東京ダモイ

東京ダモイ

東京ダモイ

「東京ダモイ」鏑木蓮(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、第52回江戸川乱歩賞受賞作、シベリア抑留


出無精で引っ込み思案、営業に向いていないと自ら認める自費出版会社である薫風堂出版の若い営業編集者槙野は、「三百万円の予算がある」上客に会うために、上司である出版プロデューサー朝倉晶子に尻を叩かれるように、京都に送り出された。お金至上主義のような晶子に少し疑問を抱く槙野であったが、高校卒業と同時に家を出、神戸の大手コーヒー会社に就職し、経済的、精神的に自立している槙野の3つ違いの妹英美とは意気投合をしているようだった。槙野は、上司、妹とそれぞれ自分を持つ、強い女に挟まれた形で、いつも尻を叩かれているような有様であった。
果たして訪問した相手は、電話もひいていない自作の粗末なログハウスに住む高津と名乗る76歳の老人であった。戦後、シベリア抑留生活のあと舞鶴港に引き上げて以来、正式に仕事に就くこともなくひとりで暮らしてきたと語る高津は、さらに二百万円を払うので、薫風堂出版が出している全五段の大きな新聞広告に取り上げて欲しいと語った。電話で相談する槙野に、総額五百万円の売り上げに上司である晶子はあっさりOKを出した。原稿を預かった槙野は久しぶりに妹に会いに神戸に向かった。
舞鶴港で、ひとりの外人老婦人の水死体が発見された。水死体のショーツには、なぜか帝国軍人の古い腕時計が隠されていた。警察の捜査の結果、ロシア、イルクーツクからの観光客のひとりであることがわかり、一緒にいたはずの日本人男性の行方がわからなくなっていることも判明した。消えた男性は世田谷の35歳の医師、鴻山秀樹であった。水死体で発見された老婦人、元看護婦のマリア・アリヒョーナとシベリアで死んだ鴻山の祖父が知り合いであったことより、鴻山はマリアの今回の来日の身元保証人となっていた。彼が老婦人を殺害し、失踪したのか。
いっぽう句集の原稿の残りができたとの高津からの電話で、再度京都に向かう槙野。京都に向かう新幹線のなかで高津の原稿に目を通しはじめた槙野は、それが句集とはいえ、手記と句集が組み合わさっていることを知る。俳句だけ並べられてもよく分からない句の内容も、手記の部分を読むとよくわかる体裁になっていた。実際に体験したことを綴るその文章に胸を打たれた槙野は、これなら戦争を知らない世代にも何か伝わるのではないだろうかと思うのであった。
高津の家を訪れた槙野であったが呼び出したはずの本人はおらず、家には槙野宛に出版契約延期の置手紙と、そして切抜きをされた新聞が残されていた。切抜きのされた新聞と同じ新聞をコンビニで買い求め、舞鶴港の事件を知る槙野。高津はこの記事を見たのか。このまま手ぶらでは帰れない。そう思った槙野は高津の後を追い、舞鶴港まで足を伸ばす。警察では、確かに高津らしい人間が現れ、遺体にすがりつき涙を流していたという。
高津の姿はその後も杳としてつかめない。五百万円の売り上げをみすみす見逃すほど晶子は甘くない。
高津の失踪の理由を求めて、句集の原稿を調べはじめる晶子と高津。いっぽう警察も、今回の殺人事件には、この句集に書かれた内容が大きな手がかりとなるはずだと捜査を始めた。果たして殺人事件の犯人はだれか、その理由は、そして消えた鴻山、高津の行方は。
浮かび上がる60年前のシベリア抑留のなかで起きた殺人事件の謎。いったい当時何が起きたのか。


前回2005年の第51回江戸川乱歩賞は、「天使のナイフ」だった。旬の時期に読み損ない、かなり悔しい思いをした。今回こそはと乱歩賞受賞作に早めの予約を入れ楽しみにしていのだが、残念なことに期待はあっさりかわされてしまった。
とにかく読みにくい作品だった。読者として一体どの登場人物に感情移入して読めばいいのか正直迷った。いや、わからなかったというほうが正しい。おそらく主人公とされている自費出版の出版社である薫風堂出版の若い編集者槙野、あるいは京都府警の刑事志方あたりに感情移入して読む作品なのだろうが、いかんせんどちらの人間も書けていない。いまどきの小説にしては珍しいくらいに登場人物が描けていない作品であった。とくに槙野については、魅力的な女性上司を置き、強がってみせる彼女の弱さを垣間見、また彼女が守銭奴だけではないことも気づきながら結局きちんと絡むこともなく終わるというのはどうなのだろう。刑事の志方にしても地道な捜査はしているものの、そこに人間が見えるほどの書き込みがない。正直、殺人事件を捜査する警察については誰が誰だか区別がつかなかった。そういう意味で刑事小説の多くが、刑事たちの家庭状況をも書いている理由がわかったような気がする。仕事の裏にあるプライベートを描くことで、人間像に厚みを増すのだと。そういう点がこの作品には欠けている。いや不足していた。もう少し人間を書き込めば、作品は変わったかもしれない。


この作品を読んでいて正直、途方にくれてしまった。なぜこの作品が江戸川乱歩賞を受賞したのかぼくには理解できなかった。いや確かに古くさいミステリーという意味では江戸川乱歩賞受賞は妥当なのかもしれない。そういう意味で江戸川乱歩賞は、あくまでも古くさく、正統派のミステリーの王道を進み続ける賞なのかもしれない。去年の受賞作「天使のナイフ」を思い返してみても、なるほど正統派のミステリーとしてきちんと謎解きが用意されていた。本作においても古くさいまでのミステリー作品としての謎解きの物語であった。しかしぼくは「天使のナイフ」をひとつの作品として高く評したとき「ミステリーが不要なのではないか」と述べた。「天使のナイフ」はミステリーの文学賞江戸川乱歩賞を受賞することで作品がこの世に出されたわけだが、作品として決して「ミステリー」が評価されるべきでないと信じる。いや作品のミステリー自体は見事であった、しかしそれ以上に作品を通し訴える問題を評価されるべき素晴らしい作品であったと思うのであった。それに対し、本作を見比べると、そこには「古くさい一冊のミステリー」がぽつんと置かれているだけではないだろうか。


古くさいミステリー、偶然であるがここ数冊続けて読んできた本はまさに古くさいミステリーという言葉がぴったりくるような作品たちであった。本来、言葉の定義をきちんとしたうえで話を進めるべきであろうが、そこは割愛させてもらう。いわゆる犯罪があり、その犯罪が「謎」をかかえ解かれていく物語と思ってもらえばよい。今回の作品も、殺人事件があり、その謎は60年前のシベリア抑留まで遡るという物語である。物語の辿る筋は、まさしく正統派の謎解きミステリーのそれであり、きちんと解決するという点でも確かにミステリーなのだ。しかし、まさにそれだけの作品ではないだろうか。俳句という道具を使った謎解きも、ぼくには作家のひとりよがりの推理に過ぎず、決してお見事とは思えなかった。「俳句」がいまどきでないのかもしれない。あるいは道具はなんであれ、いまどきの読者を納得させるには作家の力量が不足してだけのかもしれない。


60年前のシベリア抑留の生活が「描かれている」という評価をも見かけたが、ぼくには通り一遍の描写にしか思えなかった。それはたまたま以前「不毛地帯」(山崎豊子)を読んでいたせいだろうか。あの作品で感じたシベリア生活の厳しさをぼくはいまだ忘れることができない。しかしこの作品で書かれるシベリア生活の厳しさは、ぼくの胸に迫ることはなく、ありがちな描写のひとつにしか思えない。その程度の描写に過ぎないとぼくが感じるものを、この作品の一応主人公とされる青年は、そこいら辺にある戦争体験と違い、心に響くものだなどと語っている。もしかしたら作家はミステリー作品を通し、忘れさられていくシベリア抑留という事実を後世に伝えることを欲したのかもしれない。しかし、ならばもう少し読者の心に響く書きようがあったのではないだろうか。それができないがゆえに安易に、「心に響く」という言葉を主人公に使わせ、読者を納得させようとしなければならなかったのかもしれない。しかしそれは大きな間違いである。この作品においては、60年前のシベリア抑留こそ最大のポイントである。ここが書けてなければこの作品は成立できない。そしてぼくはそのシベリア抑留が書けていないことこそがこの作品の最大の欠点であると思うのだ。現代を舞台にしたこの作品のすべては、しかし60年前のシベリア抑留にある。ここが書ききれていないがゆえに、主人公が、あるいは刑事が作品における重要人物が残した俳句の句集から読み取る犯行の謎の種明かしをされても心に響かない。合点がいかない。いや確かにありがちな謎解き物語りとしてのオチはつくのだが、ありきたりだけの作品にしか思えない。それが、途方にくれてしまったということだ。
古くさい正統派のミステリーであっても、文学賞と名づくものなら、きちんと力を持った作品を授賞すべきであろう。残念ながらぼくにはこの作品に力を感じとれなかった。ゆえに評価はそれほど高くはしない。しかしぼくにはあまり面白みを感じなかった本作だが、「お〜いお茶」の川柳だか俳句だかに投稿し採用されたことのある、少しだけ俳句に興味のある家人は面白いと言っていた。本書で扱われる俳句の解釈自体が独りよがりにしか感じられなかったぼくとは、まったく別の感想であった。ひとの感じ方はそれぞれ違う。ぼくの評に惑わされず、面白いか、面白くないか、ぜひ自分の目で確かめて欲しい。


蛇足:しかし来日して殺されたロシアの老婦人が、日本帝国軍人の持つごつい腕時計をショーツに隠していたというのは、どうなのだろう。いったいどんな下着だよ。本当は最初の事件で途方にくれてしまったというのが正解かもしれない。