雨のち晴れ、ところにより虹

[rakuten:book:11882770:detail]
「雨のち晴れ、ところにより虹」吉野万理子(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、湘南、短編、


※ネタバレほどではない。しかし未読者は注意!


正直に述べれば、合わなかった。読んでいて、むずむずとした居心地の悪さというか、相容れない違和感を覚えた。去年の秋ころからこの作家の名前をちらほらネットの他の本読み人のページで見かけていた。これは根拠のない勘に過ぎないのだが、たぶん合わないだろうと予感していた。しかし本作が、ぼくの住む鎌倉を含む湘南を舞台にした作品集であることを知り、丁度同じように鎌倉の古びた小さなホテルを舞台にした「モーテル0467」[(甘粕りり子)http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/43548218.html ]に予約をいれたのと同様に、市の図書館のホームページから、予約を入れてみた。


別にとりたてて悪い作品だというわけではない。ただ「モーテル0467」にも感じたような、「湘南を舞台にした」「カタログのようにきれいなだけ」の作品、それだけのものしか感じられなかった。いわゆるぼくに苦手とする女流作家の作品にしか過ぎなかった。ホスピスで死を見つめる男の物語、表題作である「雨のち晴れ、ところにより虹」においても、個人的にはもっと突き詰めて生をあるいは死を見つめて欲しかった。ざらざらとした読後感が残る。いや、作家の狙いは、さらりと読める、きれいでかつ少しだけ心をあたたかにする作品なのかもしれない。なるほど、その意図は読める。しかしそれがぼくにはきれいすぎて、かつ薄っぺらなものにしか感じられない。もっと深く、より深く。それはあくまでもぼくという読者が求める作品のありかたで、本書にそれを押し付けることがどれほど無意味なものなかということは理解している。しかし、もし、いままでぼくのレビューにつきあってくれて、ぼくがどういう作品を評価し、愛してきたかということを知っている方なら、おそらくこの作品に対するぼくの違和感を理解してもらえるのではないか。さらりと読むためだけの本、ぼくは読みたくない。


もちろん、ところどころ唸らせるような場面がないわけではない。テクニックとしてのその部分を評価し、褒めることもたやすい。例えばこの作品は「湘南」を舞台にしているが、決して連作短編ではない。しかし表題作「雨のち晴れ、ところにより虹」の主人公である、鎌倉の海に近いホスピスに入院する須藤という男の影が幾つかの話にさらりと描かれる。第一話では主人公の父親で逗子に住む男がホスピスに入院する友人を訪ねるエピソードが盛り込まれる。さすがに定年を経た男の友人が、三十代の予備校の事務員であった須藤であったわけではなかろうが、さらりと鎌倉のホスピスが触れられる。第二話では、売れっ子の予備校講師である母親の異動の話を、その娘である高校生の主人公に語る事務員として登場する。あなたももう大人なんだから、お母さんの活躍を邪魔せずに自由にしてあげてほしい。第三話では、三十代の女性編集者である主人公たちが厄祓いに行く鶴岡八幡宮ですれ違う巨大な女性。よく太ったその女性は腰のまがったおばあさんを介護しているが、第四話、表題作で須藤を看護する介護士常盤さんであろう。第四話は須藤の物語。そしてうまいなと思ったのが第五話で、ここでは須藤の影を感じさせない。読み落としでなければ、巧みに読者の期待をかわしたという感じ。そして第六話で、またも須藤の影が出てくる。既に死んでしまった須藤。彼を思う女性の姿。片思いといい、30そこそこと書かれていたからには、須藤と同じ年齢で36,7歳の須藤を看護した常盤さんとは違う人なのだろう。それまでに須藤にそんな風に関わる女性の姿は常葉さん以外にいなかったので、ちょっと違和感を覚えないわけではないのだが、。そんな須藤という男の影がそれとなくそれぞれの作品をつなげている。こういう仕掛けは嫌いではない。しかし作品全体の「きれいさ」、いや「きれいなだけさ」がどうにもぼくには合わなかった。
本当に、とりたてて悪いわけではないのだけれど。


第一話「なぎさ通りで待ち合わせ」
食生活について相容れない若い夫婦の別離の危機に、夫の父親である男性が乗り出して・・。
※妻となる女性の食生活に対する思い込みがどうにも共感できなかった。もっとも、男性の父親の味に対する記述も共感を覚えるまでに足りない。いい話のはずなに、なにかカタログを読まされたような気分。さいごの「オカラ」もつまらない。あ、初っ端からつまづいたんだ。


第二話「こころ三分咲き」
母ひとりの、娘ひとりの家庭。母は予備校の売れっ子講師だった。そんな母が、大学は下宿してもいいのよと言い出した。母に、新たな男の人の影が?揺れ動く少女の心。そしてその真相。
※できすぎのお話し。最後の謎解きも、ちょっとリアリティーに遠いのでは?少しネタバレになるが、まず一緒に暮らす、受け入れる家族に役所も確認をとるのではないだろうか。いや、これは想像に過ぎないのだが。


第三話「ガッツ厄年」
厄年を迎えた女性編集部員。ある日、パワーハラスメントの訴えが持ち上がった。厄祓いをしよう。
※個人的に、人のものを奪おうとする女性の姿は、ドラマや小説のなかでしか見たことがないのでまったくリアリティーを覚えなかった。まさにお話し。無意味に隠れた美味しいレストランにはいる描写が、カタログ雑誌を意識させた。


第四話「雨のち晴れ、ところにより虹」
会社の健診で、肺に陰が見つかった。もはや手遅れの癌。鎌倉のホスピスに入院した須藤と、介護士常盤さんの物語。ある日、巨大に等しく肥え、太っていた常盤さんがダイエットを始めた。
※小学生のころ、大好きな女の子だからこそいじめてしまう。それが思いもかけない波紋を呼んでしまう。ありがちな話。ほろ苦い後悔と、忘れられない初恋。そこまではいい。しかしすでに結婚して幸せなはずの女性が、苛烈なダイエットを行なう様子は痛々しく、またその理由が初恋にあることに対しての不快感さえ覚えた。初恋を大事にする思いは理解できないわけではないが、ぎゃくに女性の生々しさを見せつけられたような気がする。


第五話「ブルーホール」
湘南の海を眺める三人に男の物語。海を知り尽くした老人に連れられ釣りをする孫の少年。彼らにひとりの老年の男性が近づいてきた。ダイビングとはどんなものですか?空を翔けた男にとって、空も海も畏怖すべき自然の大きな力。そして少年は誰も知らない宇宙を目指す。
※この作品集のなかでは異色の作品。空と海と宇宙を巡る三人の男たちの物語、の構図のはずなのに、どこかこの作品集のなかではちぐはぐな印象が強い。これはこれで単独の作品として、三つの世界をもっと対立して描くべきモチーフのように感じた。


第六話「幸せの青いハンカチ」
大学の体育の時間で知り合い、親友としてつきあってきた佐和子。佐和子の結婚式に招かれた主人公、佳苗。そこには佳苗の知らない佐和子の姿があった。混乱し、揺れ動く主人公。
※高校時代を大勢で過ごした友人とも、その後の会社生活をともに過ごした相手でもない、大学の体育の授業を通して知り合ったふたり。ふと気づくと、自分にとって唯一の親友だと思っていた相手が、大勢の友人に囲まれ、自分たちふたりの世界とは別の世界をもっていることに気づく。不器用な自分には彼女しかいないのに。そんなゆれ動く女性の気持ちを描いた作品。整理されていない、気持ちの混乱ぶりに同じ立場の女性はリアリティーを感じるのかもしれないが、男のぼくには理解できない。悪く言えばヒステリー?


むむむ。率直に思ったことを書くと評価できないポイントばかり。この違和感はぼくだけなのだろうか?


蛇足:他の本読み人の方の記事を読むと、どうも「須藤さん」ではなく、「常盤さん」をキーにしているようだ。第六話の女性も常盤さんで読んでみると話の流れ的にはしっくりくるのだが、でもこの女性も常盤さんのキャラクターとはちょっと違うような気がする。
それからぼくが「巧みにかわした」と評した部分は、もしかしたら第四話で常盤さんが須藤を連れて腰越の漁港に行った日の話しかも。突然の風と雨の日のふたつの物語。
しかし、またもやぼくだけ「評価しない」作品のようですね・・。あぁぁ我ながら、偏屈。

一瞬の風になれ3-ドン-

「一瞬の風になれ3-ドン-」佐藤多佳子(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、青春、陸上、少年


さていよいよ三部作の最終巻。三部作というより、三冊でひとつの物語。前巻のレビューでこの作品の構成を「起承転結」と書き、前巻を「承・転」としてみたが、語感からすると「序破急」の三部構成のほうがぴったりくるか。最終巻である三巻のその軽やかな加速のような物語の進みは「結」という言葉より「急」という言葉のほうがぴったりくるような気がする。いやあくまでもこれは語感と、物語の進みを振り返ってみた場合であり、物語の構造について(今回は)論ずるつもりはない。


気持ちよい小説だった。マンガのような予定調和の物語といってしまえばそれまでなのかもしれない。しかしサッカーで一度挫折を味わった主人公新二が、幼少のころから敵わないと思っていた友人、連とともに陸上という新しいステージで、少しずつ選手として、そしてひとりの人間として成長していく姿はとても好ましいものだった。物語は高校一年から三年という「高校生活」という貴重な期間を、「部活」という人と人の触れあいの場を舞台に描く。
陸上という競技が基本的に「個人」種目のなかで、新二が、いや新二を陸上のステージに引っ張り込んだ幼少からの友人、連があくまでも新二との「かっけこ」をその根っことし、しかし人と関わりあい、自分中心の世界から仲間の世界に入り込む。あるいは新二自身もその連の背中を追いかけ、ひとつひとつの走りを大事にしながら成長していく。人と人の触れあいを通じ成長している様子が描かれればこその青春小説であった。そして作品の最後は青春小説の常套として、このあと広がる世界を予感させることで終わる。中途半端な終わり方かもしれない。しかしこの物語においては、これで終わることも予定調和であろう。新二の物語のこの先は、読者の想像のなかにある。先をもっと知りたい、読みたい。思いはある。しかし潔くこの先を読者に委ねることで、作家は気持ちよい余韻を読者に与えた。このさき新二を待つきらきら光るコースをぼくらは想像するのだ。


いまさら、この作品のあらすじを追うことは意味がないだろう。しかし敢えて、備忘録として簡単に記しておく。


交通事故で右膝を痛めた大好きな兄、健ちゃん。一時の心の荒れを乗り切り、手術を受けることを決めた。その先には長い苦難があるだろう。しかし健ちゃんは「前と同じにできないこともあるかもしれない。でも、それでも、前よりもいいプレーをする。あきらめない。俺はあきらめない」自分に言い聞かせるように語った。
しかし何気ない口調で呼びかけられた一言は新二の心に刺さった。「新二」「怪我するなよ」
別の競技とは言え、同じスポーツという世界を選んだひとりの男として認めてもらった。そのことをもっと早く気づくべきだったのかもしれない。俺は走る。そう心に誓う新二だった。
春の合同合宿では、陸上部の顧問であるみっちゃんが、恩師である鷲谷高校の名将大塚先生にとんでもないことを言い出した。「今年は4継、鷲谷に勝ちますよ。100mも、総体の決勝で勝負しましょう」「一之瀬か?」尋ねる大塚先生に「一之瀬と神谷です」。ハッタリは言わないというみっちゃんが語る「デカい夢」。
高校三年生になり新しい新入部員鍵山を迎えた春高。鍵山は才能はあるが、性格に多少難があった。波紋を呼ぶ新入部員。部長として新入部員に対して気遣いを見せるいっぽうで、新二は次々と大会に出場し結果を残していく。
部活動の仲間との交流を通しながら、一本ずつ、しっかりと踏みしめていくように成長する新二。そして新二が辿り着く先は・・・。


作品は例えば、厳しい練習のなか体中のエネルギーを使い果たし完全燃焼して、動けなくなる新二の姿、あるいは結果を求めるのではなく、同じ仲間として4継を走ってきた根岸と走りたいという思いと陸上部として目指すべき姿の葛藤、あるいはマイルと呼ばれる競技でのアクシデント、幾つものエピソードが交えられ進む。あ、忘れてはいけない新二と谷口の微笑ましくも不器用なロマンス。
しかし物語の本筋は、新二が走ること。主軸はそこにある。友人である天才スプリンター一之瀬連と違い、不器用に一本、一本を噛み締め、踏みしめるように走り、成長する姿。
まさに「お話し」のように、最期は頂点に辿りつこうとする新二。その姿を「お話し」と言い切ってしまうのも決して間違いではない。結局は才能がある男のドラマ。そう言い切ってしまうのも間違いではない。
しかし、才能あふれるライバルたちの間で劣等感を抱きつつ、一歩一歩成長していく新二の姿は、確かに「何も持たない」われわれの心に共感を抱かせ、また感動を呼んだ。とてもわかりやすい物語である。だが青春小説の一番のポイントは、誰にもわかりやすく共感を呼ぶこと。それは多くは成長というものを最大の特長とし、また魅力とするものだと思う。


この作品が名作たりえたか、どうか。それは非常に難しい問題である。しかし少なくとも楽しく、そしてはやる心で読み進めた。おもしろかった。これがこの本に与えるぼくの評価である。オススメの物語!。


蛇足:しかし、実は健ちゃんのその後とか、谷口とのその後は、もう少し触れて欲しかったという思いは残る。とくに谷口との不器用なロマンスは、ね。

わたしを離さないで

[rakuten:book:11820171:detail]
「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ(2006)☆☆☆☆☆
※[933]、海外、現代、小説、文芸、文学


あちこちで静かに、しかし厳然と良い評価を残す作品として見かけてきた本書のタイトル。カセットテープのイラストの表紙は軽めの小説を期待させたが、読んでみたら、まったく違った。本書の解説(英米文学研究者柴田元幸)に書かれる、「細部まで抑制が利いた」「入念に構成された」物語という言葉が確かに一番似合う作品であった。


31歳のキャッシー・H。十一年間優秀な介護人を続け、しかし、もうすぐそれを辞めようとする人物を主人公とし、語り部とした物語。それは彼女が幼少の頃から過ごしてきた謎の全寮制施設ヘールシャムでの出来事の思い出から始まる。
トミーあるいはルースという幼い頃からの友人をはじめとした同じ寮を過ごす級友たち、あるいは保護官と呼ばれるエミリ先生やルーシー先生、時折ヘールシャムに姿を見せるマダムという存在、そして「提供」というキーワード。主人公の目を通す彼らの生活が緻密なディティールで積み上げられ、描かれていく。そこには常に自分が正しくありたい、何かを信じたい少女ルースに振り回されながら、しかし確固たる自分を持ち続けた主人公キャッシーの姿があった。幼少からヘールシャムで過ごし、青春期を迎え、そしてヘルーシャムを離れ、コテージの生活を経た上で大人になり、介護人として一度は別れたはずのの友人らとの再会、そしてその後の生活が抑制の利いた文章で綴られている。物語を読み進めて行くうちに、そこが我々が想像していたような「普通の」施設、「普通」の生活でない世界が描かれていることが明らかにされていく。しかし、それは「細部まで抑制が利き」、「入念に構成され」坦々さと描かれるがゆえに、読者である我々も驚きを感じつつも、しかし坦々と読み進めていくしかない物語。


すべてを読み終えたあと、いや作品の終盤に、作品の始まりに記された「一九九〇年代末、イギリス」という言葉と、主人公が長く続けた「介護人」を辞めることの表す意味に気づいたとき心が震える。あぁ、まさしく良質の「物語」に出会った、と。


多くのネットの書評でネタバレに気をつけ、あるいは本書の解説で「まずは漠然とした言い方で賞賛したあとは、内容をもう少し具体的に述べるのが解説の常道だろう。だがこの作品の場合、それは避けたい。なぜならこの小説は、ごく控え目に言ってもものすごく変わった小説であり、作品世界を成り立たせている要素一つひとつを、読者が自分で発見すべきだと思うからだ。予備知識は少なければ少ないほどよい作品なのである(だからといって、再読に耐えないということではないが)」と述べることが、まさに正鵠得ていたことに気づく。たしかに幾つかのネットの書評で「ネタ」に言及したもの(それはカズオ・イシグロのインタビュー記事にもあった)もあった。しかしそれでも、詳細なあらすじを残すことを旨としてきたぼくのレビューであっても、やはりこの作品のあらすじを残すことは遠慮しよう。なぜならこの作品は、まさしく「物語を読むため」の作品であり、「未知なる物語に出会う」ことが最大の喜びの作品であると信じるからだ。
未読者は決して作品を読む前になんらの情報がないほうがよい。その意見にぼくも至極同意する。ただ、読むこと。
主人公の語りによる坦々とした物語。坦々と描かれるが故に、静かに心に染み込む哀しみ。すべて読み終え、あるいは終盤で明らかにされていくこの物語の謎を知ったとき、主人公たちの立場と想いに心を馳せてみよう。その不安、哀しみ、いらだち、彼らが信じたかった希望というものの不安定さに心がいっぱいになる。この作家はなんと静かに、坦々とこの不思議な世界をあたかもそこに、当たり前にあるように(あったかのように)描いたことだろう。


浅薄な人間なものでカズオ・イシグロという名前には本書で初めて出会った。英米文学界では随分評判の小説家らしい。そういえばジェフリー・ディーバーリンカーン・ライムシリーズ最新作「12番目のカード」のなかで、犯人に狙われる主人公の勉強家の黒人の少女が、彼の作品をレポートするという描写もみられた。
最近、めっきり国内の娯楽小説ばかり読んでいたががたまにこういう作品と出会うのも読書の楽しみである。


一度読み終え、作品の謎を知ったあとも、さらにもう一度再読をしこの作品世界に漂う哀しみのようなものを深く味わいたいと思える一冊。まさに坦々と力を湛えた作品だと思う。しかし未読者は最初の一回目は決してなんの先入観、前情報なしに読むべきだろう。
皆が「名作」というこの作品、一体どこが「名作」なのだろう。そう思いながら手に取り読んで味わって欲しい一冊。


この坦々とした世界、あるいは淡々と語られた世界は、強くひとにオススメすることは似合わない。しかし読書人として、ぜひ読むことを勧めたい。


蛇足:「文芸」書なのでしょうか?もはや「文学」な気がするのですが・・。
蛇足2:作品と直接関係ないのですが、最近「淡々」と「坦々」の使い方が気になる今日このごろでありました。最近敢えて「坦々」を使うようにしてますが、本当はどちらが正しいのでしょうか。言葉の遣い方、遣いわけは難しい・・。

神の箱舟

[rakuten:book:11891126:detail]
「神の箱舟」高野裕美子(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー(?)、中国、軍事兵器、高校生


本書オビより
「今の世の中何が起きたって不思議じゃない。スラップスティック・サスペンス 中国有人宇宙衛星打ち上げ成功の陰で、実はとんでもない極秘兵器が、、、、」
「中国初の有人宇宙衛星・神舟5号打ち上げの成功の裏で、世界が度肝を抜くナノテク兵器・携帯型ミサイル誘導装置が開発されていた。その名は<光矢>。
この極秘兵器が強奪され、中国当局の必死の探索の網の目をぬって、なんと、日本の女子高生の手に渡ってしまう、、、、、。フィクションが現実を先取りするか!
今や、西欧に互して宇宙開発の優位に立ち始めた中国が、虎視眈々と狙うスペース覇権をテーマに描くサスペンス長編の傑作。」
これ本当に傑作?それに奪われるのは極秘兵器というよりミサイル誘導装置だろ?


オビを見ると香ばしい匂いのする、軍事機密平気に係わる緊迫したサスペンスを予想させるのだが、読み始めるとどうにも平板。緊迫感がまったくない。その大きな理由は、スペース(宇宙)覇権、あるいは世界覇権?を担うキーとなるはずの中国の軍事兵器の脅威がまったく感じられないこと。物語のほうはどんなににスラップスティックなものであろうが、まず前提となる脅威がきちんと描かれ、読者に納得されなければこういう秘密兵器の奪い合い的ドラマは、始まることさえ出来ないのではないだろうか。


ひょんなきっかけから中国当局の開発した巡航ミサイル照準・誘導装置を手にいれた女子高生朝倉未来、そしてその友人千石ゆかりと中国当局との追いかけっこの物語。
中国当局の動きを阻む、台湾国家を愛する台湾マフィア<新竹会>のメンバー、あるいは女子高生に何の気なしにミサイル誘導装置をあげてしまった、100円ショップを経営する宝永商事に務める中国駐在のうだつのあがらない中年社員末広英輝、その友人で自分は選ばれた人間だと思い込み、自分の利のためなら会社の機密を売ることさえもまったく気にしない、ナノテク産業を目指すNKアトラスの社員小田切晃一、そして小田切の妻に依頼され、小田切の浮気の証拠を集める探偵会社<レディーホーク>の調査員六篠理沙などの面々を加え、スラップスティック(どたばた)な追いかけっこが始まる・・・


一歩間違えば、中国当局という巨大な権力の陰謀というシリアス・サスペンスの物語にもできたし、あるいは渋谷の街を根城にたむろするいまどきの高校生を前面にだした、おちゃらけスラップスティック・コメディーにもなりえた作品のはずなのに、そのどちらにも寄ることなく、ただ坦々と追いかけっこが続く物語。冒頭に書いたとおり、追いかけっこの元凶となる秘密兵器(誘導装置)の持つ脅威が、作品を通してあまり感じ取れないことが一番の敗因。有人衛星のエピソードを描きながら、標的はどうも巡航ミサイルの誘導装置のよう。宇宙を舞台にした脅威なのか、はたまたいわゆる一般的な軍事兵器の脅威なのか、それも明確に感じられず、ぶれている。もっともこれはきちんと読み込めば解決できるものなのかもしれないが、通勤電車のなかで読んでいる限りは、なんだかよくわからず、ただ漠然とした「中国の秘密兵器」にしか過ぎなかった。しかも、GPSで追いかけられるはずの腕時計型誘導装置が、電源を切られると追跡できないとか、所持している人間がわかっているのに、どこか悠長としているとか、こういう作品ならではの手に汗握るドキドキハラハラが感じられない。結果として、かなり酷い言い方をあえてさせてもらえば、小学生の作文のようなただ坦々とした追いかけっこを読まされる。
中国の地名を、きちんと中国語読みでカナをふったりとか凝っているところもあるのに、あまり感心できなかった作品。


これはくそ忙しい日々のなか、きちんと読み込めなかった読者の責任なのだろうか?そうだとしたら、ごめんなさい。

パパとムスメの7日間

[rakuten:book:11903289:detail]
パパとムスメの7日間五十嵐貴久(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、入れ替わり、父娘、IF、コメディ


すごくおもしろかったとか、オススメとまでは言えないが、個人的にはかなりおもしろく読めた一冊。でもそれだけ。悪いわけじゃないのだが。


老舗化粧品メーカー光聖堂の広報部副部長を務める私、川原47歳。娘、小梅16歳とは会話さえない。広報部副部長といえば聞こえはいいが、広報部は会社では象の墓場と呼ばれる、率直に言えばラインからはずれた部署。要領も悪く、社内事情にも疎く、とりえは真面目に仕事を行なうくらい。そんな私が新商品プロジェクトのリーダーに命じられたのは人事の都合だったのだろう。老舗化粧品会社である光聖堂は、典型的な創業者一族のオーナー会社。主力商品である“スーパービューティー”シリーズをはじめとしたブランド力の高さは他社を圧倒しているが、それがゆえの殿様商売で、後に続く商品の開発に遅れ、徐々に地盤沈下の様相を呈していた。貧すれば鈍す、広告費を削減すれば商品は売れなくなる、そんな悪循環を繰り返していた。そんななか四代目オーナー社長の一声で発足した新商品プロジェクト。かって手ひどい失敗をしたフレグランス商品で、光聖堂の弱点である女子中高生、大学生の層を狙うというもの。だれもやりたがらない仕事が私に押し付けられたというのが、正直なところ。尤もプロジェクトも当初は、各部門より人が集められ、メンバーも意気軒昂としていた。しかしプロジェクトがはじまってから社長以下、フレグランス商品が日本のメーカーで成功した試しがないことを知り、風向きは変わった。いっそその時点で中止してしまえばよかったのに、朝令暮改で止めることができないという大人の事情で存続されたプロジェクトは、予算もどんどん削られ、とりあえずの企画案を提出するところまでなんとかこぎつけることができた。あとは10日後の社長以下オーナー一族が役員を務める通称、御前会議で決裁されるだけ。
そんななか事件は起きた。娘の小梅と乗った電車で車両事故が起きた。その事故をきっかけに私と小梅の中身が入れ替わってしまったのだ。
御前会議を控えた私と、大好きなケンタ先輩とのデートを控えた小梅に起こる、「入れ替わり」によるドタバタを描くアットホーム(?)コメディ。


年頃(高校二年生16歳)の、ちょうど父親をうざく思う年代の娘と、これといったとりえもない(割にうまくことなかれで会社を泳いだのか、老舗化粧品メーカーの閑職広報部の副部長に納まる)中年サラリーマンの父親が、ある事故をきっかけに中身が入れ替わるという物語。そしてお互いの知らないそれぞれの生活で起こるドタバタを描く作品。
入れ替わりといえば、往年の名作映画「転校生」の原作となった児童書「おれがあいつであいつがおれで」(山中恒)がまず思い出されるが、まさにそれと同じ。入れ替わりによるドタバタをおもしろおかしく描く作品であり、あくまでも楽しく読むための作品。「転校生」もしくは「おれがあいつであいつがおれで」が、もしかしたら思春期の男女の心の機微まで描くことができたがゆえの名作とするならば、この作品はそこまでの深みはない。入れ替わりによって年頃の娘が父親の知られざる人間の部分を知り、見直すとか、あるいは父親がいまどきの娘の生活を知ることで変わるとか、そういう「ありがちな物語」は、ない。そこにあるのは立場が入れ替わることで起こるドタバタだけ。悲喜劇をユーモアたっぷりに、たぶん若い世代の生活をきちんと取材した上で描かれたコメディ。しかしその潔さ、「読みもの」っぷりがこの作品を生き生きとしたものにしている。
予定調和の物語。最後にお約束のほんのりとした温かみを残すものの、年頃の娘は容赦ない。簡単に「人が変わらない」こと、それがこの作品のリアリティーなのだ。


正直、「入れ替わり」というテーマを知ったとき食指は動かなかった。これが五十嵐貴久の作品でなければたぶん読まなかった。変幻自在にいろいろなジャンルの作品を出す、五十嵐貴久という作家。当たり外れが多く、作品の質という意味では定まらず、しかしどうにも気になる作家。そんな作家が新作を出した。
「入れ替わり」。このテーマが難しいのは、その設定にリアリティーを持たせることが難しいから。入れ替わることで起きる状況は、ちょっと想像するだけでもおもしろいシチュエーション。仮にお互いをよく知っている相手であっても、入れ替わった生活には齟齬が出る。ましてや中年サラリーマンである父親と年頃の娘、そこに起こる齟齬のドタバタを想像することは容易だ。しかし問題はどうやって「入れ替わり」を起すか。結局、この作品は鉄道事故というベタな設定を「入れ替わり」の原因とした。仕方ない。この作品が描きたいのは「入れ替わり」のリアリティーでなく、「入れ替わり」が起きた状況を描きたい作品なのだ。確かにいまどきの娘のあくまでも自己中心的なふるまいに、娘の姿になっても振り回される父親の様子は哀しくも可笑しい。それはそれで充分おもしろい。しかしぼくという読者は相変わらずひねくれているというか、あと少しを求めてしまう。「入れ替わり」がおもしろいのが自明なら、やはり「入れ替わり」自体にリアリティーを持たせてほしいのだ。なぜ、どうして「入れ替わり」が起き、それがどんなにばかばかしい理由であれ、どこかに信憑性がある、そんなものを求めてしまう。そんな作品はないのだろうか。


ただ、本作品は何度でも言うように個人的にはおもしろかった。それは今、ちょうどぼくが、思春期を迎えようとする13歳の娘を持つ父親だからという部分が大きいのだろう。下着姿で歩き回るので、母親を通して注意すると「親子だからいいじゃない」と反論する娘。「私はあけっぴろげだから」って、。それはちょっと違うゾ。用事があり携帯に電話しても、気がつかなかったと苦しい嘘をつく娘。カラオケ代をたかろうと、一緒にカラオケに行こうとせがむ娘。彼女がもう三年も経てば、この作品の主人公と同じように、父親をうざく、ないがしろにするのだと思いながら読んでいるとなんだか自虐的な楽しさを感じたりした。もっとも、ぼくはそれほど自分の娘に対して過度な思い入れは持たないのだが・・。
この作品は年頃の娘を持つお父さんにはオススメの一冊。自分にはわけのわからない生活をする娘だが、無茶はしてないと、ちょっとだけ安心させてくれて、でも先はわからないと、少し不安にさせてくれる作品かもしれない。軽く楽しく読む作品として、お父さんにはオススメしたい。ただ万人にススメるほどではない。残念ながら。

一瞬の風になれ2-ヨーイ-

「一瞬の風になれ2-ヨーイ-」佐藤多佳子(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、青春、陸上、少年


※あらすじあり。未読者は注意願います。


なるほど三部作の意味はここにあったのか。本作は「一瞬の風になれ」三部作の第二部、あるいは第二巻。主人公の新二はシーズンオフを経て、高校一年から二年になった。新たに新入部員を迎え、先輩となった。部員の人数も増えた。
第一巻が「起承転結」の「起」であったとするなら、この第二巻はまさに「承」と「転」。
第一巻ではじめて陸上に触れた主人公新二が高校二年に進級し、さらに陸上のおもしろさを知り、またその世界を県というレベルから関東というレベルまで広げる。あるいは同じ陸上部の女の子との間にほのかな想いを抱く。ここまでが「承」。
そして思いもかけない大好きな兄に襲い掛かる事故と、それによる新二の精神的な動揺、それは新二の前に立ちはだかる壁となる。ここが「転」。
さていよいよ次は第三部完結巻。おそらく物語は新二が高校三年生になるのだろう。そしてそれは新二が高校ではじめて出会った陸上という競技、そして春野台高校陸上部という人の集まりに対して、ひとつの区切りをつける物語となるのだろう。連なる巻でひとつの作品を構成している作品の、その一冊を取り出し評価することがあまり意味を持たないということは過去何度も述べてきた。だから、本作のレビューは、あらすじを備忘として記すにとどめる。
ただこの一冊は、第一巻をきちんと引継ぎ、その面白さを損ねることなく、読者をさらに面白くどきどき興奮させ、次の巻へ引き継いでいる。あぁ、早く三部を読みたいと思わせる。リレーの中間走者の仕事をきっちりこなしている。さてさて、いよいよ第三部。期待と、そして少しの不安を持ちながら、読むことを心待ちにしている。


大好きな兄に健ちゃんが、ある日「スパイクを買ってやるよ」と言ってくれた。高校に入りサッカーをやめ、陸上をはじめてからすこしぎくしゃくするようなこともあったが、一生懸命陸上に打ち込む新二を許し、認めてくれたかのようにかけてくれた言葉。
健ちゃんはいよいよジュビロに入団することになった。一年ごとに契約をする厳しい社会。その契約金でシューズを買ってくれる。「いいシューズを履けよ、新二」「最高のヤツ、履いとけよ」
同じ部活の谷口若菜から相談があるとメールをもらった。谷口は、新二が少し気になる女の子。おとなしそうだが、しっかり自分を持った女の子。新二はそう感じていた。でも、彼女は同じ中学出身の、神奈川の陸上の星仙波にあこがれて陸上をはじめ続けている。そんな谷口からの相談は、短距離から中長距離に変わらないかと先生に言われているということ。「可能性」そんな言葉で、谷口を励ます新二。そして他愛ないおしゃべりのなかで谷口が母親を亡くし、弟と交代で食事を作っていることを知り、また新二の兄、神谷健一を知っていることも知った。
春期合宿を鷲谷高校と合同で行い、いよいよ新学年。新たに後輩となる新入部員を迎え、二年生となり、先輩となる新二たち。幾つもの大会を経てさらに陸上に打ち込み、楽しむ新二。
そんななかで連の姿勢が変わった。いままで自分勝手なだけの連だったのだが、ひとりで走るより仲間と走る4継(リレー)に積極的な姿勢を見せるようになった。県大会で好成績を叩き出し、南関東出場をもぎ取る春高陸上部4継チーム。しかし連はそのレースで故障を起した。左太腿の裏側の肉離れ。そんなにひどくないらしいが、全治一ケ月はかかるらしい。
南関東の出場は無理だ。きちんと治せ。顧問の三輪先生の言葉に「間に合わせる」と食い下がる連。そこには三年生の、最後の試合となる守屋さんと一緒に更に次に行きたいという連の想いがあった。しかし無理をしようとする連を、三輪先生は激昂して止める。それは三輪先生自身の過去のエピソードに繋がる理由からだった。
連の代わりに根岸が出た南関東大会であったが、やはり関東の壁は厚かった。練習より一秒もいいタイムを残せたが、敗退する。
大会も終わったある日、新二は守屋さんに呼ばれ、三年生部長をやってもらいたいと告げられる。キャリアなんて関係ない、一歩引き気味のおまえが先頭に立っていけば、みながついてくるよ。後輩のめんどうみもいいし、人間として、選手としてお前は信頼できる。そう言われ部長になることを引き受ける新二。
そして夏休みの陸上部恒例のバーベキューの日、谷口と健ちゃんの話をしているうちに、健ちゃんに無性に会いたくなる新二。そして何の気なしに谷口に試合を一緒に見に行かないかと誘う。予期しない答え。谷口は一緒に行くと言ってくれた。
谷口とふたりで行った試合。健ちゃんは活躍し、また地元のファンにも認められていて嬉しくなる新二。そして谷口と出かけたことが、ほっこり胸を温かくする。春高陸上部は部内恋愛禁止なのに、俺は部長なのに、。
以前から新二の試合を見たいと言い続けていた母親に、試合を見ることを新二が許した関東新人戦の日に事件は起きた。リレーの決勝に進んだ新二が、その決勝直前に会った父母の様子はおかしかった。おろおろと涙を流す母親、トラブルが起きた、申し訳ないが試合は見れない、そう語る父親。大好きな兄貴、健ちゃんが交通事故にあったのだ。
サッカーで明日を期待されていた健ちゃんを襲った大事故。それは新二にも大きな影響を与えた。
ショックのあまり、陸上部の練習をさぼり続ける新二。
果たして新二は陸上をやめてしまうのだろうか・・。


あくまでも、三部作のまんなかの繋ぎである第二巻(第二部)。充分おもしろものの、やはり単独作品ではない。このあとの第三巻(第三部・完結巻)を読み終えて、初めて評価が決まる。ここまでリアリティーを積み上げた作品が辿り着く最後はどんなものだろう。
おそらくそれはひとつの予定調和であろう。期待通りの終わり、期待通りの物語。しかし、このコンプレックスを抱えた主人公を、今までの生きかたとは別の方向で昇華させ、生き生きと描いたこの物語は、若い読者にオススメの抜群の青春小説であることは間違いない。
淡い恋物語もやっぱりいいアクセントだしね。頑張れ青春!

シンデレラ・ティース

シンデレラ・ティース

シンデレラ・ティース

「シンデレラ・ティース」坂木司(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、推理、デンタルクリニック、連作短編、ワトソンタイプ、アームチェアデティクティブ


※ネタバレまでいきませんが、あらすじあり。未読者は注意願います。


小学生の頃のトラウマで歯医者が苦手な19歳の大学生二年生、サキこと叶咲子。一人娘でおおらかにのびやかに育てられ、少しおっとりとした素直で小粒な性格な普通の女の子。友人のしっかり計画性を持ち現実的なヒロちゃんと、来年の三年生の生活を話し、夏休みはバイトをすることに決めた。ヒロちゃんは沖縄に泊まりこみでバイトをすることにした。サキは近場でのどかな職場を探すことに。
そんなサキに、母親からバイトの紹介が舞い込んだ。知人の職場で受付嬢が急に辞めてしまい、つなぎのバイトを探している。提示された条件もよかったためひきうけたバイト先は、なんと歯医者であった。しまった、ママにひっかけられた。「品川口クリニック」と書かれたメモは実は「品川D(デンタル)クリニック」だった。あわてて引き返そうとしたサキを呼び止めたのは母の弟である唯史叔父だった。40代前半の恰幅のいい、子供の頃から子供目線で話しかけてくれるやさしいおじが歯医者だということは知っていたけれど、まさか叔父の職場だったとは。
唯史叔父をはじめとし、歯医者をサービス業のひとつと考え、お客様中心のクリニックを経営しようとする、少しセクハラ気味の品川院長、技術が確かでスピーディーな成瀬先生、歯科衛生士は色気たっぷりの姉御肌三ノ輪歌子さん、色白で優しそうな美人の中野京子さん、童顔アニメ声の春日百合さん、明るくハイテンションな他の人と違い、一番クリニックにいて自然なタイプ、ぴりっとした雰囲気の窓口業務担当の葛西瑞枝さん、そして影の薄いオタクな歯科技工士の四谷謙吾さん、そんな面々の品川デンタルクリニックでの、サキのひと夏のアルバイトの物語。
五つの連作短編からなる一冊。本作の「探偵役」は、いつも石膏の粉まみれの四谷さん。サキと四谷さんのロマンスもあり。


「シンデレラ・ティース」
母親にだまされ、歯医者の受付でアルバイトをすることになったサキ。ある日、患者の恋人と思われる男性が乗り込んで「いったい治療にどのくらい時間をかけるんだ。強い薬は身体によくないだろ」と文句を言ってきた。いわれるような事例に覚えはない。その真相は?
「ファントムVSファントム」
電話で歯痛を訴え予約をしてきた電話応対のとてもよかった男性は、実際にクリニックに来てみると、とてもつっけんどんで、無口な初老の男性だった。治療の際もなかなか口を開ことしない難物だった。そんな男性が、夏風邪をひいたというサキに優しいそぶりを見せる。
男性にクリニックを紹介したというかってその男性の部下であった患者は、とても優しい人だったのに、急に変わってしまったという。その真相は?
「オランダ人の買い物」
クリニックのおやつを買いに出かけたサキは、帰り道夕立に降られ、とある軒先で雨宿りをする羽目に。そこで同じように雨宿りをする男性と知り合う。昭島というその男性はクリックに顔を出し、治療を口実にサキを誘おうとする。一方、クリニックには飛び込みで恰幅のよい年配の男性とその秘書らしき男性が入れ歯を作ってほしいとやってきた。治療の問診表さえ、秘書に書かせるその男性は、あろうことか診察室まで秘書と二人で入り込み・・。
昭島という男の登場により、四谷さんとふたりで映画に行くことができるサキ。
「遊園地のお姫様」
ある日の夕暮れ時、クリニックに飛び込んできた、若い女性。中学生、いや高校生くらいか。四谷さんをけんちゃんと呼び、唯史おじさんをたっくんと呼び、ふたりにやけに親しげな態度をとる女の子は院長の孫娘、品川知花。部外者の疎外感を感じ、落ち込むサキがふと見かけたのは四谷さんと知花が街路脇で顔を近づける姿だった。つきあっているわけではない、でも何度もふたりで出かけたのは。四谷に対する自分の本当の気持ちをきちんと認識するサキ。
四谷さんと知花のふたりのほんとうの関係は?
四谷の仕事への想いを生んだできごと。そしてクリニックのお姫様、知花の恋の真相とは?
フレッチャーさんからの伝言」
夏休みだけのアルバイトということではじめたクリニックでの受付業務もあと数日を残すばかり。そこへ多忙で寝る時間もないという長沼という患者が現れた。初回から遅刻をし、言い訳をする長沼は、二回目も遅刻をし、遅刻のお詫びにとお菓子を持って現れた。お菓子を買う時間があるなら、遅刻もしないはずなのに。そういえば徹夜続きというのにフットサルをしたとか、いつもきれいな服装でやってきたりと、言っていることとチグハグなことが多い。
患者の遅刻はそのままスタッフの昼休みの時間に影響する。短い時間でも食事さえとれる時間があればいいと言う唯史おじさんに、歌子さんは「フレッチャーさんに叱られますよ」と答える。フレッチャーさん?
そんなとき、四谷の代わりになるという新しい歯科技工士がクリニックに現れた。四谷は留学するという。留学の話を四谷から聞かされていないサキ。
そしてアルバイト最後の日、サキは小学校以来の診察を受けることにした。長沼さんと一緒にお願いします。サキが気づいた長沼さんの持つ秘密とは?


あたたかな人々の、あたたかな想いが根底にある、あたたかな日常と、そこに潜む謎を描くことを得意とする坂木司の新作。今回は舞台を歯医者とし、歯医者ならではのエピソードで物語を綴る。またこれまでの男性二人組の友情の物語と変わり、女性主人公をワトソン(語り手)に置き、男性探偵とのほのかな恋の物語を加えた、やはりお馴染み日常の謎系のアームチェアデティクティブ(安楽椅子探偵)の物語。
いままで同様、大作でない、あたたかな佳作。ほんのりとしたあたたかさと、そして涙を誘うひとの優しさが充分に書かれ、この作家の確立した持ち味を見せてくれる。
しかし、反面、予定調和の物語に過ぎず、明かされる日常の謎も驚きに欠ける。従来のBL(ボーイズラブ)を連想させる男二人組みを、男女のカップルにしたことも、決して成功とは思えなかった。いままでは信頼が根底にまずあることが前提の二人の物語が、今回は物語を通し近づく二人の物語に変質していることが違和感の原因かもしれない。さりげなくおかれた些細な出来事のエピソードでふたりの恋を描くのだが、予定調和として読むぶん、ひっかかりはないのだが、いまひとつ深みにかけているのかもしれない。
いままでの作品同様、悪くはない。しかし決してオススメとまでいえるほどの力はないと思う。
あと各短編のタイトルが、深すぎるのかしっくりこない。


実は坂木司は三部作の三部である「動物園の鳥」(はやく一部、二部を読め!だ(笑))、「切れない糸」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/12129392.html に続く三冊めとなるのだが、最初に読んだ「動物園の鳥」の最後に受けた感動は忘れられない。ありがちなエピソードなのかももしれないが、思わず涙するほどの人の成長があった。本作も歯医者コンプレックスを乗り越えるひとりの少女の姿があったとは言え、やはり「動物園の鳥」には敵わない。


蛇足:歯医者の怖さといえば、映画「マラソンマン」で麻酔なしで歯の治療をされるエピソード、ミュージカル「リトルショップホラーズ」で、自分に笑気ガス(麻酔)をかけて治療するマッド・デンティストが思い出される。怖くはないが、マンガで「Dr.クージョ危機一髪」(星崎真紀)なんてコメディーもよかったなぁ。まさに蛇足。
蛇足2:あとがきによれば、本作のカンバセーション・ノベルとしてサキの友人ヒロちゃんを主人公とした物語が用意されているらしい。本作で少し触れられている、沖縄という地での泊り込みでのバイトの日々の物語か。ちょっと楽しみ。沖縄ならではのエピソードが書かれることを期待したい。