竜とわれらの時代

竜とわれらの時代

竜とわれらの時代

「竜とわれらの時代」川端裕人(2002)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、科学、恐竜、宗教


手取の里には竜神様がいる。


物語は1993年に始まる。北陸のとある県にある手取郡にある父の実家に高校生である風見大地、海也のふたりの兄弟が身を寄せることになったのは、ジャーナリストである父忠明との父子家庭のあまりに粗雑な生活に、祖母の文ばあが見るに見かねた結果の提案だった。もともと敦浜にいたころより野山をかけめぐり岩を叩いていた大地にとって、中生代の地層が露出するこの地に移ることは「大物」と出会う楽しみも増えた。文ばあに言われ、生来内気な弟の海也を連れ荘山の森を歩いていた。見つけた岩を、教えられることもなく見事に割る海也の姿をまじまじと見つめる大地。「石が割れたそうに見えたから」それは今に始まったことでない。ぼんやりした顔で、海也は時々するどい観察眼を発揮するのだった。
「風見君!」東京育ちで、今は父親が海外赴任中のため母親と母親の実家に身を寄せている、色白で髪が長くあかぬけた手取高校男子生徒あこがれの的、大地の同級生である草薙美子が声をかけてきた。山菜採りに来ていたという。そして三人はそこで謎の生物の化石を発見する。中生代白亜紀前期の地層から大型の動物化石を発見すること。それは大地が長い間夢見ていたものだった。「いいか、これを見つけたことはおれたちの秘密にする」三人だけの化石発見という秘密。
手取高校の生活では、美子に想いを寄せる勝峰町町長の息子、野球部キャプテンの辻本が、海也のその恵まれた体躯に目をつけるが、海也は入部を断る。「よそ者」でいなくなるためには仲間に入るのがいい。そう考える辻本にとって、わが道を行く姿勢を貫く兄大地ともに風見兄弟はなんとも気に入らない存在だった。
明日から田植えという日、ひとり荘山村の森を歩く海也は、阿弥陀堂を守る婆が叫ぶ声を聞く「帰ってよざ!」「ここは聖域でございます。よそ者は帰ってよざ」そこにはひとりの大柄なガイジンの姿があった。道に迷ったというそのガイジンはこの地が古生物学にとって有望な地であることを海也に告げ、またいつか戻ってくることを語るのだった。


竜神信仰の残る北陸の明らかな確定を避けたとある県のとある村を舞台とし、執筆当時(2002年)最新の科学情報をベースに描かれた物語。そしていまやぼくの大好きな作家と公言している川端裕人との出会いの一冊。当時、おそらく四年ほど前、図書館の書架に並ぶこの一冊と出会ったことが川端裕人との出会いであった。読み応えある厚さ、ハードカバーで450パージほどの二段組。
ぼくはこういうきちんとした正しい情報を基に書かれた「嘘」の物語が大好きである。まことしやかな嘘とは、真実をいくつも散りばめたなかにあればこそ、まことしやかなのである。そういう意味できちんとした取材をもとにして書かれた作品は、それだけで好感を抱く。もちろんそれらの専門について読者たるぼくは門外漢であり、それらの専門家からすると、デタラメだと指摘される作品もある。しかしぼくがそれと見破れない作品は、ぼくにとっては失敗作ではない。気持ちよく騙し、作品世界を楽しませてくれたわけだから。もちろんそれが出鱈目だと知ってしまうと嫌な気がしないわけでない。そういう意味では勿論、作家に誠実さを求めたいが、そこに拘るものでもない。物語作家とはもともと嘘つきなのだから。
そうであればこそ本から得る知識というものは気をつけなければいけない。物語を読み、知識を得たと思い込んだことが、まったくの出鱈目であることは充分ありうるのだ。いやそれは物語に限らない。人はつい「書物」を信じたがる。活字になり、出版されたものを信じたがる。しかし「書物」は決して真実を記すわけではない。執筆した人間の意志が反映される。とくに「物語」は虚構だ。たとえ最新の科学情報を基に書かれていると「思われ」ても、それを鵜呑みにすることをしてはいけない。「物語」に厚みを増すための「架空の設定」のひとつに過ぎないかもしれない。
もちろんこれは一般論としての話。川端裕人という作家において、出鱈目はないと思う。それは本作(ハードカバー)の解説を見ても解る。しかしこの作品の科学情報は2002年当時の最新の情報であっても、ぼくがこれを再読した2007年の最新の情報ではない。もしかしたら、この作品で書かれた情報は、いまや「間違った情報」かもしれない。そこのところは、もし作品から「知識」を得るということを副次的な目的とするなら注意するべきだろう。そしてまたこのことはこの作品の最大の弱点かもしれない。
あくまでも「物語」としてこの作品を読むのならば、最新の情報が変わったとしても、この作品の発表された時点での「正しい情報」として読者は読めばいい。さきにぼくが述べたとおり、情報はあくまでも「架空の設定」のひとつであり、「物語」という「虚構」を築き上げるためのディティール(細部)にすぎない。しかし科学に真摯であろうとした作家は、この作品のなかでディズニーの描く映画を「あり得ない」ことと糾弾してしまった。それは作家として科学記者を勤めてきた経歴のなかで、警鐘を鳴らしたいことだったのかもしれない。実在した恐竜という存在に対し、こどもに正しい知識を与えたいという想い。作家の願いに似たその想いを理解はできる。しかしそれは、擬人化された動物の物語を、科学的でないというに等しいものではないか。科学的なければ「物語」というものはいけないものなのだろうか。
ぼくは決してそうは思わない。もちろん作家のその真摯な態度を悪く言うつもりはない。しかしそのことが、残念なことにこの作品の普遍性を損ねてしまったように思われる。この作品の拠るところが2002年当時の最新の科学情報であり、それが「正しい」ことを前提に書かれた作品である以上、もしこの科学情報が覆されるようなことがあれば、この作品は成り立たなくってしまうという危険を孕んでいる。この作品は「物語」として充分に成熟した作品であり、「正しい知識」に決して拠る必要のない「虚構」の「物語」としても成立した作品であったとぼくは思う。しかし作家の真摯な姿勢が、逆に作品の普遍性を狭めてしまった。そこがすこし残念に感じられる。


以上は真摯な作家の姿勢対し、真摯にレビューを書いてみようと、客観的にこの作品の弱点を述べてみたぼくというレビュアーの感じたことである。しかし主観的に述べれば、そんなことを気にしなければ、まさに「本当のように嘘をいい」というぼくの大好きな、そして成功している作品である。作品を宗教の世界まで広げてしまったのは、個人的には行き過ぎのような気がしないわけでもないが、この作品の描く物語に、ぼくはひとりの読者としてどきどきわくわくしながら楽しんだ。


物語は大地らが化石を発見したときから幾年か過ぎる。クリス・マクレモア教授という現代古生物界の第一人者のもとアメリカで古生物の研究に勤しむ大地が、手取に戻ってきた。あの化石を発掘するために仲間たち、カーチャ・エフレーモフ、ベン・バルカンとともに。
物語は大地が発見した世紀の大発見竜脚類テトリティタンの化石を中心とし、幾つものエピソードが絡み進む。
大地の弟、海也は大学の農学部を卒業し、手取に戻り農業を行なう。彼はかっての手取高校男子生徒あこがれの的、美子とつきあい、結婚することになっていた。美子は白泉村の村役場に勤めていた。対して高校時代大地たちをライバル視していた辻本は勝峰町の役場に勤め、大地たちの発見が近隣の町村で最大を誇る自分たちの町で行なわれなかったことに不快感を抱き、また自ら将来を見据え動く。あるいはイスラム原理主義者によるクリス・マクレモア教授に対する襲撃があり、一方ファウンデーションを名乗る財団、それはクリスチャン・サイエンティストを標榜する団体が登場する。あるいは恐竜の存在をアメリカに象徴する。化石を調べるなか大地は、恩師であるクリス・マクレモア教授の、従来定説とされていた学説に異を唱える新たな学説を発表する。そして手取の村を舞台にしたふたつの恐竜をテーマにしたパビリオンの建設。そこにまたもや襲い掛かるイスラム原理主義者のテロ活動。そして財団の隠された意志。そのいっぽうでは大地の父である忠明の原発問題を滅び行く恐竜たちになぞらえた取材活動。そしてそれはまた、先に触れたテロ活動とも結びついていく。家族の物語、青春の物語、村おこしと村の対立、竜神の物語、宗教観、化学論議原発問題、この作品こにはさまざまな物語が有機的に絡まりあい描かれている。そして手取の村から始まる物語は、世界に広がり、そしてまた手取の村に戻り、収束していく。生き生きと描かれた登場人物たちと、幾つものエピソードが絡み広がり、そして集約される物語。確かにここには「物語」があった。とても素敵な骨太の物語。


読了してからはやひと月以上。思い入れのある作品ゆえにレビューには手間取ってしまった。書きたいことが山ほどあり、想いばかり逸り、混乱してしまった。このレビューでこの作品の素晴らしさや魅力を伝えられたという自信はない。しかしぼくにとってこの作品はやはり、川端裕人というこの稀有な真摯な作家との出会いの一冊として忘れえぬ一冊であること、これだけは伝えておきたい。正直を言えば、川端の作品で宗教を取り扱った部分については常に拭えぬ違和感を覚えるのだが(それは川端の作品で一番好きな「せちやん」にもあるのだが)、しかしそれでもこの作品のわくわくどきどき感は素晴らしい。幾つかの欠点というか、気になるところはあれど、ぜひ皆に読んで欲しい一冊。とくに最近の、日常生活に沿った少年物語を川端裕人の魅力だと思っている人に、川端裕人のもうひとつの魅力を知ってもらいたい。そしてまた川端裕人という作家には、こういったまさに骨太の作品をたまには読ませて欲しいと願いたい。最近の小説が悪いというわけではない。ただぼくはずっしりとした骨太の長編力作の物語が大好きなのだ。


言い訳:われながらこれはとても中途半端なレビューであると思う。いつか再読した際に、もう少しまともなものを書かせてもらいたいもんだと思いながら、とりあえずアップさせてもらう。