[海堂尊}螺鈿迷宮

螺鈿迷宮

螺鈿迷宮

螺鈿迷宮」海堂尊(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、ミステリー、医療


「チームバチスタ」「ナイチンゲールの沈黙」に続く海堂尊のロジカルモンスター、あるいはコードネーム「火喰い鳥」白鳥のシリーズ第三弾。今回は舞台を東城大学医学部付属病院から、同じ市内にあり東城大学病院とも因縁浅からぬ桜宮病院に舞台を移す。桜宮病院については前作「ナイチンゲールの沈黙」でも主人公である看護婦、浜田小夜が世話になっていた病院と触れられており、前作より伏線を張っておいての本作。もっとも最大の伏線は第一作よりその存在を匂わせておきながら、なかなかその姿を現さなかったニックネーム「氷姫」こと姫宮の登場である。厚生労働省に主席で入省、しかしお騒がせ上司白鳥からすれば、まだまだひよっこの彼女がいよいよ登場。どんな活躍をするか読者は自然、期待させられてしまう。


小学生の頃両親を交通事故で亡くし、その保険金と遺産をすり減らしながら留年を何度も繰り返し東城医大の落ちこぼれ医学生を続けている天馬大吉は、ある日幼馴染の新聞記者、別宮葉子から依頼を受けた。小学校時代からの付き合いである葉子は、外見は見目麗しい女性であるが、長いつきあいの天馬にすれば色々と用事を頼まれるたり便利に使われるだけの存在。新聞の記事の執筆も依頼されたりするわりに、真っ赤に校正されて没になるのだからたまらない。密かに天馬は、葉子を<血まみれヒイラギ>と呼んでいた。そんな彼女が厚生省の依頼による桜宮病院への秘密潜入取材を天馬に依頼してきた。医療ボランティアとしてして潜入して欲しい。
やなこった。
行きつけの雀荘に逃げた天馬は、麻雀でひとりの見慣れぬ気配を感じさせない不気味な男にこてんぱにやられ、百万円の借金を背負わされてしまった。しかしそれは天馬を桜宮病院へ潜入させるため策略のひとつであった。男の名前は結城。「メディカル・アソシエイツ」という病院買収関連の企業舎弟会社の社長であった。事務所には結城の娘茜と、葉子が待っていた。茜と結婚し、桜宮病院を調べていた部下、立花善次という男の行方が不明となったので探して欲しい。桜宮病院には保険の不正請求、脱税、暴力団へのクスリの横流し、いろいろな悪事のウワサがある。そこを立花は調べていた。しかしある日姿を消してしまったのだ。桜宮病院の桜宮巌雄院長は警察医として長年警察とつながりがあり、捜査願いを出してもぇ警察は思い腰を上げようとしてくれない。かくして<血まみれヒイラギ>の策略にのせられた天馬はその名前にあやかるようにラッキーボーイとしてのツキをも頼みにされ、桜宮病院に向かうことになった。
桜宮病院、それは天馬たちがこどもの頃から見慣れた巻貝のような建物を持つ病院。バベルの塔かでんでん虫かと論争を起したこともあった。しかし病院の隣に建つ東塔がセピア色に塗り替えられてからは「でんでん虫」が定着した。
同じ敷地には県境をはさみ、碧翠院というお寺を併設をしている。終末患者を扱う桜宮病院ではあるが、体調に応じ患者に院内業務を分担してもらい、その労働対価は院内で流通するポイントで支払うようにしている。基本的に延命治療を行なわない施設であるが、院内業務を割り当てることで患者のQOLは劇的に向上し、平均存命期間も延びたという。病院は院長の双子の娘の姉である小百合が副院長としてその実権を握り、対して併設されている碧翠院を妹のすみれが見ているという。
無事、桜宮病院に潜り込んだ天馬であるが、そこで出会ったのが大柄で動作のとろい姫宮という看護婦であった。彼女のおかげでなぜか次々と右手骨折、火傷、頭部損傷を負うことなる天馬。その名前から<ラッキー・ペガサス>などと呼ばれてしまうが、実は不幸を次々と呼び寄せる「アンラッキー・トルネード」の体質を持つ天馬と、ターミネーターのごとく次々と破壊を呼び天馬いわく<ミス・ドミノ倒し>とも呼びたい姫宮の親和性は高かったのだろうか。かくし、てただの医療ボランティアから、桜宮病院の入院患者としなった天馬が巻き込まれる事件とは。そして終末期の患者を扱う病院とはいえ、あまりに人が短期間に死にすぎる病院の謎。あるいは消えた立花は?


正直に言えば、本書は物語の大筋がよくわからなかった。東城病院との関係のなかでの桜宮病院の立場が明確な位置づけでの理解ができなかった。また桜宮病院と併設された碧翠院の関係も明確ではない。強いて言えば、バチスタ・スキャンダルで瀕死となりかけた東城病院の生き残りをかけた施策が、桜宮病院の存続の大きく関わるが故に、窮鼠猫を噛む、あるいは共倒れを狙い、桜宮病院が反撃をしかけたというところか?終末医療をテーマにしているらしいということは、なんとなくわかるのだが、いったい何を語りたい作品なのか、そのテーマが見えてこなかった。
ただ、相変わらずキャラクター作りはうまい。残念ながら「氷姫」姫宮が、期待していたのに、いくら読んでも人間が思い浮かんでこない欠点はあれど、ステレオタイプ、あるいはマンガのようなキャラクターとも言ってしまえるほどに、それぞれのキャラクターが強い。先に説明しておくが、あまりキャラが立っているとはいえない期待の姫宮は図体がでかくて、そのぶん自分の身体をうまく使いこなせないというか、所作は不器用、しかし入省してから白鳥の指示がない暇にあかせ司法試験に合格するなど、いわゆる勉強のできる、しかし気の利かないタイプらしい。「氷姫」の仇名は、本人の意識しない行動が思わせぶりで、そのおかげで彼女に対する失恋者を次々生み出したというのが由来らしい。しかし、本書を読んでも姫宮にそれほど魅力を感じないので、これはちょっと失敗か。対してニックネームの力はすごいと思わせる。先にあげた幾つかのニックネームもそうであるが、桜宮病院の実権を握る小百合の<レディー・リリー>はまぁ置くとしても、その妹すみれの<わがままバイオレット>は姉小百合に対し、まさに対照的に行動的な様子を一言で表す。あるいは桜宮院長の<銀獅子>、あるいは結城の<幽鬼>などニックネームひとつでキャラクターをいきいきと見せる部分はうまい。あるいは西遊記をなぞらえた、三婆さんの濃く強いキャラクターも悪くない。
しかし、ディティールのみを拘っても作品は生きてこない。ぼくが読み切れていないせいなのかもしれないが、本書が何を訴えたいのかがぼくには分からなかった。長年警察医を勤めてきた桜宮病院だから隠し通せた「闇」を悪しきものとして弾劾しようとする作品なのか、それとも反対に行政が切り落とそうとする終末医療に対する提言なのかがぼくにはわからなかった。終末医療に対する提言であるならば、敵は東城医大ではないだろう。
第一作「チームバチスタの栄光」で白鳥が語った「根幹より枝葉やディティールのほうが断然リアルで魅力的」という言葉は、この作品でもしっかりと生きている。キャラクターものの作品に過ぎないならば、決して失敗ではないのかもしれない。しかし、キャラクターにのみ、あるいはディティールのみに拘るような作品をぼくは高くは評価はしない。故に☆3つの、評価にとどめる。


以下ネタバレにつながるかもしれないことを幾つか。桜宮病院にまつわるわらべ歌「桜宮は花盛り、あおいすみれに白百合の花・・」はどうなのだろうか。誰が作りこどもに流布したのかという問題もあるが、一番の問題は順番が違う。また失踪した立花と天馬の関係を、運命のひとつと持ち出されてもちょっと興ざめ。それは言い過ぎ。プロローグの「アリグモ」に意味があったのか。最後に<ラッキー・ペガサス>の強運を語る部分も蛇足気味。天馬が軽度とはいえ麻薬中毒になるのを止められなかった官僚もいかがなものか。


厚生労働省の官僚、白鳥を絡めたこのシリーズ三作、個人的には、巷ではあまり評価の高くない「ナイチンゲールの沈黙」を唯一評価し、一勝二敗とする。本作も主人公である天馬が、おちこぼれ医大生からきちんと医学に向き合うという成長を描く最後については評価しないわけでないが、しかし、やはりまず物語を読ませて欲しかった。ディティールは大事だと思うが、それに拘ってばかりの作品はいけない。


蛇足:しかし期待していた「氷姫」姫宮は、どうにも「南海キャンディーズ」のしずちゃんの姿しか思い浮ばないのが困ったもんだ。本当は図体がでかく、不器用で「可愛い」はずなのだが・・。

失われた町

失われた町

失われた町

「失われた町」三崎亜記(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、SF、近未来、町、消失

※あらすじ、ネタバレあり。未読者は注意願います。


30年に一度、「町」は意思を持ち、消失する。消失とは、その町の住民が忽然と失われること。「消失した町」に関わることを忌避すべき「穢れ」と認識された管理社会。それぞれの理由から「町の消失」と向き合い、「消失」を食い止めようとする人々の日々の営みを描く作品。前章、中篇といえる分量の七つのエピソード、そして終章からなる物語。


三崎亜記はどこにいくのだろうか。前作、彼の第二作である「バスジャック」を読んだとき、その多彩な作品群に対し、ひとつの個性を確立して欲しいとぼくは願った。しかしそれは杞憂にすぎなかった。
あちこちで評判となっていた本作。とりあえず読んでおこうと予約をいれて数ケ月、それは想像以上に出来た作品であった。連作のかたちをとり、エピソードが折り重なり、連なる。しかしこれは「長編」と読んでよいだろう。
「となり町戦争」に感じた乾いた、一種の諦念にも近い匂い、空気は本書にも漂う。希望を見出す物語のはずだが、盛り上がることもなく淡々とした思いが描かれる。管理された世界、避けることのできない出来事の待つ世界での人の営み。それはもしかしたらもう目の前に来ている世界なのかもしれない。


ネットを覗くと賛否両論であることに驚かされた。「となり町戦争」を評価した読者にとっても、難解であり、不必要な描写が多いという意見を見かけた。
不必要な難解さ、しかしこれはこの作品の魅力のひとつではないだろうか。この作品を読み、感じたのは一大ブームを巻き起こし、その影響のいまだ衰えないTVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に似た匂い。あるいは押井守という稀有な才能のアニメ監督の描いた幾つかの作品世界。女性統監の姿を辿れば、さらに遡り、「超時空要塞マクロス」で主人公の上官を務めた女性士官さえ思い出される。乱暴な言い方をするならば、デビュー作の「となり町戦争」を大人が楽しめる特撮実写番組として「ウルトラQ」であったとするならば、この作品はそれらの作品にオマージュを捧げつつも、より現実世界と似て非なる「となりの世界」を表現することに適した、「ジャパニメーション」と呼ばれるものに近い作品となったのではないだろうか。これらの作品は「理解(わかる)」ことが魅力ではない。なんとなく「理解した気持ち(わかったような気持ち)になることが魅力であり、徒に使用される「難解な言葉」も、ディティールのひとつに過ぎない。エヴァを本当に理解している人はほとんどいないだろう。そういう意味で元オタク少年であったぼくにとって楽しい作品であった。しかし賛否両論があるとおり、万人向けの作品ではないのかもしれない。
400ページに及びながら、物語がきちんと完結していないことも、欠点のひとつなのかもしれない。最後が(最初が?)読者に委ねられる「余韻」でいいのか、そういう議論もあるかもしれない。あるいはこの作品を良しとしながらも、ぼくがどうしても気になるこの「管理された社会」を舞台にしたことも問題のひとつかもしれない。お手軽に管理社会を乗り越えたり、改革していくことなく、あるということを受け入れ、そこから物語が進むことがこの作品の設定としての舞台であることは理解はする。しかしどうしようもない居心地の悪さもまた覚えずにはいられない。近未来の管理社会の息苦しさが、また町の消失という運命に加え、諦念にも似た空気をこの作品に与え、作品世界を創っていることを理解しつつも、敢えて、居心地の悪さを感じてしまうということことも取り上げておこう。
しかしそうした、敢えていうならばの欠点を持つとしても、この作品はきちんと「世界」を構築し、それが最後まで破綻なく書ききられたということを評価すべきであろう。町という大きな「モノ」の意志。それに抗おうとする人の営み。管理され、統制のとれたはずの社会であっても、感情としての「穢れ」という概念による差別の存在。「感情抑制」をも備えたはずの管理局という管理社会、あるいは組織の典型ともいえる機構においてさえも存在が許されてしまう、卑小な人間たちの感情。物語はそれらを打破し、打ち破る存在としてではなく、少しずつ積み重ねる描写で構築する。そしてまたこの作品は「物語」ではあるが、起承転結のそれではない。創られた世界での「人の営み」のみを描いている。それがしかしぼくには魅力に思えた。反面、起承転結とした「物語」足りえていないことを不足に思う読者がいても不思議はないだろう。普段ならぼくが一番求めることだから。


月ヶ瀬町が失われ30年が過ぎた。いままた「町」が失われようとする。それぞれの理由、運命により「消失」に立ち向かう人々の姿。物語は始まる。
そしてときは前回の月ヶ瀬町の消失直後に遡る。七つのエピソードは順番に語られ、それぞれに登場する人々は連なり、重なる。


「プロローグ、そしてエピローグ」
新たな町の消失に立ち向かう人々。そして茜のもとに和宏は戻ってきた。


エピソード1「風待ちの丘」(かぜまちのおか)
二人一組で、作業は割り当てられる。国選回収員に選ばれた茜は消失した月ヶ瀬町で作業にあたっていた。その間、仮の宿とする都川の町で、茜は「風待ち亭」というペンションの主人、中西さんと出会う。彼は月ヶ瀬の消失で家族を失っていた。
由佳という美少女が、失った大切な友人潤を想い、ペンションを訪れる。


エピソード2「澪引きの海」(みおひきのうみ)
管理局に勤める桂子さんは、実は「特別汚染対象者」であった。そのことでまた恋人と別れることになる。しかしカメラマンである脇坂さんとの出会いがあった。必ず再会する運命をふたりは信じた。


エピソード3「鈍の月映え」(にびのつきばえ)
都川のちいさなギャラリーで、茜は月ヶ瀬の街の風景画に出会った。消失した町に関わるものなかで絵だけは回収の対象から外されていた。茜と和宏との出会い。和宏もまた月ヶ瀬で大事な人を失っていた。
いっぽう回収作業のなか、生きている三歳くらいの少女を発見した茜たちは、残りの回収員の任務期間を免除された。中西さんの「風待ち亭」で、和宏とともに暮らすことを決める茜。しかし和宏は茜を置いて月ヶ瀬町に向かってしまった。


エピソード4「終の響き」(ついのおとない)
英明の妻は「別体」であった。学術統合院の研究により完全なる「分離」が成功したのはほんの30年前。英明と出会い、結ばれた「別体」の妻は、そのお腹にこどもを宿したまま町とともに消失した。
片割れが死を迎えれば、もう片方も同様に死を向かえるはずの分離者。しかし妻の「本体」は失われていなかった。町がまだ見つけていないのだ。
英明ともに暮らすことを決める「本体」。彼女は男の子を宿し、「別体」が産むはずだった女の子につけるようとした名前をその子につけることを決めた。
月ヶ瀬の風景を夢のなかに見るようになる「本体」。管理局の白瀬桂子の紹介で「風待ち亭」を訪れる英明たち。そこで出会う和宏の持っていた響きを失った古奏器は、響きを取りもどす仕事をしていた「本体」の手により、いや、幼いひびきの泣き声により響きをとりもどす。「本体」の消える時期が近づいく。月ヶ瀬の最後の残光とともに。
ひびきが女の子の声で母親に語りかける。「ワタシタチガ、オワラセルヨ」「モウ、パパモママモ、カナシマセナイヨ」。


エピソード5「艫取りの呼び音」(ともどりのよびね)
汚染が進むことで体内珪化がいよいよ始まった桂子さん。そんな彼女に脇坂さんにつながるものが届けられた。七日間のうちに澪引きを成就させなければいけない。残された言葉。脇坂さんを探しに居留地を訪れる桂子さん。観光客は足を踏み入れてはならないとされる闇取引の温床地である南玉壁での探求。桂子さんの澪引きは成就できるのか。


エピソード6「隔絶の光跡」(かくぜつのしるべ)
風化帝都の茶廊で勇治は由佳の姿を見かけた。
高校のころふたりはつきあっていた。いや、正確にはつきあっていたことになっていた。聡明で美貌の少女であった由佳には心に秘めた願いがあった。言い寄ってくる男に関わっている時間を無駄にしたくない。カモフラージュとしての彼になってくれないか。必要なら身体を提供する。そんな彼女の申し出を、ゲームとして「関係」を抜きに受け入れた勇治。高校の三年間を「彼」として過ごした勇治はある日、由佳の願いが町ともに失われた「潤」という、由佳の幼馴染で、それ以上に強い存在であった少年にあることを知る。「こっちの世界」に戻ってこいよ。由佳に告げる勇治。
翌日から姿を見せなくなった由佳の姿を勇治が見つけたのは三ヶ月近くたった頃だった。姿を追い、研究所に辿り着く勇治。そこでこの三ヶ月、由佳のしていたことを聞いた。それは「潤」という少年の最後の願いを受け止め、町の消失に抗おうとする由佳の姿だった。
四年半ぶりに会った由佳は相変わらず頑なに、一途に町の消失と抗おうとする姿を勇治に見せた。その姿、行動に反発を覚える勇治であったが・・。


エピソード7「壺中の希望」(こちゅうののぞみ)
私立女子高に通うのぞみは、数百万人に一人といわれる「後天性神経分断症」という難病と診断されていた。三ヶ月に一度通う病院でいつものように由佳先生に診てもらう。診察室でふと聞きなれた声。カーテンの隙間から覗くと、それは売れっ子俳優の長倉勇治だった。由佳先生の高校時代の友人だと言う。
ある日ふと病院に立ち寄ろうとしたのぞみは、病院に由佳先生の名前がないことを知った。、両親に尋ねるのぞみ。そして自分が「失われた町」の生き残りであることを知る。ショックを受けたのぞみは自分の生まれ故郷である町に向かう。列車のなかで出会う、三人の家族連れ。お父さんと中学生くらいの女の子、そして小学校高学年くらいの男の子。その子どもは「分離」していたのであった。
町に辿り着いたのぞみは、しかし管理局の白瀬桂子の手で強制的に回収された。気がつくとそこは「風待ち亭」であった。そこで出会う人々と彼らの過ごしてきた運命を聞くのぞみ。自分を救うために町に取り込まれた父を救ったのぞみは、自分のための一歩を進む決意をする。


「エピローグ、そしてプロローグ」
月ヶ瀬の町の消える夜。潤は姉の恋人である和宏に馴染んだ古奏器を託し、ガラス瓶に入れた手紙を都川に流した。そして由佳に最後の電話をかける。「これはエピローグであり、プロローグである」この言葉を覚えておいてほしいんだ。
管理局統監の、知られざる「別体」への電話。彼はいま都川に住みペンションを営んでいるという。
人の思いは受け継がれる。望みは繋いでいかねばならない。


個別につきつめれば「高射砲塔」や「防空演習」「電力調整日」「居留地」「西域」「古奏器」、あるいは由佳と潤の用いる「暗号」、SEKISO・KAISO(石祖開祖)を名乗るハンドルマスター(ミュージシャンのようなもの)の設定(阿修羅男爵か、お前は?)など、どうにもこの物語世界に対して違和感を禁じえない、あるいは必要を感じないディティール等がないわけではない。正直、この辺をもう少しうまく書いて欲しかった。もちろんまことしやかな嘘のために、必要なあそびや無駄というものは認める。しかし先に挙げたディティールは、必要というより蛇足に近いと思うのだが、いかがだろう。いや、先に「個別につきつめれば」とぼく自らが語っているように、この部分をつきつめること自体あまり意味がないことなのかもしれないが・・。


追記:あれ?これあらすじばかり?


蛇足:エヴァとの類似性について、女性たちの活躍が大きいことは言うまでもない。
蛇足2:レビューを書いていて思ったが、難解な言葉を使ってみているが、実はそれほど複雑ではない。整理してみればわかりやすい物語かもしれない。

贄の夜会

贄の夜会

贄の夜会

「贄の夜会」香納諒一(2006)☆☆☆★★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、サイコキラー、警察社会、刑事、ハードボイルド


「犯罪被害者家族の集い」で知り合ったふたりの女性が殺害された。被害者のひとりはハープ奏者木島喜久子、痛ましいことにその死体の両手は切断され持ち去られていた。ハープ奏者に及んだ犯行には計画性が感じさせるものがあるのに対し、もうひとりの被害者である平凡な主婦、目取真南美に対するそれはあたかも怒りがぶつけられたかのような、頭蓋骨を石段に何度も叩きつけられるという陰惨な殺害方法であった。
事件の捜査にあたることになった警視庁捜査一課強行班の刑事大河内、正式な役職ではないもののデカ長として捜査本部のまとめ役を任されている。そんな彼は二年前、とある事故で幼い娘を亡くし、そのことをきっかけとし妻と別れ、いまは独り身の心に傷を負う男であった。
普通のサラリーマンである、被害者である主婦の夫に署に来てもらい遺体の確認をしてもらった際、その男が指紋を残すことを嫌うかのようにハンカチで指を包みエレベータのボタンを押す姿が、大河内の眼に留まった。刑事の勘が大河内に告げる。あの男には何かある。果たして被害者の夫、目取間真を名乗る男は事件の翌日には自宅から姿を消した。そこに居たという痕跡を、指紋ひとつ残さず消していったのである。そしてまたその正体が謎であることも判明した。
いっぽう「犯罪被害者家族の会」のパネリストとして出席していた弁護士中条謙一が19年前、同級生の首を切り取り、自分たちが通う学校の校門に乗せた、当時、十四歳で中学二年生であった犯人であることに気づいた大河内たちは、今回の猟奇的な殺人事件に何らかの関わりがあるのではないかと思い捜査を開始しようとした。しかし事なかれ主義の上司、捜一係長である小林は、中条に他の弁護士とともにいたというアリバイがあることからも、慎重な行動を大河内に強いた。
並行して被害者の夫である目取真渉についても捜査を行なっていた大河内らであったが、公安部から物言いがついた。彼はうちの管轄だ。捜査の棚上げを要求される大河内ら。なぜ公安が?大河内は従兄弟であり幼いころより兄のように慕ってきたキャリアの道を進み、いまや公安部参事官となった中園隆介のもとに釈然としない思いで訪ねた。しかし中園は「忘れろ」と答えるのみだった。
そんな大河内のもとにひとりの女性から連絡があった。19年前の事件で中条に精神鑑定を行った、今は亡き筑波大学の心理学の教授、渡会惣一の弟子を名乗る田宮恵子という女性からであった。彼女は19年前の中条の犯罪には「透明な友人」と呼ばれる相手の存在があり、その人物が深く関わっていた。中条の精神は今もまだその人物の指揮下にあり、その束縛を離れられないではないか。大河内にそう告げるのであった。そんな莫迦なことが、信じられぬ思いを抱く大河内。
いっぽう目取真渉を名乗る男の正体は一流のスナイパーであり、アメリカの裏社会で知り合った古谷という男とコンビを組み、依頼された仕事をきっちりこなすプロフェッショナルであった。関西で仕事を行なう彼に対しパソコンのメール、そしてチャットを通じ近づこうとする「透明な友人」。目取間は、妻を殺した犯人「透明な友人」の正体をつきとめ、二年の結婚生活をともに送った妻、南美の仇をうつことを心に誓うのであった。
物語は、依頼された仕事を行なう目取真たちを陰謀が襲う。さらにそれは大河内の従兄弟中園に続く警察内部の汚職に結びつくものであった。そして「透明な友人」が、またもや中園を操る。幾つもの死体を乗り越え、大河内は、そして目取間は事件の真の犯人に辿り着くことはできるのだろうか。


580ページ二段組、とにかく長かった。レビューを含め二日に一冊を自分のペースとしたいと思っているのだが、この作品を読むことだけに五日間もかかってしまった。ひどい風邪をひき体調が悪く、睡眠優先という悪条件が重なったせいもあるのかもしれないが、実は途中で中だるみを感じてしまったというのもあった。途中から読みたいという気力がまったく湧かなくなってしまったのだ。19年前の猟奇殺人と、その犯人を操る謎の人物。正直に言えば、この作品は、テーマを絞るべきであった。そこを緻密に書き上げるべきであった。被害者の夫がプロのスナイパーであり、傷つきながら妻の復讐を誓うエピソード。そのふたりの幼い頃にあったと思われる沖縄という土地のエピソード。彼らが行なった殺害事件と結びつく警察内部の汚職の構図。幾つものエピソードが絡み、物語を膨らませ、それがゆえにこの作品を渾身の長編力作としたのは間違いない。しかし反面、本来の物語の中心にあったはずの猟奇殺人、サイコキラーといったテーマは完全にぼけてしまったような気がする。最後の活劇にいたってはまるでとってつけたような、どこかで見たことがあるような、ありがちな古臭いミステリー、もしくは古臭いハードボイルド小説のそれになってしまったようだ。なんとも尻つぼみ。
あらすじに費やした文字数に比べ、感想はとても簡潔なものになってしまうのだが、残念なことにこれは致し方がない。正直、この長編を最後まで読みきったということを、その自分を評価するに留める作品。
この作品は、ついこの間発表された「2007年度ミス大賞7位」を授賞した。そのことがぼくにはどうにも納得できない。いまさら、こんな小説を長々と読ませられてもなぁ・・というのが正直な感想。ありがちの刑事ドラマを、何もこれだけのページ数、文字数を費やさなくてもよかったのではないだろうか。あるいは、これだけのページ数、文字数を費やすなら、読者に読んだという実感を与えるだけの「物語」を書いて欲しいというべきか。
体調が悪くなければもう少し楽しめたのだろうか?この厚さ、この文字に期待をして読んだだけにちょっと残念な一冊であった。


追記:ネットで親しくさせていただいている「本を読む女 改訂版」のざれこさんが、本書を「うどんとご飯どころか、カツ丼とスパゲティとピザとステーキとラーメンとデザート、そんなんが一気にテーブルに並んでるような、「もうおなかいっぱいやで勘弁してえな」といいながらも美味しいからつい食べてしまって」と評していましたが、まさにこの作品を的確に表現しているかも。体調がよければ、ぼくも美味しく食べられたのかもしれません(笑)(2007.feb.20追記)


蛇足:香納諒一という作家、割と読んでいる作家のはずなのだが、自分のなかにその作家の個性が確立されていないことに気づく。決して、ハードボイルたミステリーだけの作家でないというおぼろげな記憶。

竜とわれらの時代

竜とわれらの時代

竜とわれらの時代

「竜とわれらの時代」川端裕人(2002)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、科学、恐竜、宗教


手取の里には竜神様がいる。


物語は1993年に始まる。北陸のとある県にある手取郡にある父の実家に高校生である風見大地、海也のふたりの兄弟が身を寄せることになったのは、ジャーナリストである父忠明との父子家庭のあまりに粗雑な生活に、祖母の文ばあが見るに見かねた結果の提案だった。もともと敦浜にいたころより野山をかけめぐり岩を叩いていた大地にとって、中生代の地層が露出するこの地に移ることは「大物」と出会う楽しみも増えた。文ばあに言われ、生来内気な弟の海也を連れ荘山の森を歩いていた。見つけた岩を、教えられることもなく見事に割る海也の姿をまじまじと見つめる大地。「石が割れたそうに見えたから」それは今に始まったことでない。ぼんやりした顔で、海也は時々するどい観察眼を発揮するのだった。
「風見君!」東京育ちで、今は父親が海外赴任中のため母親と母親の実家に身を寄せている、色白で髪が長くあかぬけた手取高校男子生徒あこがれの的、大地の同級生である草薙美子が声をかけてきた。山菜採りに来ていたという。そして三人はそこで謎の生物の化石を発見する。中生代白亜紀前期の地層から大型の動物化石を発見すること。それは大地が長い間夢見ていたものだった。「いいか、これを見つけたことはおれたちの秘密にする」三人だけの化石発見という秘密。
手取高校の生活では、美子に想いを寄せる勝峰町町長の息子、野球部キャプテンの辻本が、海也のその恵まれた体躯に目をつけるが、海也は入部を断る。「よそ者」でいなくなるためには仲間に入るのがいい。そう考える辻本にとって、わが道を行く姿勢を貫く兄大地ともに風見兄弟はなんとも気に入らない存在だった。
明日から田植えという日、ひとり荘山村の森を歩く海也は、阿弥陀堂を守る婆が叫ぶ声を聞く「帰ってよざ!」「ここは聖域でございます。よそ者は帰ってよざ」そこにはひとりの大柄なガイジンの姿があった。道に迷ったというそのガイジンはこの地が古生物学にとって有望な地であることを海也に告げ、またいつか戻ってくることを語るのだった。


竜神信仰の残る北陸の明らかな確定を避けたとある県のとある村を舞台とし、執筆当時(2002年)最新の科学情報をベースに描かれた物語。そしていまやぼくの大好きな作家と公言している川端裕人との出会いの一冊。当時、おそらく四年ほど前、図書館の書架に並ぶこの一冊と出会ったことが川端裕人との出会いであった。読み応えある厚さ、ハードカバーで450パージほどの二段組。
ぼくはこういうきちんとした正しい情報を基に書かれた「嘘」の物語が大好きである。まことしやかな嘘とは、真実をいくつも散りばめたなかにあればこそ、まことしやかなのである。そういう意味できちんとした取材をもとにして書かれた作品は、それだけで好感を抱く。もちろんそれらの専門について読者たるぼくは門外漢であり、それらの専門家からすると、デタラメだと指摘される作品もある。しかしぼくがそれと見破れない作品は、ぼくにとっては失敗作ではない。気持ちよく騙し、作品世界を楽しませてくれたわけだから。もちろんそれが出鱈目だと知ってしまうと嫌な気がしないわけでない。そういう意味では勿論、作家に誠実さを求めたいが、そこに拘るものでもない。物語作家とはもともと嘘つきなのだから。
そうであればこそ本から得る知識というものは気をつけなければいけない。物語を読み、知識を得たと思い込んだことが、まったくの出鱈目であることは充分ありうるのだ。いやそれは物語に限らない。人はつい「書物」を信じたがる。活字になり、出版されたものを信じたがる。しかし「書物」は決して真実を記すわけではない。執筆した人間の意志が反映される。とくに「物語」は虚構だ。たとえ最新の科学情報を基に書かれていると「思われ」ても、それを鵜呑みにすることをしてはいけない。「物語」に厚みを増すための「架空の設定」のひとつに過ぎないかもしれない。
もちろんこれは一般論としての話。川端裕人という作家において、出鱈目はないと思う。それは本作(ハードカバー)の解説を見ても解る。しかしこの作品の科学情報は2002年当時の最新の情報であっても、ぼくがこれを再読した2007年の最新の情報ではない。もしかしたら、この作品で書かれた情報は、いまや「間違った情報」かもしれない。そこのところは、もし作品から「知識」を得るということを副次的な目的とするなら注意するべきだろう。そしてまたこのことはこの作品の最大の弱点かもしれない。
あくまでも「物語」としてこの作品を読むのならば、最新の情報が変わったとしても、この作品の発表された時点での「正しい情報」として読者は読めばいい。さきにぼくが述べたとおり、情報はあくまでも「架空の設定」のひとつであり、「物語」という「虚構」を築き上げるためのディティール(細部)にすぎない。しかし科学に真摯であろうとした作家は、この作品のなかでディズニーの描く映画を「あり得ない」ことと糾弾してしまった。それは作家として科学記者を勤めてきた経歴のなかで、警鐘を鳴らしたいことだったのかもしれない。実在した恐竜という存在に対し、こどもに正しい知識を与えたいという想い。作家の願いに似たその想いを理解はできる。しかしそれは、擬人化された動物の物語を、科学的でないというに等しいものではないか。科学的なければ「物語」というものはいけないものなのだろうか。
ぼくは決してそうは思わない。もちろん作家のその真摯な態度を悪く言うつもりはない。しかしそのことが、残念なことにこの作品の普遍性を損ねてしまったように思われる。この作品の拠るところが2002年当時の最新の科学情報であり、それが「正しい」ことを前提に書かれた作品である以上、もしこの科学情報が覆されるようなことがあれば、この作品は成り立たなくってしまうという危険を孕んでいる。この作品は「物語」として充分に成熟した作品であり、「正しい知識」に決して拠る必要のない「虚構」の「物語」としても成立した作品であったとぼくは思う。しかし作家の真摯な姿勢が、逆に作品の普遍性を狭めてしまった。そこがすこし残念に感じられる。


以上は真摯な作家の姿勢対し、真摯にレビューを書いてみようと、客観的にこの作品の弱点を述べてみたぼくというレビュアーの感じたことである。しかし主観的に述べれば、そんなことを気にしなければ、まさに「本当のように嘘をいい」というぼくの大好きな、そして成功している作品である。作品を宗教の世界まで広げてしまったのは、個人的には行き過ぎのような気がしないわけでもないが、この作品の描く物語に、ぼくはひとりの読者としてどきどきわくわくしながら楽しんだ。


物語は大地らが化石を発見したときから幾年か過ぎる。クリス・マクレモア教授という現代古生物界の第一人者のもとアメリカで古生物の研究に勤しむ大地が、手取に戻ってきた。あの化石を発掘するために仲間たち、カーチャ・エフレーモフ、ベン・バルカンとともに。
物語は大地が発見した世紀の大発見竜脚類テトリティタンの化石を中心とし、幾つものエピソードが絡み進む。
大地の弟、海也は大学の農学部を卒業し、手取に戻り農業を行なう。彼はかっての手取高校男子生徒あこがれの的、美子とつきあい、結婚することになっていた。美子は白泉村の村役場に勤めていた。対して高校時代大地たちをライバル視していた辻本は勝峰町の役場に勤め、大地たちの発見が近隣の町村で最大を誇る自分たちの町で行なわれなかったことに不快感を抱き、また自ら将来を見据え動く。あるいはイスラム原理主義者によるクリス・マクレモア教授に対する襲撃があり、一方ファウンデーションを名乗る財団、それはクリスチャン・サイエンティストを標榜する団体が登場する。あるいは恐竜の存在をアメリカに象徴する。化石を調べるなか大地は、恩師であるクリス・マクレモア教授の、従来定説とされていた学説に異を唱える新たな学説を発表する。そして手取の村を舞台にしたふたつの恐竜をテーマにしたパビリオンの建設。そこにまたもや襲い掛かるイスラム原理主義者のテロ活動。そして財団の隠された意志。そのいっぽうでは大地の父である忠明の原発問題を滅び行く恐竜たちになぞらえた取材活動。そしてそれはまた、先に触れたテロ活動とも結びついていく。家族の物語、青春の物語、村おこしと村の対立、竜神の物語、宗教観、化学論議原発問題、この作品こにはさまざまな物語が有機的に絡まりあい描かれている。そして手取の村から始まる物語は、世界に広がり、そしてまた手取の村に戻り、収束していく。生き生きと描かれた登場人物たちと、幾つものエピソードが絡み広がり、そして集約される物語。確かにここには「物語」があった。とても素敵な骨太の物語。


読了してからはやひと月以上。思い入れのある作品ゆえにレビューには手間取ってしまった。書きたいことが山ほどあり、想いばかり逸り、混乱してしまった。このレビューでこの作品の素晴らしさや魅力を伝えられたという自信はない。しかしぼくにとってこの作品はやはり、川端裕人というこの稀有な真摯な作家との出会いの一冊として忘れえぬ一冊であること、これだけは伝えておきたい。正直を言えば、川端の作品で宗教を取り扱った部分については常に拭えぬ違和感を覚えるのだが(それは川端の作品で一番好きな「せちやん」にもあるのだが)、しかしそれでもこの作品のわくわくどきどき感は素晴らしい。幾つかの欠点というか、気になるところはあれど、ぜひ皆に読んで欲しい一冊。とくに最近の、日常生活に沿った少年物語を川端裕人の魅力だと思っている人に、川端裕人のもうひとつの魅力を知ってもらいたい。そしてまた川端裕人という作家には、こういったまさに骨太の作品をたまには読ませて欲しいと願いたい。最近の小説が悪いというわけではない。ただぼくはずっしりとした骨太の長編力作の物語が大好きなのだ。


言い訳:われながらこれはとても中途半端なレビューであると思う。いつか再読した際に、もう少しまともなものを書かせてもらいたいもんだと思いながら、とりあえずアップさせてもらう。

風の墓碑銘(エピタフ)

風の墓碑銘

風の墓碑銘

「風の墓碑銘(エピタフ)」乃南アサ(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、刑事もの、女性刑事


隅田川東署へ来る前は機動捜査隊員として凶悪事件の初動捜査にあたっていた音道貴子にとって、所轄署員の日々はそれが必要なものだとわかっていても、どうしても地味でメリハリがつきにくく、つい物足りない気分となっていた。そんな日々のなか二体の死体が発見されたという通報がはいった。
墨田区東向島の古い木造家屋の取り壊しの最中に、古い二体の男女の白骨死体が見つかった。深く埋められた死体のうち女性の遺体には生まれる直前と思われる胎児の骨が抱えられていた。法律の改正により、殺人事件や強盗致死など、死刑を最高刑とする犯罪に対する公租時効が15年から25年に変更となったのはついこの間のこと。もし法律が改正されていなければこの死体は既に時効を越えたものとして捜査対象とならなかっただろう。
同僚の玉城とともに捜査に当たる貴子。しかし事件は古く、記録もほとんど残っていない。貸家であったその家屋の持ち主である今川という老人も、もはや半分惚け、墨田区の東隣に位置する江戸川区の老人ホーム「ハッピーライフはなみずき」に入居していた。足しげく通う貴子らに対し、なんらの情報も提供できない今川老人。八方塞の日々を過ごす貴子ら。いっぽう貴子の恋人である家具デザイナーである昴一は、網膜色素変性性という先天性の難病に冒されていた。眼の網膜が壊れていき、だんだんと視野が狭くなり、下手をすると失明になってしまう病気。そんななか昴一は貴子の心配をよそに、イタリアに一人旅に出てしまった。そんなお互いの男の話を所轄に来て知り合った数少ない職場の同性の仲間、藪内奈苗と交わす貴子。男の問題さえなければ奈苗は実に堅実で真面目、責任感も強い有能な警官として貴子は信頼している。しかし奈苗の私生活は男に振り回され愚かしい。まさに女なんだ。そして奈苗の目下の悩みはその男が働こうとしないことであった。
特別捜査本部が墨田東署に設置された。そこに妻に家を出て行かれ、男手ひとつで娘二人、息子一人を育て上げた金町署の警部補、滝沢保が派遣され、貴子とコンビを組むこととなった。滝沢と貴子がコンビを組むことは初めてではなかった。滝沢にとって貴子はやたらのっぽの可愛げのない奴で、しかも女ときていた。最初は徹底的に無視してかかったが、しかし貴子はしっかりとくっついてきていた。再度コンビを組むにあたって、滝沢は皆の手前ハズレを語ったが、しかしくすぐったい気持ちにもなっていた。いっぽう貴子にとって滝沢との思い出は、相当な忍耐を強いられたことであった。。今回の組み合わせについて貴子は、滝沢が密かに抱く思いと裏腹に、こんな嬉しくもない腐れ縁もないという思いであった。そんなふたりが真夏の炎天下のもと地道に足を使う捜査を行なう。ときにぶつかり合い、そして少しずつ理解を近づけていく。最後にふたりは真犯人に辿り着ことができるのだろうか。
ふたつの別々の事件が貴子の地道な捜査でひとつにつながり、そして辿り着く真実。地道な捜査こそが、最後に真実に辿り着くと語るような物語。そしてまた事件を追う刑事たちの姿を描くと同時に、それぞれに生活もあれば、悩みもあるひとりの人間としての刑事たちの姿を丁寧に描く作品。ずっしりと重い長編作品。


珍しくミステリーづいている。いっときのように国内ミステリーばかり読んでいる。「ピース」(樋口有介)に続き、本作。このあとは「贄の夜会」(香納諒一)とある意味「男らしい」作品が続く。しかし本作の作家乃南アサは女性である。女性作家ではあるが、ぼくにとって女性作家を意識しない作家のひとり。あたかも男性作家のそれと同じく、この作品も感情ではなく事物をこつこつと積み上げて書く。それが心地よい。何度も書いていることだがどうにも「女流作家」が苦手だ。その要因の一番は感情を中心に描かれることだと、ぼくなりに分析する。女流作家が描く「感情」に沿うことができれば、心地よく作品を楽しむことが出来るのだろう。しかしどうにも居心地の悪さを覚えることのほうが多い。対して男性作家の書く作品の多くは感情ではなく、事物を積み重ねて描くことが多いように思う。あるいは、もっと明瞭で簡潔に気持ちを描くことが多いのかもしれない。これはあくまでも作品のパターンを大きく分けた場合のぼくなりの分類であり、本作のように女性作家であれ事物を積み重ねて描く作家もいれば、男性作家であっても感情を細やかに描く作家もいる。そしてぼくはどちらかというと事物を積み重ねて描く小説を好む。


乃南アサという作家の名前を意識したのは、おそらく「6月19日の花嫁」が映画化とともに話題になった頃だと思う。そしてそれを読みんだとき、やはり「女流作家」だなと思った記憶がある。しかしたぶん「このミス」あたりの紹介だったろうか、本作の主人公音道貴子の活躍する「凍える牙」を読んでみて、この作家に対する印象を随分変わった。え?これを女性作家が書いた?そしてまた、話題になっていたのは知っていたが、それまで女性作家ということだけで読むことを避けていた高村薫の「マークスの山」や「照柿」をこの頃に続けて読んだ。こうした出会いがあったおかげで、ぼくの女性作家に対する食わず嫌いは矯正された。随分女性作家を読むようにもなった。


さて本作。さきに触れた女性作家らしくない作品「凍える牙」の主人公音道貴子のシリーズの最新作となる。しかし残念なことに、過去のシリーズの内容がまったく記憶にないことに気づいた。主人公の名前はなんとか記憶にあったが、ぼくの知っている音道貴子は、女性ながらでかいバイクに乗っていたはずだった。しかし本作では「最近ではエンジンをかけることさえほとんどない」ようである。そして昔なじみの相方である滝沢にいたっては、正直、記憶の断片(かけら)さえなかった。
しかしそれでもこの作品は問題がない。シリーズの一冊でありながら単独作品として通用する作品、ぼくはこういう作品こそ本当に力のある作品として高く評価したい。もちろんシリーズの記憶があれば、さらに楽しめる作品であったと思う。そこは正直残念に思う。しかしシリーズの一冊であっても、この作品から読むことができ、かつ一定の水準を持ち楽しめるということこそ、「ひとつの作品」として重要なことであろう。そういう意味で充分、万人にオススメできる一冊。
ただこの作品を楽しめるかどうかは、個人の読み手としての資質が大きく関わることは間違いない。地味で、堅実なミステリー。まさにリアリティーあふれる刑事モノのドラマ。そこには華やかな仕掛けも、心揺さぶる大きな感動もない。ただ地道な物語を楽しむ。作家の手により丁寧に積み上げられた描写のひとつひとつが、音道という不器用で誠実な女性刑事を、あるいは滝沢という、老練な少し意地悪だがしかし真に力を持つ者を正当に評価するさまをリアリティーを持って描く。それぞれの人間像を楽しむという楽しみはある。しかしそれはたぶん随分、地味な読書の楽しみであって、一般的に万人向けではないかもしれない。
そういう意味でぼくの言う「男性」向けの作品。しかしそういう作品が好きならば、読む価値は勿論あり、だ。そしてこの作品もまた、この前に読んだ「ピース」(樋口有介)同様、いまどきでない古臭いミステリーのひとつかもしれない。


蛇足:しかし真犯人の身勝手な論理に、ぼくはいまひとつリアリティーを覚えないのだが、現実にはこういうことがあるのだろうか。
蛇足2:備忘として。24年前自宅で父と姉を惨殺され、生き残った長尾広士青年。母の行方は不明。豆腐屋を営む祖父母に育てられた。一時荒れていたこともあったが、いまは老人ホームで真面目に働く青年が物語の重要人物。
蛇足3:滝沢刑事。どうしても泉谷しげるをイメージしてまうんですけど(苦笑)

ピース

ピース

ピース

「ピース」樋口有介(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、秩父、田舎

前作「月の梯子」http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/27331506.html を評したとき「青春ハードボイルド(?)の雄、樋口有介はどこへ向かおうとしているのだろうか」と述べてみたが、本作もまったく同じ言葉が当てはまる。読み始めてまず思ったのは、なんて古臭いミステリーだろうということ。

秩父の町にある場末のバー、ラザロというスナックに集う人々。60を過ぎたぎょろりとした目のマスター八田、八田が連れてきた彼の甥だという梢路、アルバイトの珠枝、そして昼間は主婦や子供にピアノを教えている東京から流れてきたピアニストの成子、常連の写真家小長克己、セメント会社の技術者山賀清二、秩父新報というミニコミ誌に近い地元紙の41歳バツイチ記者香村麻美、そして店のだれとも親しく話す姿を見せないアル中と評判の美人女性大生、樺山咲といった面々。ただ淡々と静かに酒場で過ごす人々の姿から物語は始まる。
物語はピアニストである成子の死から始まる。長瀞で発見された彼女の死体は、同じ埼玉県の寄居町で起こったとある歯科医の殺人事件と同じようにバラバラ死体として発見された。
定年をあと二年に迎えた県警の巡査部長坂森がこの事件の担当となった。秩父で生まれ育った彼は、しかしその年齢とともに実家とも疎遠になっていた、しかし染み付いた方言はこの事件の担当となったときに自然と口から流れて出ていた。「はぁ」「ほうけぇ」。

秩父という平和な田舎町で起こった、連続バラバラ殺人事件という驚愕すべき事件を扱う作品でありながら、樋口有介の静かな筆致は、物語を坦々と綴っていく。樋口有介といえば、ユーモアとシニカルを織り交ぜた軽妙な筆致がその特長であり、大人を描いていていても、それはともすれば大人になりきれない大人を描く「青春ハードボイルドの雄」であると思っていた。それだけに、この作品の始まり、そして綴られる物語は老練な手だれた小説家のそれのようであり、ぼくの知る「樋口有介らしさ」とはまったく違うものであった。正直に言えば、読みづらい小説であった。大きな事件のはずなのに淡々と静かに語られる。この作品の行き着くところはどこなのだろう。そう思いながら、正直に言えば、かなりの違和感を覚えつつ我慢しながら読み続けていた。

あぁ、やられた。
物語はほぼ後半も半分も過ぎたころだろうか、この物語の転機は訪れる。なるほど、そういうことだったのか。「ピース」というタイトルの意味がここにあったのかと、唸らされた。とても凡庸なタイトル。本書のオビには「連続バラバラ殺人事件に翻弄される警察。犯行現場の田舎町に<平和>な日々は戻るのか。いくつかの<断片>から浮かび上がる犯人とは。陰惨な連続殺人は<ピース>によって引き起こされた?!」。なるほど「<ピース>によって引き起こされた」事件。なるほど<ピース>か。

警察の懸命の捜査に関わらず、連続殺人事件については一向に解決の目処が立たなかった。同じようにバラバラにされた被害者ふたりの共通点は何か。その共通点を見出すことがまず第一。被害者ふたりの共通点はともに東京にある。大勢の捜査官を投入して捜査にあたる警察。しかし第三の被害者が現れた。今度の被害者は田舎町を一度も出たことのないような、いまだ実家から独立もできないでいる、その日暮しで過ごす中年にまもなく手が届くような独身男であった。いったい三人に被害者の共通点はどこにあるのだ。

坦々と、地道に捜査を続ける田舎町の警察官たち。捜査のあとには行きつけの料理屋で、捜査活動と称し捜査費を使い同僚たちと喉を潤す姿。そんな刑事のひとりである坂森は、捜査の先でかって同期であり公安にいた八田が被害者の働くバーのマスターであることに気づく。マインドコントロールを武器としていたと言われる八田。彼は、ある事件で自分の手駒となっていた男の死によって警察を辞めたと噂で聞いていた。
いっぽうラザロの常連である秩父新報の記者麻美は、その若さに似合わず女性に対するテクニックの一遍でない梢路と肌を合わせながら、密かに梢路の過去を探る。そして驚くべき過去を知る。果たして犯人は誰か?その犯行理由は?

まず、この作品はミステリーでありながら決してすべての謎を解き明かしてくれるわけではない。そのことをよしとするか、はたまた物足りないとするか、そこのところで評価は分かれるだろう。事件の謎は、坂森という田舎の刑事に仮定として述べられるとどまる。確かに連続殺人事件の謎は語られるかもしれない、しかしそのほかに作品のなかで、静かに散りばめられた謎の幾つかはそのままにされる。それが奇妙な、静かな余韻を作品に残す。彼らはその後も、おそらくただ淡々と生活を続けていくのだろう。

最後の事件があまりにそれまでと趣きが違うとか、最後に<ピース>はどうなるのかとか、謎が放置されたままにされているのはやはりどこか釈然としないとか、そういう思いは確かにある。しかし、この大人の小説の余韻というか、雰囲気はどこか何者にも代えがたい魅力を覚える。

樋口有介はもはや「青春ハードボイルドの雄」ではないのかもしれない。この一冊は過去の樋口有介の姿に囚われることなく、新たな樋口有介の魅力を堪能するべき一冊なのかもしれない。
とても古臭いミステリー。しかし驚くべきその犯行理由を、静かな大人の筆致で描く作品。
評価は少し甘めであるが☆四つの価値はあり。久々に隠れた名作をオススメしたい。

蛇足:というわけで、最近樋口有介の魅力を知ったまみみさんにオススメです(笑)。
蛇足2:一般的には樋口有介は「青春ミステリー」作家と言われてます。

ラストワンマイル

[rakuten:book:11914025:detail]
「ラストワンマイル」楡周平(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、ビジネス、運送業、新規事業開発


「ラストワンマイル」楡周平(2006)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、ビジネス、運送業、新規事業開発


暁星運輸本社営業本部広域営業部、そこはコンビニのように全国に散らばる店舗を本部交渉によって、一気に契約を纏め上げる営業部門。暁星運輸の売り上げの20パーセントを稼ぐ部門である。本来、銀座のクラブで頻繁に接待を行なうような部門ではない。しかし本部長寺島はその実績をもとに放蕩な交際費を使っていた。そんな彼の部下である横沢が、ある日、本部長寺島の同行による訪問を、お得意先であり独占契約を結ぶ大手コンビニ・ピットインから申し出された。果たしてピットインからの申し出は、郵政省民営化に伴う、宅配の併売の申し出あった。国民の税金を元手とした郵政と民間企業との勝負は、戦う前からその勝負は火を見るより明らかである。ピットインからの申し出をここで断っても、契約更改の時期には条件変更で押し切られてしまう。コンビニ相手の商売であぐらをかいていた広域営業部、いや宅配業者の危機が訪れた。さらに同じ大手コンビニであるエニタイムからも同じ申し出が提示される。
「蚤の市」そこは現在ネット上、最大のショッピングモールのふたつのうちのひとつ。もとは十畳ほどのマンションの一室で始められたベンチャー企業であったが、いまや幾つもの企業買収を行ない大企業に成長していた。都心のランドマークとなる赤坂タワーに事務所を構え、その社長武村はIT企業のカリスマとしてマスコミにもとりあげられる。その会社を横沢は起業のころに知った。その将来性に目をつけ、会社の反対を押し切り取引を開始した。客を育てるのも営業の仕事だ。横沢の願いどおりに大きな企業なった「蚤の市」。しかしその社長武村は、いまやその創業時にともに語った夢を忘れたかのように雲上人となっていた。「蚤の市」を育てるといった手前、破格の運送料を提示した暁星運輸にとってその扱い量に対し、決しておいしい商売とはいえなかった。起業が育ち、値上げ交渉を望んでも、値下げ要求しないことが恩返しとばかりの態度をとってきた「蚤の市」。そんな「蚤の市」が、ある日郵政の攻勢に追い討ちをかけるように、条件の変更を申し出てきた。他の出店と同じように扱い高に対して手数料を願いたい。
ふたつの大きな悪条件を提示され、暁星運輸本社営業本部広域営業部は、いや暁星運輸はかってない境地に立たされた。この逆境を彼らは果たしてどのように乗り越えていくのか。
「ラストワンマイル」それは顧客にサービスを届ける最終地点。ラストワンマイルの意地をかけ逆転の発想で臨む宅配業者の姿を描いたリアリティーあふれるビジネス小説。同じフランスの哲学者アランの言葉「安定は情熱を殺し、緊張、苦悩こそが情熱を産む」という言葉を座右の銘としたふたりの男の姿。最語に天が微笑むのはだれか?


結果として久々に超辛口レビューとなってしまった作品(「雨のち晴れ、ところにより虹」(吉野真理子))のあとに読んだのがこの作品。丁度、久々に読み企業小説を読み、思いもかけない楽しさと、そして感動を覚えた「空飛ぶタイヤ」(池井戸潤)[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/43928568.html ]に引き続くような企業小説。いや、経済小説、ビジネス小説といったほうがぴったりくるか。前作「再生巨流」[ http://blogs.yahoo.co.jp/snowkids1965/17241610.html ]に引き続き、楡周平がふたたび経済小説を上梓した。前作はロジスティック(物流)と文具カタログビジネスをテーマとしたが、本作も宅配業者の生き残りとネットビジネスをテーマにした。物流業者をテーマにしたことが、ふたつの作品で重なるがまったくの別作品。おそらく作家は、前作の取材のなかで本作のテーマを掴んだのだと想像する。しかし別作品であるものテーマが同じだと一見、同一作家による二番煎じに見えるのが残念。個人的にはとても楽しめた作品であるがゆえに残念と思う。もったいない。


以前より語っているが「物語」が好きだ。大きく流れる奔流のような、あるいは骨太な骨格を持つ物語。もちろん繊細な描写でかすかに揺れ動く心情を描くような作品が嫌いだとか、認めないとかいうわけではない。そういった、たおやかさやしなやかさを持った作品とて決して評価しないわけではない。しかしセクハラ発言かもしれないが、いわゆる「女流」作家の描く作品には、ぼくにとって感心しないもの、居心地の悪いものが多い。心情を描くことを旨とするような作品たち。わからないわけではないが、共感できない。これはもはや相性なのだろう。それらの作品に多い「わたしが、わたしが」と訴えるような小説はぼくに合わない。つまりぼくは物語が好きな読者なのだ。


さて本作、間違うことなき骨太の経済小説。ビジネスで窮地に追い込まれた主人公が、窮鼠猫を噛むではないが、土壇場の逆転アイディアをもとに、起死回生を狙う物語。まさしく奔流となる「物語」を追い、楽しむ作品。運や、人の縁などに助けられ、しかしすべては主人公の信念と、それに支えられた行動により物語は進む。真摯に誠実で誠意ある行動、逆境のなかであきらめず正しくひとがあるべき姿で行動する主人公に対し、最後に天は微笑む。そういう物語にひとは魅かれる。お約束の物語。細かく言えばそれぞれの登場人物の「人間」まで書けていないとか、あたかも「駒」のようというような評価があったとしても否定はできない。もしそこまで書けていれば更にもう一歩進んだ「小説」になりえるのかもしれない。しかしこの作品が失敗作かといえば、決してそうではない。仮に更に一歩進む余地を残しつつも、充分楽しくおもしろい作品であり、そういう意味で成功した作品といえる。深さは不足するかもしれないが、充分に万人にオススメできる物語作品である。


ところで本作は経済小説、あるいはビジネス小説としては典型ともいえる、ある実際の企業とその動きをモデルにしている。ここでぼくは「リアル(真実)」と「リアリティー(本当らしさ)」に触れてみたい。年初来書き進んでいない「竜とわれらの時代」(川端裕人)のレビューでも少し触れているのだが、物語は決してリアルである必要はなく、リアリティーがあればよいのではないかとぼくは思っている。つまり、本当にように嘘を言い。フィクション(虚構)たる小説では、本当らしく読者を騙しきれるなら、多少の嘘や間違いは、糾弾されるべきものではないと考える。尤もそれがゆえに、書物(とくに小説)から得る情報は、疑ってかからなければいけないのではなないかと思う。
しかし反面、小説の楽しみ方のひとつに、書物を読むことで得る「知識」という部分も決してないがしろにはできない。この辺りの線引き、あるいは「あり方」というものが最近、ちょっと気になる。さて本作の属するビジネス小説というジャンルにおいては、この「リアリティー」の部分は、きわめて「リアル」に近いことを要求される分野であろう。しかしその「リアル」が、ときにこのジャンルの作品の普遍性を殺ぐ。本作の場合、ネットビジネス(モール)と物流の問題を扱っている。具体的には郵政省の民営化に伴う、宅配業者の苦境、この作品の場合そこに追い討ちをかけるような悪条件が提示される。この逆境を主人公は、新たなビジネスモデルを構築することで立ち向かう。この作品の素晴らしい点は今まさに行なわれている郵政省の民営化に追い込まれ、対抗する宅配業者の対抗手段が単純な直接対決ではなく、実現可能と思われる(思わせる)新たなビジネスモデルを提示することである。新たにリアリティーのある活路を見出すこと。そして宅配業者の物語でありながら、また現実にあったあるIT企業のテレビ局買収事件を、また別の物語(エピソード)として描き、それをうまく物語に取り込みつつ、現在のビジネス界での出来事ととしてわかりやすく解説している。
しかしこの二つの長所は、また両刃の剣のように作品の欠点となりうる部分でもある。発端は、国家の税金を後ろ盾にした郵政省(官)の民間企業への仁義なき殴りこみであった。現実問題として、郵政省(官)の殴りこみに対して直接対決することは非現実的なことであろう。そこで物語は現実的な観点(つまりリアリティーより)、郵政省(官)ではなく、さらに追い討ちをかけてきた別の敵、IT企業(民)を対決すべき敵とみなし対抗する。しかし最大の敵(官)と主人公たち(民)が対決することを避わし、終わってしまったことに若干の不満が残る。「物語」とは最大の敵を倒してこそカタルシス(爽快感)を得、味わうものだろう。そこがこの作品では解決されていない。また現在の、現実の問題を描くこと、見事に解説したことは、その物語の描かれる「時点」に束縛されることになってしまう恐れを生んだ。ビジネス小説のなかには勿論、「時点」の束縛に縛られることのない普遍性を持つ名作たりえた作品がないわけではない。例えば「空とぶタイヤ」(池井戸潤)のレビューでも触れた「沈まぬ太陽」(山崎豊子)、あるいは「粗にして野だが卑ではない―石田礼助の生涯」(城山三郎)、あるいは柳田邦夫をはじめとした幾人かの作家の作品もいくつか思い浮かぶ。しかしとはいえこのジャンルの作品に、時点に束縛され色褪せてしまった作品が多いこともまた事実である。この辺りをこの作品が越えたかどうかは正直、疑問。ビジネス小説というジャンルにおける傑作が、かならずしも小説というジャンルにおいては名作たりえない、このことは痛痒なる事実なのかもしれない。
確かに人間を深く掘り込んで描けば、ビジネス小説も「小説」として名作となることは先にあげた名作たる作品たちを思い浮かべれば明らかである。しかしそれでは「ビジネス」は舞台にしか過ぎず、その本当のテーマは「人間」でなければいけないとなってしまう。しかしそれではビジネス自体をテーマにした作品は、「時代」を過ぎたとき読み棄てられる運命となのだろうか。ビジネス小説というジャンルはそういう意味で、単なる娯楽小説、あるいは時代の教養小説にしか過ぎないのだろうか。作品のレビューとしては、ちょっと横道に逸れすぎたようだが、レビューを書きながら新たな課題をつきつけられたような気がしてきた。作品を客観的に評価する重要なポイントに、時代に束縛されない「普遍性」というものが重要なものだとぼくは考えてきた。しかし、それはもしかしたら違うのかもしれない。


蛇足:本作品をおもしろく、かつサラリーマンとして見習うべき姿として読むことができた。しかし敢えて難を言えば、現代の現実を書いた小説としては不足を覚える部分もあった。本作品ではネットのショッピングモールについて集客についてのポイントを重要な部分としてとらえている。しかし集客もさることながら、出店者のサービスの品質をどのように高く維持させていくかということも大事な問題であろう。注文しても、すぐ対応できない「店」が並ぶようなでは顧客は満足しない。ネットモールをテーマにするならば、そこのところをもっと深く切り込んで欲しかった。ネットモールの、顧客の取り込みのためのインセンティブ手段なども、どうせなら解説してほしかった。