。


しかし図書館のリストでこのタイトルをみたとき、こんな直球な企業小説だとは想像もしなかった。何か科学的な理屈で空中を飛び遊ぶような遊具の話だと想像しながら、予約をいれた。予約を待っている間に直木賞候補となったが、実際、それほどこの作品に期待はしていなかった。しかし読んでみて、正直、よかった。まさに、たまには直球の起業小説もよいもんだ。


蛇足:フィクションとはいえ明らかにモデルにされたこの作品が出版されたところで、再度のリコールは三菱ふそうには痛いだろうな。しかしそれでも、もしこの作品が直木賞を受賞していたら、さらに大変だったろう。改良されたはずのハブにさらに不具合があったとは、製品の信頼にも関わること。きちんと発表、報告したこと、それだけは評価するべきなのだろうか。
蛇足2:この作品を読んで昔読んだ「沈まぬ太陽」(山崎豊子)を思い出した。同じ、親方企業の飛行機会社の物語。忘れられぬ名作。オススメです。