冬の砦

冬の砦―長編サスペンス

冬の砦―長編サスペンス

「冬の砦」香納諒一(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、ハードボイルド、横浜、私立高校


勤務中、犯罪を犯した少年に拳銃を向け、脅かしたという偽証の告発で奥多摩の警察を懲戒免職になった私、桜木晃嗣32歳。地元では署名運動が行なわれていると聞くが、当面の私には行き場がなかった。そんな私を学生時代の友人村主優太が横浜郊外にある村主学園に雇ってくれたのは、優太の年齢の離れた兄一良太が村主学園の理事長を務めていたからである。柔道部のコーチ兼用務員の手伝いをするようになって半年、私は毎朝一番に出勤をして、学園内を走ることを日課としていた。凍てつく冬の朝、日課をこなしていた私は校庭の片隅で一人の全裸の女子生徒の遺体を発見した。遺体は、優太の姉金山富江の娘佳奈であり、彼女はまた学園に通う生徒であった。現場保存の原則からすればとんでもないことをしたと誹りを受けるかもしれないが、私は彼女の遺体に自分の着ていたトレーニングウェアをかけずにはおれなかった。


つい最近色とりどりの食材でてんこ盛りのデラックス定食のように、ぼくとしては胸焼けをおこしてしまった「贄の夜会」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/44845628.html ]を読ませてもらったばかりの香納諒一。ここ数年、その名前を見かけないと思ったら、ここにきて矢継ぎ早に作品を出してきた。「贄の夜会」、本作、「夜よ泣かないで」そして「ガリレオの小部屋」と、立て続けに四冊。いったいどうしたのだろう?過去、安心して読んできた読者にとっては嬉しいような、しかし「贄の夜会」のように期待を充たしてくれないなら、ちょっとがっかりのような複雑な気持ち。粗製濫造なら困ってしまう。


さて、先の「贄の夜会」を評した際「古臭いミステリー」と評したが、本作もまた「古臭いミステリー」。ただ「贄の夜会」に比べると、本作はぼくの知っている、あるいは期待していた香納諒一の文章であり、物語であり、読みやすかった。作品自体の評価は後述するが、本作も正統派の「古臭いミステリー」あるいは「古臭いハードボイルド」であり、そしてそれはやはりいまどきのものではない。しかし事物を坦々と描写する主人公の語り口、それは男の小説の文体であり、ぼくには好ましいものであった。
もっともそれは読みやすさという問題を評価した場合である。この作品の32歳という若さの主人公がこの口調、この文体を使うことが合っているかどうかは別の問題。高校時代の教師だった年上の女性との、10年前の当時彼が大学を卒業するころのエピソードを絡めるにおいて、計算上この年齢になってしまうことは理解できる。しかし果たして32歳の若さの男性がここまで老成したように、諦念の感情で訥々と語ることができるのだろうか。32歳でなく、40歳を越えるような「大人の男」なら違和感なく読めたかもしれない。しかし、いまどきの32歳は決してこれほどの大人にはなりきれていないと思うのだが、どうだろう。ふと、主人公の年齢を思うと違和感を拭えなかった。


そして読後感はといえば、正直に語ればちょっとがっかりした。それはまず主人公が気付くこの少女の死因とそこに隠されたある行為にあった。そこに確たる物的証拠があるわけでないのだが、主人公は以前勤務していた新宿署での経験より、少女の死因はもとより隠された行為さえ見出してしまう。死に至る物理的な部分の推理もどこかで聞いたような、まさに「トリック」であり、その推理を補強するための「埃がそこだけ残っていない」という描写も正直古臭い。いまどきの小説で、使い古されたような論理をこねくり回すようなトリックを持ち出されても興ざめだ。あぁ、なるほど本格が廃れていく訳だ。そして一番気に入らなかったのは、そのことを明らかにすることが必要だとは思えない少女の隠された行為をあからさまにすること。近親憎悪たる血の繋がる「女」である母親への、思春期の少女の複雑な感情の存在を作家が表現したいということは理解できる。しかしその少女の感情を描くことが本当にこの作品に必要だったのか、ぼくにわからない。遺体となった少女の顔が見えない作品で、少女の感情だけ持ち出されて説明されても、成程と納得すはするが、それだけだ。説明の収まりは悪くない。しかし物語という観点からするともう少しこの少女を描いてほしかったのかもしれない。
それは作品全般に感じる。10年前の家庭内暴力からの避難施設(シェルター)での惨劇の記憶を共有する少年、少女たち。それぞれの経緯より、10年を経て学園に集う彼らの生活は語られるが、その人間、顔まで見えてこない。あたかも古臭い小説の登場人物たちのようなわかりやすい設定。不良になった青年。学園で真面目な好青年を演じる青年。風俗で働く少女。学園長の養女となり、頑なにバイオリンを弾く少女。同じ経験、心の傷を持った少年少女が集う。さらに主人公がかって愛を語った年上の女性まで登場し、再会を果たす。この作品のよさが、それらのことを劇的に描くのでなく坦々と描くところにあるのは確かなのだが、しかしやはりどこか「お話し」めいている。あぁ、そうか。ぼくには「贄の夜会」にも感じたこの作家の書く物語の都合のよさが気になるのだ。同じ作家が、同時期に出版された少年、少女の持つ暗闇をえぐるふたつの作品は、しかし本当に現実の少年少女の姿を映しているように思えないのだ。あたかもドラマの設定のようにピタリと嵌る登場人物。坦々と抑えた気持ちいい文章ではあるが、物語が稚拙に思えるのだ。それは例えば少女の日記に現れる事件の鍵を握る人物のイニシャルの問題にも現れる。いや、こんな日記をいまどきの少女が残すことさえ違和感を禁じえない。とにかくひとことで言えば、やはり「古臭い」。
志水辰夫が「うしろ姿」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/32888977.html ]で自分の作品を「過去」のものとしたことがふと思い出された。あるいは樋口有介がここ一、二年発表している小説がかっての「樋口有介らしさ」を見せない作品であることを思い出した。作家のスタイルは人それぞれで、勿論構わない。しかし「古臭い」ことが決して長所であるとは言えない作品とはどうなのだろう。
いや、ぼくはそれでもこの作品は嫌いなのではない。この雰囲気、匂い、そうこのあくまでもネオ・ハードボイルドではない、ハードボイルドとしての作品を好ましく思うのだ。それがゆえに、この物語の稚拙さ、あるいは古臭さが残念で仕方ない。もしかしたらハードボイルドとはもはや古臭い物語でしか語れないものなのかもしれない。しかし仮にそうだとしても、もう少し唸らせてほしいとわがままな読者は思うのだ。


物語は少女の遺体の発見から、一見平和に見えた学園を取り巻くさまざまな事件が浮き彫りにされる。ある教師たちの不倫や、生徒の売春を密告する怪文書、あるいは学園の用地買収に絡む理事会内部の軋轢。理事長である村主一良太の依頼により、調査をはじめた私は自分の気づかぬうちに学園で起こっていた事件を知る。
そして10年前に起こった家庭内暴力からの避難施設(シェルター)での惨劇を共有するこどもたちの存在。学園を通し、あるいは彼らを通し、私がまだ少年であったころ最愛の女性と信じた女性と再会する私。彼女は10年経っても、変わらないままだった。ならばなぜあのとき姿を消したのか。
学園を舞台にして起きていた脅迫事件は殺人事件に発展する。人があっけなく殺される様子を見てしまう私。そして大人たちへの復讐を誓うこどもたちは思い出の廃墟となった遊園地で、事件を起こす。あるいは私に明かされる学園に隠された秘密の真相。
ほろ苦く、やるせない物語の行き着く先は、どこなだろう。


大人の、男の、物語である。先に述べたように問題点はいろいろとある。それゆえに高い評価は避ける。しかし、この作品、決して嫌いではない。こういう古臭い作品も、たまにはよい。そう思える人にはオススメかもしれない。


蛇足:作品に扱われる、廃園となった遊園地はぼくの自宅のそばで、車で10分くらいの距離にある。作品を読み、思わずその場を訪れた。そこには綺麗に整備された建設途中の公園と、新しい薬科大学が建っていた。廃墟は、いつまでもそこにあるわけではない。
また廃墟がなくなっていたことが、なんともこの作品に似合う気がした。
蛇足2:数少ないネットの書評では、この作品は概ね好評である。またもやぼくはへそ曲がりであるようだ・