雨のち晴れ、ところにより虹

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「雨のち晴れ、ところにより虹」吉野万理子(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、湘南、短編、


※ネタバレほどではない。しかし未読者は注意!


正直に述べれば、合わなかった。読んでいて、むずむずとした居心地の悪さというか、相容れない違和感を覚えた。去年の秋ころからこの作家の名前をちらほらネットの他の本読み人のページで見かけていた。これは根拠のない勘に過ぎないのだが、たぶん合わないだろうと予感していた。しかし本作が、ぼくの住む鎌倉を含む湘南を舞台にした作品集であることを知り、丁度同じように鎌倉の古びた小さなホテルを舞台にした「モーテル0467」[(甘粕りり子)http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/43548218.html ]に予約をいれたのと同様に、市の図書館のホームページから、予約を入れてみた。


別にとりたてて悪い作品だというわけではない。ただ「モーテル0467」にも感じたような、「湘南を舞台にした」「カタログのようにきれいなだけ」の作品、それだけのものしか感じられなかった。いわゆるぼくに苦手とする女流作家の作品にしか過ぎなかった。ホスピスで死を見つめる男の物語、表題作である「雨のち晴れ、ところにより虹」においても、個人的にはもっと突き詰めて生をあるいは死を見つめて欲しかった。ざらざらとした読後感が残る。いや、作家の狙いは、さらりと読める、きれいでかつ少しだけ心をあたたかにする作品なのかもしれない。なるほど、その意図は読める。しかしそれがぼくにはきれいすぎて、かつ薄っぺらなものにしか感じられない。もっと深く、より深く。それはあくまでもぼくという読者が求める作品のありかたで、本書にそれを押し付けることがどれほど無意味なものなかということは理解している。しかし、もし、いままでぼくのレビューにつきあってくれて、ぼくがどういう作品を評価し、愛してきたかということを知っている方なら、おそらくこの作品に対するぼくの違和感を理解してもらえるのではないか。さらりと読むためだけの本、ぼくは読みたくない。


もちろん、ところどころ唸らせるような場面がないわけではない。テクニックとしてのその部分を評価し、褒めることもたやすい。例えばこの作品は「湘南」を舞台にしているが、決して連作短編ではない。しかし表題作「雨のち晴れ、ところにより虹」の主人公である、鎌倉の海に近いホスピスに入院する須藤という男の影が幾つかの話にさらりと描かれる。第一話では主人公の父親で逗子に住む男がホスピスに入院する友人を訪ねるエピソードが盛り込まれる。さすがに定年を経た男の友人が、三十代の予備校の事務員であった須藤であったわけではなかろうが、さらりと鎌倉のホスピスが触れられる。第二話では、売れっ子の予備校講師である母親の異動の話を、その娘である高校生の主人公に語る事務員として登場する。あなたももう大人なんだから、お母さんの活躍を邪魔せずに自由にしてあげてほしい。第三話では、三十代の女性編集者である主人公たちが厄祓いに行く鶴岡八幡宮ですれ違う巨大な女性。よく太ったその女性は腰のまがったおばあさんを介護しているが、第四話、表題作で須藤を看護する介護士常盤さんであろう。第四話は須藤の物語。そしてうまいなと思ったのが第五話で、ここでは須藤の影を感じさせない。読み落としでなければ、巧みに読者の期待をかわしたという感じ。そして第六話で、またも須藤の影が出てくる。既に死んでしまった須藤。彼を思う女性の姿。片思いといい、30そこそこと書かれていたからには、須藤と同じ年齢で36,7歳の須藤を看護した常盤さんとは違う人なのだろう。それまでに須藤にそんな風に関わる女性の姿は常葉さん以外にいなかったので、ちょっと違和感を覚えないわけではないのだが、。そんな須藤という男の影がそれとなくそれぞれの作品をつなげている。こういう仕掛けは嫌いではない。しかし作品全体の「きれいさ」、いや「きれいなだけさ」がどうにもぼくには合わなかった。
本当に、とりたてて悪いわけではないのだけれど。


第一話「なぎさ通りで待ち合わせ」
食生活について相容れない若い夫婦の別離の危機に、夫の父親である男性が乗り出して・・。
※妻となる女性の食生活に対する思い込みがどうにも共感できなかった。もっとも、男性の父親の味に対する記述も共感を覚えるまでに足りない。いい話のはずなに、なにかカタログを読まされたような気分。さいごの「オカラ」もつまらない。あ、初っ端からつまづいたんだ。


第二話「こころ三分咲き」
母ひとりの、娘ひとりの家庭。母は予備校の売れっ子講師だった。そんな母が、大学は下宿してもいいのよと言い出した。母に、新たな男の人の影が?揺れ動く少女の心。そしてその真相。
※できすぎのお話し。最後の謎解きも、ちょっとリアリティーに遠いのでは?少しネタバレになるが、まず一緒に暮らす、受け入れる家族に役所も確認をとるのではないだろうか。いや、これは想像に過ぎないのだが。


第三話「ガッツ厄年」
厄年を迎えた女性編集部員。ある日、パワーハラスメントの訴えが持ち上がった。厄祓いをしよう。
※個人的に、人のものを奪おうとする女性の姿は、ドラマや小説のなかでしか見たことがないのでまったくリアリティーを覚えなかった。まさにお話し。無意味に隠れた美味しいレストランにはいる描写が、カタログ雑誌を意識させた。


第四話「雨のち晴れ、ところにより虹」
会社の健診で、肺に陰が見つかった。もはや手遅れの癌。鎌倉のホスピスに入院した須藤と、介護士常盤さんの物語。ある日、巨大に等しく肥え、太っていた常盤さんがダイエットを始めた。
※小学生のころ、大好きな女の子だからこそいじめてしまう。それが思いもかけない波紋を呼んでしまう。ありがちな話。ほろ苦い後悔と、忘れられない初恋。そこまではいい。しかしすでに結婚して幸せなはずの女性が、苛烈なダイエットを行なう様子は痛々しく、またその理由が初恋にあることに対しての不快感さえ覚えた。初恋を大事にする思いは理解できないわけではないが、ぎゃくに女性の生々しさを見せつけられたような気がする。


第五話「ブルーホール」
湘南の海を眺める三人に男の物語。海を知り尽くした老人に連れられ釣りをする孫の少年。彼らにひとりの老年の男性が近づいてきた。ダイビングとはどんなものですか?空を翔けた男にとって、空も海も畏怖すべき自然の大きな力。そして少年は誰も知らない宇宙を目指す。
※この作品集のなかでは異色の作品。空と海と宇宙を巡る三人の男たちの物語、の構図のはずなのに、どこかこの作品集のなかではちぐはぐな印象が強い。これはこれで単独の作品として、三つの世界をもっと対立して描くべきモチーフのように感じた。


第六話「幸せの青いハンカチ」
大学の体育の時間で知り合い、親友としてつきあってきた佐和子。佐和子の結婚式に招かれた主人公、佳苗。そこには佳苗の知らない佐和子の姿があった。混乱し、揺れ動く主人公。
※高校時代を大勢で過ごした友人とも、その後の会社生活をともに過ごした相手でもない、大学の体育の授業を通して知り合ったふたり。ふと気づくと、自分にとって唯一の親友だと思っていた相手が、大勢の友人に囲まれ、自分たちふたりの世界とは別の世界をもっていることに気づく。不器用な自分には彼女しかいないのに。そんなゆれ動く女性の気持ちを描いた作品。整理されていない、気持ちの混乱ぶりに同じ立場の女性はリアリティーを感じるのかもしれないが、男のぼくには理解できない。悪く言えばヒステリー?


むむむ。率直に思ったことを書くと評価できないポイントばかり。この違和感はぼくだけなのだろうか?


蛇足:他の本読み人の方の記事を読むと、どうも「須藤さん」ではなく、「常盤さん」をキーにしているようだ。第六話の女性も常盤さんで読んでみると話の流れ的にはしっくりくるのだが、でもこの女性も常盤さんのキャラクターとはちょっと違うような気がする。
それからぼくが「巧みにかわした」と評した部分は、もしかしたら第四話で常盤さんが須藤を連れて腰越の漁港に行った日の話しかも。突然の風と雨の日のふたつの物語。
しかし、またもやぼくだけ「評価しない」作品のようですね・・。あぁぁ我ながら、偏屈。