わたしを離さないで

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「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ(2006)☆☆☆☆☆
※[933]、海外、現代、小説、文芸、文学


あちこちで静かに、しかし厳然と良い評価を残す作品として見かけてきた本書のタイトル。カセットテープのイラストの表紙は軽めの小説を期待させたが、読んでみたら、まったく違った。本書の解説(英米文学研究者柴田元幸)に書かれる、「細部まで抑制が利いた」「入念に構成された」物語という言葉が確かに一番似合う作品であった。


31歳のキャッシー・H。十一年間優秀な介護人を続け、しかし、もうすぐそれを辞めようとする人物を主人公とし、語り部とした物語。それは彼女が幼少の頃から過ごしてきた謎の全寮制施設ヘールシャムでの出来事の思い出から始まる。
トミーあるいはルースという幼い頃からの友人をはじめとした同じ寮を過ごす級友たち、あるいは保護官と呼ばれるエミリ先生やルーシー先生、時折ヘールシャムに姿を見せるマダムという存在、そして「提供」というキーワード。主人公の目を通す彼らの生活が緻密なディティールで積み上げられ、描かれていく。そこには常に自分が正しくありたい、何かを信じたい少女ルースに振り回されながら、しかし確固たる自分を持ち続けた主人公キャッシーの姿があった。幼少からヘールシャムで過ごし、青春期を迎え、そしてヘルーシャムを離れ、コテージの生活を経た上で大人になり、介護人として一度は別れたはずのの友人らとの再会、そしてその後の生活が抑制の利いた文章で綴られている。物語を読み進めて行くうちに、そこが我々が想像していたような「普通の」施設、「普通」の生活でない世界が描かれていることが明らかにされていく。しかし、それは「細部まで抑制が利き」、「入念に構成され」坦々さと描かれるがゆえに、読者である我々も驚きを感じつつも、しかし坦々と読み進めていくしかない物語。


すべてを読み終えたあと、いや作品の終盤に、作品の始まりに記された「一九九〇年代末、イギリス」という言葉と、主人公が長く続けた「介護人」を辞めることの表す意味に気づいたとき心が震える。あぁ、まさしく良質の「物語」に出会った、と。


多くのネットの書評でネタバレに気をつけ、あるいは本書の解説で「まずは漠然とした言い方で賞賛したあとは、内容をもう少し具体的に述べるのが解説の常道だろう。だがこの作品の場合、それは避けたい。なぜならこの小説は、ごく控え目に言ってもものすごく変わった小説であり、作品世界を成り立たせている要素一つひとつを、読者が自分で発見すべきだと思うからだ。予備知識は少なければ少ないほどよい作品なのである(だからといって、再読に耐えないということではないが)」と述べることが、まさに正鵠得ていたことに気づく。たしかに幾つかのネットの書評で「ネタ」に言及したもの(それはカズオ・イシグロのインタビュー記事にもあった)もあった。しかしそれでも、詳細なあらすじを残すことを旨としてきたぼくのレビューであっても、やはりこの作品のあらすじを残すことは遠慮しよう。なぜならこの作品は、まさしく「物語を読むため」の作品であり、「未知なる物語に出会う」ことが最大の喜びの作品であると信じるからだ。
未読者は決して作品を読む前になんらの情報がないほうがよい。その意見にぼくも至極同意する。ただ、読むこと。
主人公の語りによる坦々とした物語。坦々と描かれるが故に、静かに心に染み込む哀しみ。すべて読み終え、あるいは終盤で明らかにされていくこの物語の謎を知ったとき、主人公たちの立場と想いに心を馳せてみよう。その不安、哀しみ、いらだち、彼らが信じたかった希望というものの不安定さに心がいっぱいになる。この作家はなんと静かに、坦々とこの不思議な世界をあたかもそこに、当たり前にあるように(あったかのように)描いたことだろう。


浅薄な人間なものでカズオ・イシグロという名前には本書で初めて出会った。英米文学界では随分評判の小説家らしい。そういえばジェフリー・ディーバーリンカーン・ライムシリーズ最新作「12番目のカード」のなかで、犯人に狙われる主人公の勉強家の黒人の少女が、彼の作品をレポートするという描写もみられた。
最近、めっきり国内の娯楽小説ばかり読んでいたががたまにこういう作品と出会うのも読書の楽しみである。


一度読み終え、作品の謎を知ったあとも、さらにもう一度再読をしこの作品世界に漂う哀しみのようなものを深く味わいたいと思える一冊。まさに坦々と力を湛えた作品だと思う。しかし未読者は最初の一回目は決してなんの先入観、前情報なしに読むべきだろう。
皆が「名作」というこの作品、一体どこが「名作」なのだろう。そう思いながら手に取り読んで味わって欲しい一冊。


この坦々とした世界、あるいは淡々と語られた世界は、強くひとにオススメすることは似合わない。しかし読書人として、ぜひ読むことを勧めたい。


蛇足:「文芸」書なのでしょうか?もはや「文学」な気がするのですが・・。
蛇足2:作品と直接関係ないのですが、最近「淡々」と「坦々」の使い方が気になる今日このごろでありました。最近敢えて「坦々」を使うようにしてますが、本当はどちらが正しいのでしょうか。言葉の遣い方、遣いわけは難しい・・。