12番目のカード

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「12番目のカード」ジェフリー・ディーヴァー(2006)☆☆☆☆★
※[933]、海外、現代、小説、ミステリー、リンカーン・ライムシリーズ、アームチェアデティクティブ、プロファイリング、エンタテーィメント


ハーレムの高校に通う、やせっぽちの黒人少女ジェニーヴァ・セトルが、己の先祖の140年前の事件を博物館のマイクロフィッシュリーダーで調べているところを、ひとりの男に襲われた。気転をきかせ危ういところを逃げる少女。現場には、レイプのためのレイプバックが、そこには何故か一枚のタロットカードとともに残されていた。
新たなリハビリ方法で身体的機能を強靭にしたライムのもとに、ニューヨーク市警殺人課刑事ロン・セリットーが現れ、捜査の協力を依頼する。
単純なレイプ犯の捜査と思い、捜査を開始したライムたち面々。しかし、ことは単純なものではなく、その後も執拗に少女を襲う犯人。事件の裏側に何か別のものがあることに気づくライムたち。
一方、セリットーは事件について情報を訊いていた博物館図書室長を、まさにその事情聴取の最中に犯人に射殺されてしまう。自分も弾道の上にいたことを意識するセリットー。被害者が犯人に撃たれた際の弾丸の破片が頬をかすめたのだろうか、頬のある一点をしきりにこする。そして、それはセリットーの心を深く、静かに蝕む。
アヴェレージ・ジョー、平均的な姿をし、街中でも目立たない冷酷な犯人は、冷静に的確に仕事を進めようとしていく。そしてまたグラフィティー・キングとかって呼ばれた男の登場。
140年前、解放奴隷であったジェニーヴァの先祖チャールズ・シングルトンの関与していた事件とはなにか。そしてハーレムという場所において己の未来と独立を夢見、真面目に、そして頑なに生きる少女を狙う犯人の正体は?そして隠された真実とは?


言わずと知れた、全身不随の科学捜査官リンカーン・ライムの最新作。え?リンカーン・ライムを知らない?なんてもったいない。映画化され話題にもなった「ボーンコレクター」から始まる作品群は、上質なエンターティメント・ミステリーとしてぜひ最初から読まれることをオススメする。
毎度のことではあるが、作品の「解説」にもあるとおり「あざとさと紙一重とまで言われるディーヴァーの語りのテクニック」を充分に発揮した、小気味よいほどのテンポと、どんでん返しの繰り返し。そこが作品の強みであり、しかしまたそれが多少のマンネリ感につながるという痛し痒し。あたかも映画を見ているような、予想もつかないエピソードの連続。523ページ二段組の分量をしっかり飽きさせず読ませる力作。
しかし残念ながら、単独の作品として楽しむ一冊ではない。あくまでもリンカーン・ライムのシリーズの一作である。お馴染みになった登場人物たちによるライムのチームが、狡猾な犯人を出し抜き、近づく、そして思いもかけぬ真実に辿り着く物語。今回は、主たるストーリーたる、ある黒人の少女を狙う犯人の物語に、いつものメンバーであるニューヨーク市警殺人課刑事ロン・セリットーが事件の捜査の中で受ける心の傷のエピソードを盛り込み、作品に深みを与える。
力作である。しかしやはり前作、前々作(「石の猿」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/1890139.html 、「魔術師」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/1890219.html ])同様、出来すぎの感がどうしても拭えない。まさに「あざとさと紙一重」。次の一瞬どうなるか、と思った瞬間、舞台を別の場所に移し、読者の緊張した瞬間をうまく交わす。エンターティメント作品の語り手としてのディーヴァーの巧さ。それを巧いと感嘆するか、はたまた少し鼻につくと思うか分かれるところ。もはやライム・シリーズの物語の構図はお約束ごとになったといえばそれまでなのかもしれない。確かにシリーズとして安心して読める作品。しかしその分、驚きは少なくなったかもしれない。これからもこのクオリティーを維持するのだろうなと思いながら、引き続き読み続け、評価できるかは個人的には疑問。ぼくはどうも安定したシリーズというものの「安定」にひっかかるくちなのだ。もちろん多くの読者がライム・シリーズの続刊を望み、この安定した作品に期待する気持ちは解る。さらに言えば、本作のラストに見せるライムのささやかな希望も、ライムをライムたらしめる特徴である障害に打ち克つ予感を見せつつ、決してぼくという読者としては喜ばしいものではなかった。
いやそれは、本当は喜ばしいことなのだ。作品冒頭にディーヴァーが謝辞として記した「勇気の手本であり、希望の象徴であるクリストファー・リーヴに捧ぐ」という言葉が、このエピソードに呼応する。頑なまでに現実にはあり得ないような描写を避け、不用意に安易な希望を描くことを避け続けてきたディーヴァーが、現実と折り合いをつけたなかで描いたライムのささやかな、しかし明日に繋がる希望。作品のなかでも、不安におののくライムの姿をうまく織り込ませていたがゆえに、それはライムと同じ全身不随のひとたちに希望を与えるひとすじの光明になるのかもしれない。勿論、その先は険しく長いもの。そして一筋縄にはいかないに違いない。この作家はおそらくこのエピソードについて、決して安易な妥協をせず、失望と希望を今後も真摯に描いていく。その姿勢、そしてエピソード自体は、確かに単独としてとりあげるなら、高い評価に値する。しかしこのシリーズを読み続けてきた読者たるぼくは、少しひっかかるのだ。杞憂なのかもしれない。しかし作品の主軸がぶれやしないか、そう危惧するのだ。そしてまたライムのロマンスもぼくはあまり買えないのだ。
たぶんライムのシリーズをリンカーン・ライムという全身不随の捜査官の人間としてのドラマ(小説)という部分を評価するなら、おそらくぼくのこの評価にはならないだろう。
いや、本作でのライムは本当に生きた人間としてのライムだったのだろうか。
つまらないことにすぐ腹を立てかんしゃくを起すライム。今までのライムはもっとわがままだった。しかし本作のライムは、相変わらず皮肉な面を持つものの、どこか今までのライムに比べ優等生のように思えた。そして、その結果が最後に希望をもたらすというこの作品は、なんだか出来だ。
あぁ、ここか。ここがひっかかるところだったのだ。レビューを書きはじめて、初めて解った。エンターティメント作品でありながら、ライムという人間を描いた作品であったはずのこのシリーズで、ライムが突然、お約束の出来すぎた主人公に思えてきたのが、今回感じた違和感なのかもしれない。それをライムの成長と捉えるのか、それとも「お話し」の主人公に堕ちたと思うのか、それにより評価は分かれるのかもしれない。


とはいえ、この作品がこの分量を読ませる破綻のない力作であることは間違いない。最後に真の犯人が及ぼうとする犯行が、ちょっと安易で絵空事に近い点を除くと(あるいは犯人の動機に結びつく事実が、あまりに突拍子もない真実であることもか、)上質なエンターティメント・ミステリーとして、楽しんで読むことのできる作品であることは間違いない。しかし残念なことは、冒頭にも述べたとおり、単独作品で万人にオススメできる作品ではない。あくまでもリンカーン・ライムのシリーズの一冊である。そして、その条件のもとで読ませるエンターティメント作品として先の欠点と鑑み☆四つの評価としたい。


蛇足:タイトルとなった「12番目のカード」がそれほど重要じゃない。そこを期待すると・・。