天使のナイフ

天使のナイフ

天使のナイフ

「天使のナイフ」薬丸岳(2005)☆☆☆☆★
※[913]、国内、現代、小説、ミステリー、少年犯罪、


※あらすじあり。未読者は注意願います。ネタバレはたぶんしてないと思いますが・・。


あれだけ話題となっていた作品を、いまさらながら読んだ。あぁ、なんでもっと早く読まなかったのだろうと後悔すら覚えた。まさにオススメ作品。読め、読め、読め!


チェーンのセルフサービスコーヒーショップのオーナー店長である桧山は、今朝も娘の愛実を連れ、大宮駅前のテナントビルのなかにある無認可保育園に愛実を預けるために電車に乗った。保育園では、いまどきの若い女性にしては珍しいほどに飾りけのない、清廉で爽やかな笑顔をもつ保育士、早川みゆきに迎えられ、いつものように愛実を預けた。桧山の抱えるいろいろな事情を知るみゆきであるからこそ、愛実のことを安心して託すことができた。
店では桧山に来客があった。埼玉県警の三枝。四年ぶりに会う三枝は、大宮公園で前夜殺人事件があったことを桧山に告げた。被害者は「少年B」。それは四年前、幸せの絶頂にあった桧山の家族を襲った事件の犯人のひとりであった。
四年前、桧山の妻祥子は住んでいるマンションの一室でベビーベッドに眠る娘を残し、殺害されていた。警察の捜査により、犯人は遊ぶ金欲しさの中学一年生、13歳の少年三人であることが判明した。しかし捜査はそれまでとなり、彼らは逮捕されることはなかった。
刑法四十一条、十四歳に満たない者の行為は罰しない。この法律の一文のために犯人だとわかっていても少年たちは逮捕されることなく、補導、保護の対象となった。十四歳未満の少年は刑事責任能力がない。刑罰法令に触れる行為を行なっても、犯罪ではなく、彼らが犯罪者として罰せられることない。行政機関によって、犯した罪を反省し、更正するよう取り組まれる。刑事である三枝は諦念の表情で桧山に伝えた。
そしてまた少年法は罪を犯した少年たちの人権を保護し、被害者に対してあらゆる情報を隠匿した。桧山の耳に少年たちの審判結果が届いたのは、マスコミの取材のなかからであった。司法は最後まで法律を遵守し、被害者からの抗告を受け入れることはもとより、その結果さえ教えてくれようとはしてくれなかった。審判結果は保護処分であった。その結果を聞き、いやあるいはその過程を通し、桧山は、本当に憎いのは祥子を殺した犯人であったはずなのに、いつの間にか警察やマスコミや司法界全体を憎悪していた。平凡な日常生活を営み、ささやかな幸せを営む一般市民を守ってくれるのが、警察であり法律なのではないのか。マイクを向けられた桧山はついに気持ちを吐き出してしまう。「国家が罰を与えないなら、自分の手で犯人を殺してやりたい」
保育士のみゆきは、祥子の葬式の際、中学時代の塾のときの知り合いだと訪れ、甲斐甲斐しく手伝いを買い、まだ生後五ケ月の愛実の面倒をみてくれたのだった。


あれから四年。犯人のひとりが殺された。そのこときっかけに桧山は犯人である少年たちのことを知りたいと思った。そして「少年B」沢村和也が生活をしていた保護施設に辿り着く。保護施設の責任者から聞いた沢村の生活、それは桧山が想像を裏切るものであった。沢村には後悔の罪悪感があった。その言葉を鵜呑みにはできないとしても、桧山の胸中には割り切れない思いが浮かぶのであった。なぜ彼らはあんな事件を起こしたのだろうか。
残りの犯人たち、少年A、八木将彦、あるいは少年C丸山純のことを調べる桧山。反省の色を見せない年賀状を友人に送っていた八木、自らも被害者であると言っていたという丸山の母親。彼らにとって祥子を殺害したという罪は、どのような意味をもっているのだろう。やるせない思いを抱く桧山。
そんななか少年C、丸山が鉄道のホームから落とされる事件が起きた。奇跡的に傷一つ負うことなく済んだ丸山。しかし過去の事件と、事件の犯人の少年たちに起こった連続した事件、事故、それはまたもや桧山をマスコミの取材対象のきっかけとなった。店に押し寄せるマスコミの記者たち。そんな桧山を支える店のバイト店員、福井。
店に出ていればマスコミの取材に囲まれ営業に支障をきたす。事務所に篭り事務仕事をする桧山。しかし、仕事がはかどるわけでない。看護士を目指し、休憩時間に事務所でも勉強をしているアルバイトの歩美の様子を見、妻祥子のことを思い出す桧山。祥子もここで看護士を目指し、バイトしながら勉強をしていた。そんな思いを抱く桧山に少年A、事件の首謀者である八木から電話がかかってきた。俺たちを恨むのはお門違いだ。おもしろいものを見せてやる。さいたまスーパーアリーナで会う約束をした桧山であったが、娘の急病のため約束の場所へ行くことができなかった。病院からもどってきた桧山を待っていたのは、八木が殺害されたという報らせであった・・・・。


四年前の殺人事件の犯人たちが、事件から四年のときを経て次々と襲われる。犯人をもっとも憎んでいるはずの主人公である殺人事件の被害者の夫にも何が起きているのかわからない。そして浮かびあがってくる真実の姿。それは四年前の事件の真実であり、あるいは愛する妻の過去の姿。そして最後には想像をもつかないどんでん返しが待っていた。


ぼくがいまさら言うまでもなく、とてもよくできたミステリー作品。江戸川乱歩賞を受賞し、その後もマスコミで取り上げられ、あるいはネットでも多くの人が評価していたことは妥当であった。タイミングを見事に外し、やっと今頃読むことができた。まったくいままで何をしていたのだ。
なるほどミステリーとしても、あるいは問題提起の社会派小説としても多くの人が評価するだけのことはある。ことに「少年法」と「被害者の権利」を巡る問題の提起については、いい意味で中立の立場にあり、それぞれの立場の言いたいことをきちんと書いている。主人公の桧山が、当初自分の味方だと思っていたため、裏切られたと感じる、どっちつかずにうまく立ち回るライター貫井の姿。しかし彼の本心は、あえて中立を貫き、両方の言い分をどちらに寄ることなくきちんと書き、問題を提起することだった。そしてその姿は、ぼくにはとても清々しく思えた。一時的にどちらかに拠り、声高に代弁者を気取り、扇情的に煽るマスコミの姿に対する、彼の客観的、理性的な姿はとても好ましく感じた。
こういう問題は、論争という観点から、どうしてもそれぞれが極論に走りがちになる。どちらかに寄って感情的になってしまうことも多い。そのことを書きたい作品であれ、ときにそれが過ぎると、読者はしらけてしまう。そういう意味でこの作品の、悪く言えばどっちつかず、よく言えば読者に判断を委ねる中立の姿勢をぼくはとても好ましく感じた。
おそらく簡単に結論は出ないだろう。いや、出してはいけない。この問題提起を、読者は真摯に受け止め、自分なりに調べ、そして自分なりの考えをまとめていかなければいけないのではないか。それが、この作品の「問題提起」という部分を評価する者が行なうべき姿であろう。
この問題が難しいのは、本来、人間とは、ひとりひとりが別のものであり、その「人間」という存在に対し、遍く、等しく同じ法律を適用するとことの困難さであろう。平等、公平とはなんだろう。本書で言えば、起こした犯罪を反省する「少年B」沢村に対して、反省の色を見せない「少年A」八木。このふたりに同じ法律を適用することが、本当に平等で、公平なのだろうか。
読書は勿論、いろいろな楽しみ方がある。しかし楽しく読むという行為に並行し、ぼくらはそれだけで終えることなく、人として考えることも必要なのではないだろうか。


そういう意味では、この作品については「ナイチンゲールの沈黙」(海堂尊)のレビューでも触れたのだが、個人的にはミステリーが本当に必要だったのだろうかと思うところもあった。二転三転の展開、最後には納得のいくどんでん返し。その構造は確かにミステリーであり、この謎解きがあればこそ、。の作品は江戸川乱歩賞受賞なのである。しかし作品が最後のどんでん返しの前までに積み上げていた社会派小説としての問題提起に対して、このミステリーはとても力が強く、作品を必要以上にエンターテイメント色(娯楽色)の強いものにしてしまったような気がする。そこが意固地で偏屈な読者であるぼくをして、☆をひとつ落とさせた。いやそれは本当に瑣末な問題なのだ。
勿論、作家が江戸川乱歩賞に応募したということが、あくまでも「社会派小説」でなく「ミステリー」を書きたかった証明なのかもしれない。ならば、ぼくの想いなど本末転倒の余計なお世話だ。しかしそうならばこそ、さらに多くの読者に訴えたい。この作品については良質なミステリー、娯楽作品を読んだだけで終わらせてはいけない。考えるきっかけにするべきだ。伊坂幸太郎「魔王」のなかのセリフではないが、「考えろ。考えるんだ。」その言葉を、この作品を読む多くの読書人に伝えたい。


いまさらながら、オススメの一冊。


蛇足:レビューを書きあぐねている間に「東京公園」(小路幸也)に出会った。そのなかのエピソードのひとつが本作に重なり、思わず涙がこぼれてしまった。
それは登場人物のひとりが、少年のころ傷害事件を起こし、反省し、謝罪する。その彼を受け入れ、赦す被害者の家族。あなたはマイナス100から始まるの、だからその目盛りを埋めていかなければいけない、怪我を負った被害者の奥さんはそう言った。そして目盛りが埋まったとき、彼は被害者の家族と友人となった。
もちろん物語のなかのきれいごとと言ってしまえばそれまでなのだが、少年法の精神も決して間違ってはいないのだなと、思わずにはいられなかった。ひとは変われる。
そしてまたぼくも、強く、優しい人間になりたいなぁ・・今更ながら思わずにいられなかった。